33.傍から見れば、それはとても愚かしいやりとりかもしれないけれども。
『の~ぱそ』は、実に使い勝手がよかった。
最初はどうすればいいか戸惑うばかりだったが、家でこっそり猛特訓した結果、普通のノーパソよりも使いやすいと感じるようになってしまったほどだ。
月香は、粗悪な紙に『の~ぱそ』で図面を作成し、それを近くにいた同僚の一人に手渡した。
「この間の、図書館の整理の計画です。検討してください」
「あ、ありがとうございます。助かります」
そばかすの残る童顔の青年は、図面を指で確かめるように辿っていた。
「本の分類の方法も、会議の結果大好評でした。あんな方法を思いつくなんて、すばらしい発想です」
「いえ、あれは……」
月香はあわてて手を振った。
図書館の本の分類方法は、言うまでもなく自分の世界のものだ。考えついたのは、確か昔のイギリス人だったはず。
パソコンでデータベース化するようになって久しいが、昔ながらのアナログな方法も役に立つものなのだ。
「月香さん、すみません。殿下の今月のご予定をまとめてきました」
部屋に入ってきた少女が、そのまま月香に駆け寄ってくる。年は若いが、彼女も官僚の一人だ。
「ありがとうございます」
紙の束を受け取り、月香は枚数を確かめながら自分の机へ戻った。
本来、自分の仕事は秘書官なのだ。なのに気づけば図書館の本の分類・整理法の改正だとか、戸籍整理のノウハウだとか、正しいトイレの使い方だとか、掃除当番制度の制定だとか、わけのわからない仕事まで引き受けてしまっている。
情報の共有、という、月香にとっては基本中の基本である考え方もなぜかこの世界では存在しなかったらしい。王宮なのに。国の中枢なのに。
よって、月香が最初にエリューシアに直訴したのは、掲示板を作ることだった。重要機密は別だが、周知しておかなければならない情報はそこに張り出し、必要な期間を過ぎれば破棄する。
例えば第一王子付きの従者や官僚が把握していなければならないのは、何をおいてもエリューシアの動向である。月香はこれを『の~ぱそ』で月間予定表にまとめ、掲示板に張り出すようにした。
今では、同僚達はまず掲示板を確認することから一日の仕事を始め、必要ならばそれを書き写して携帯するようになった。ちなみに手帳というものもなかったので、これも月香は支給制にするよう提言した。
社会人の鉄則、ホウレンソウ。
おひたしにしたらおいしい栄養満点の野菜ではなく、報告・連絡・相談。
おかげでようやく、最近は業務がスムーズに進むようになってきた。
月間予定表を作り終えると、月香はさっそく掲示板に貼りにいった。『の~ぱそ』のおかげで、自分の手帳にはコピー&ペーストできるのがありがたい。せっせと手書きで書き写している同僚には申し訳ないが。
再び机に戻り、腕時計を見るとそろそろ終業時間が迫っていた。
月香はふっと息を吐き出し、机周りを整頓する。スムーズに帰宅するため、終業時刻が近くなったら片付けられるものは片付ける習慣がついているのだ。
鞄に手帳をしまおうとして、がさりと手が何かにぶつかった。
なんだろうと覗き込むと、ファンシーなラッピングが目に入る。
「忘れてた」
昨日もらったクッキーだ。
夕飯を食べたらお腹が一杯だったので、そのまま鞄に入れっぱなしにしていたのだ。今日の休み時間にでも食べようと思って。
顔を上げて、室内を見回す。みんな忙しそうにしていて、お菓子を配る雰囲気ではない。
しばらく考えて、月香は静かに包みを持って部屋を出た。
エリューシアはあまりお菓子に興味はないようだが、妹のアステルは好きではないだろうか。女の子だし。彼に言付けて渡してもらえばいいと思ったのだ。
ルドルフも言っていた。手作りだからあまり日持ちはしないと。今日また持って帰っても、また食べ忘れそうな気がする。それなら、せっかくだからすぐ食べてくれそうな人に渡せばいい。ルドルフとマネージャーには申し訳ないが。
「あ、月香さん」
がろがろという音が後ろから追いかけてきて、聞き覚えのある声が彼女を呼び止めた。振り返ると、ワゴンを押したアンジュが微笑んでいる。
「こんにちは」
「……こんにちは」
他に適当な言葉も見つからず、月香は挨拶して会釈した。
「今日は朝からお見かけしませんでしたね」
「ええ、ずっと仕事で部屋に籠もってました」
答えたものの、それからどう続けるべきか月香は困った。
彼は、神殿から寄越された異世界の巫女姫の相談役だが、実際のところ彼と接する機会はあまりない。特に月香と琴音にそれぞれの仕事が割り振られて以来、あまり彼と話すこともなくなった。
声をかけてきたアンジュもそれは同様だったのか、口を開きかけて閉じてしまう。
気まずい。
どうしよう。
天気の話でも振るべきか。
しかし月香が今の空模様を確かめるべく窓の方に視線を転じようとした時、アンジュもやっと会話の糸口を発見したようだ。
「それ、なんですか?」
「え?」
アンジュの視線を辿ると、月香の持っている包みに行き着いた。
クッキー。
連鎖的に思い出されたのは、少し前に二人で甘いものを食べに王宮を抜け出した時のこと。
「よかったら、どうぞ」
「え?」
「いただいたんですけど、食べるタイミングを逃しちゃって」
包みを渡すと、アンジュは目を見開いた。大きな青い目に、どういう加減か星の筋が入ったように見えた。
綺麗、だった。
だが感嘆の溜息をつくよりも早く、月香の理性は次の行動を彼女に催促してくる。
「じゃあ、私はこれで」
回れ右。前進。
終業時間は近いが、もう少し仕事は残っている。明日の準備も済ませてから帰りたい。
常に彼女の思考と行動はそんな風に先へ先へと進んでいって、同じところに留まり続けるのは不得手だ。
というよりむしろ、落ち着かない。
だからいつもなら、月香は早足で仕事場に向かうのだった。
いつもなら。
「月香、待って」
がろがろという音と一緒に追いかけてきた神官が、後ろから月香の腕を掴まなければ。
「っ!」
驚いて、月香は振り返る。星を閉じ込めた青い瞳は、一瞬だけ張り詰めてひび割れそうに見えた。
でもすぐに、彼は目を伏せてそれを隠す。
「すみません、でも……ええと、そう。確かもうすぐお帰りになる時間ですよね?」
「ええ……」
気まずげに月香の腕を解放して彼は一歩下がったけれど、彼女はその場に立ち尽くしたままでいた。
ざわついている。胸の内が。
不安、と呼んでもいいような何かで。
なのに、動けない。動こうと、思わない。
「急いで帰宅する用事はありますか?」
きっとそれは、尋ねてくるアンジュの横顔が、揺らいで見えたから。
月香の知らない感情で。
「いえ、特には」
「そうですか……。だったら」
曖昧に表情を決めかねたままで、彼は月香を見返す。
「これ、一緒に食べませんか?」
落ち着かない。
月香は唇を引き結ぶ。
首の後ろが引き攣って、喉が内側から絞られるようだった。
不安。
ふわふわと、大地から離されてしまうようで。
これは、アンジュのせいに違いない。他には思い当たらない。
けれど。
「……ええ」
けれど月香は、気づけば頷いていた。