30.くまとクッキー
「なるほど。それで華乃子が正面から外交でぶつかるのと並行して、人質を捜そうというわけか」
「そうっぽいです」
本当はもっと難しそうな言葉が頭の上を飛び交っていたのだが、琴音がようやく理解できたのはこれくらいだった。
「しかし、仮に地下牢をすべて探すにしても相当時間がかかるだろう。琴音と月香、清子も加わるとしても、牢をのぞいている間に見つかる可能性は高い」
いつもの事務所のロココ調のソファーにくつろいでいるマネージャーは、綺麗な手つきでお茶のカップを傾けながら眉をひそめた。
琴音はうなずいて、懸命についさっきの話し合いを思い出す。
「はい、でもある程度は、閉じこめられている人がいるかどうかを確かめるための魔法で何とか見当をつけられるんだそうです。まさか満杯ってことはないだろうから、それで絞り込めるだろうってアンジュさんが」
「なるほど。だが、牢には見回りがいるだろう。それをやり過ごしながら目的の人物を捜さなければならないのは変わらない。何より、囚人が逃げたことをどう取り繕うつもりなのだ?」
「えっと……」
琴音は必死で記憶を辿った。
何しろ、皇太后様も王子様もレナードもアンジュも、矢継ぎ早に難しそうなことをああだこうだ発言するのだ。途中まではノートを取っていたが、だんだん理解も筆記の手も追いつかなくなってしまった。
「月香さんが、確か……囚人の数が変わっていてもおかしくないようなちょっとした事件を起こせばいい、って……」
「ふむ。例えば、脱獄騒ぎとかそういうことかな?」
「たぶん……」
声がどんどん小さくなっていく。顎に手を当てていたマネージャーは、琴音がしょんぼりと俯く前にクッキーの皿を勧めてくれた。
「まあそのあたりは、華乃子の方が得意分野だろう。専門家に任せておけばいいのだ」
「はい……」
しかし専門家でないはずの月香は、積極的に話し合いに参加し、意見まで述べていた。
胸が苦しい。クッキーの甘い匂いはうっとりするほど素敵なのに、手を伸ばす気になれない。
「琴音、げんきをだすのじゃ」
てふ、と肩に柔らかいものが置かれた。
「琴音は琴音のおしごとをすればいいのじゃ。てきざいてきしょなのじゃ」
「ルドルフちゃん……」
今日はシャーロック・ホームズスタイルのジェントルマンなくまは、持っていたパイプを口にくわえ、ぽりぽりとかじっている。どうやら本物ではなく、チョコレートか何からしい。
「琴音はまほうのおべんきょうをして、おうじさまをたすけたのじゃ。みんなのおやくにたったのじゃ」
「そうかな……」
「うむ。琴音のおかげで、おうじさまはおけがをしなかったのじゃ。すごいことなのじゃ」
もふもふ、と頭をなでられて琴音は思わず笑っていた。
「ありがとう、ルドルフちゃん」
「うむ」
ぎゅっと抱きしめると、ルドルフはバニラの匂いがした。クッキーと同じ。
「さ、琴音。元気が出たならクッキーも是非食べておいき。ルドルフと私で作ったのだ」
「えっ!」
驚いて身体をはなすと、ルドルフはえっへんと胸を張った。
バニラの匂いはそのためか。
「琴音、がんばってつくったからおいしいのじゃ。たべてほしいのじゃ」
「うん、じゃあ、いただきます」
どきどきしながら、星の形のクッキーを摘む。真ん中に赤いアンゼリカが埋め込まれていてとてもかわいい。
あーん、と口に放り込み、噛みしめる。直後顔がとろんとゆるむのを、どうしても我慢できなかった。
「おいしい!」
「よかったのじゃー」
ルドルフがもふもふした両腕をあげて喜んでいるのを見ているうち、心が軽くなった。クッキーがとてもおいしかったせいもあるかもしれない。
「さ、今日はもうお帰り。暗くなってきた」
「はい、それじゃ。お疲れさまでした」
おみやげにもらったクッキーの包みを鞄に入れ、琴音はぺこりと頭を下げた。事務所のドアに鍵を差し込み、開ければもうそこは自宅玄関。
「ただいまー」
ぷうんと漂ってくる暖かな匂いが、今日の夕飯がカレーであることを教えてくれた。