18.王宮の中で
「……」
あのぉ、と口を開いたが、声は出なかった。
「……」
不思議な色合いの瞳が、はるか高みから降りてくる。
「……」
綺麗な人だった。王子様が太陽のような力強い華やかさを放っているカリスマさんなら、この人は正に月だ。
「こちらが、先ほどお話ししたレナード様ですわ。レナード様、この方は異世界の巫女姫のお一方。お名前は……」
「はうっ! 美原琴音ですっっっ!」
王女のたおやかな笑みにつられて、ようやく自分の名前がまともに言葉となってくれた。身体をまさに二つ折りにして頭を下げて、琴音はばくばくいっている心臓を必死に宥めようとした。
素敵な人だ。
がっしりと肩幅が広く、相当身体を鍛えているのが服の上からでもわかるから第一印象は少し怖いように思えるが、顔立ちの精悍さと物静かな立ち振る舞い、何より眼差しの穏やかさがそれをがらりと変えてしまう。琴音の挨拶には短く「以後お見知りおきを」と返しただけだったが、とても耳に心地よいうっとりするほどのバリトンだった。
学校で、密かに憧れている体育の先生に似ている。この春教員になったばかりの正真正銘の新米先生で、若い分生徒達と話が合うので人気があるのだ。新学期以来、もらったラブレターの数はすでに両手両足ではたりないとかいう噂もあるほど。
それはさておき、琴音はめちゃめちゃ好みど真ん中のレナードを前に、顔を上げられずにいた。真っ赤だから。
「琴音様、もう頭をお上げなさいませ」
しまいには、王女が手を添えて上半身を起こしてくれる始末だった。
「うう……」
どうしよう。全然顔から熱が引かない。
変に思われたに違いない。
あと、明日から体育の先生を見る度きっとこの人を思い出してしまう気がする。幸い琴音のクラス担当ではないけれど。
あ、もしレナードが先生していたら、琴音の席は窓際だから、校庭やグラウンドで指導する彼が見れるかも。
乙女の思考は妄想の翼を得て、脈絡無く飛翔する。
あの先生はラグビー部の顧問だけど、レナード先生ならきっとテニスだ。サッカーや野球じゃ泥臭いし、もっと似合う筈のフィギュアスケートやスケボーには部がない。残念だ。
テニスコートを縦横無尽に駆け抜けて、華麗にスマッシュを放つ姿を想像して、琴音は更にうっとりする。背中にくくった髪が、激しい動きに広がり陽を弾く様が容易に目に浮かび、ついでにフェンスに群がるだろう女生徒達の黄色い声まで聞こえてきた。
どうしよう。
ライバルが多すぎてレナード先生に声なんて掛けられない。
出待ちでタオル渡すのは、運動部グルーピーで有名な、神崎一派だろう。
リーダーの神崎友里亜は最近サッカー部の主将と別れたらしいし、顔と運動神経が良い男は見逃さないともっぱら評判の美少女だ。
彼女お得意の『レモンとオレンジのハチミツ漬け』と良く冷えたグレープフルーツ生搾りを渡せば、スポーツマンは大抵落ちるとか噂に聞いた。
いや、グレープフルーツは、心臓疾患があったら良くないとかでリンゴに替えたんだったか?
まあとにかく、汗だくの試合後にタオルと必殺の落としアイテムを受け取って、更に冷たいおしぼりを手渡されたら……
「レナード先生ダメ!」
思わず声を上げれば、覗き込んでいた瞳と至近距離で見つめ合う。
「え?」
すぐ横からは王女の声も聞こえて、琴音は自分が何をやらかしたか自覚して青ざめた。
妄想。
「きゃあああ!!」
きっとその時の自分の姿は、ムンクの『叫び』そのものだったことだろう。異世界の二人は知らなかったろうが。
ふおおおおお、と身を捩る琴音を、アステルとレナードはしばし茫然と見ていたらしい(のちの当人達談)。
先に我に返ったのは、アステルの方だったとか。
「こ、琴音様?」
肩に手を置いて――というよりがっしと掴んで、彼女はぐおんぐおんと琴音を揺さぶった。
「あひゃあああ!」
「琴音、落ち着いて?」
にっこり。
症候群になりそうなほど強く琴音を振り回しながらも、さすが王女の笑みは優雅だった。
「落ち着きまして?」
「あ、あひ……」
目を回しながら琴音が頷くと、ようやく手を離してくれた。琴音はそのまま後ろへ倒れ込みそうになったのだが、何かとてもがっしりした感触が背中を支えてくれた。
回る視界が少しずつ収まると、琴音は自分の身体を包み込むそれがなにか、遅ればせながら気づいて。
「はんごぎゃー!」
叫んだ。またしても。
叫ぶ以外に何ができただろうか。いや、何もできない。
レナードが、しっかりお姫様だっこしてくれていたのだから。
月香の空の旅は、ぐるり遊覧飛行で終わった。
悪人急襲は、空から不振人物の犯行を見つけて叩きのめす暇潰し以外は、結構念入りに下調べしてから、王子様専用の部隊が展開し、舞台を整えるものらしい。
つまりあれだ、微弱な情報から道をぶらつけば関係者に出くわして何故か黒幕まで一気にたどり着いちゃう将軍様ではなく、ちまちま地道に捜査と証拠固めをして、最終的にがっつり詰めてから親分が乗り込んで庶民にパフォーマンスする、史実の長谷川さんのやり方か。
まぁ、湾岸署でも七曲署でも、ついでにラスベガスやマイアミだって、捜査は地道なものだ。
むしろ地道にしないと冤罪を作りかねない。
人類はきちんと脳ミソを全部使っているのだから。
王子様がパフォーマンス重視の猪野郎じゃなくて良かった。
そして何よりも、モフモフが良かった。
高高度もモフモフに触れていれば怖くないし、獣臭い柔毛の手触りにはうっとりするしかない。
月香は、背後で落ちないように支えてくれている王子様が邪魔だった。
彼が居なければ、このモフモフに顔を埋めてもっと堪能できるのに。
まぁ、何処から見ても猛獣なので、飼い主が居るからこそ初対面の月香に触らせてくれるのだろうけど。
青い海と碧い街が広がる壮大な景色を足元に、背後の王子様の悪人急襲のやり方の概要だけ頭に残しながら、月香はモフモフに浸っていた。
どうせ文官の自分にアクティブな仕事は関係無いと高をくくって。
「あんぎょあふうぇ~!!」
キテレツな悲鳴が聞こえたのは、王子の執務室のベランダに帰着して名残惜しく騎獣から降りた時だった。
「何だ?」
月香が降りるのを手伝ってくれたエリューシアが、てふてふと部屋の中へ入っていく。足取りはのんびりしたものだったが、合気道の心得がある月香には、彼が適度に身体を緊張させているのが見て取れた。
悪人の成敗をするくらいだから、腕に覚えはあるのだろう。しかし部下となった自分が側にいて第一王位継承者をみすみす怪我させたりしたら、たぶん怒られる。
瞬時にそこまで考えた月香は、迷わず王子を追いかけて。
背の高い彼を追い越し間際、部屋の中の様子を素早く見回した。
そして、立ち尽くす。
開いた口が塞がらないという状況が、本当にあるんだと暢気なことを考えながら。
「琴音様、どうなさったの?」
「ふえ~~~」
がっしりした逞しい美青年にお姫様だっこされて、琴音は恍惚の表情でくてっとしている。彼女に声をかけているのは、確かエリューシアの妹アステル王女。
「何やってるんだ?」
「あら、お兄様。お帰りなさい」
呆れつつも驚いた様子のない兄に、アステルはにっこり微笑みドレスを軽くさばいて一礼した。
「また勝手に私の部屋に入って。レナードも止めろよ」
「……いちおう、止めた」
「そうかよ」
美青年氏は、レナードというらしい。王子とはかなり親しい間柄のようだ。
月香は彼らのやりとりからそう判断し、何となく王女に視線を転じた。なぜか王女は、うっとりと兄とレナードを見つめている。
「ええと、こっちの娘は……コトネ、だったか?」
綺麗な金髪をがりがりと無造作にかきむしりながら、エリューシアはレナードに近づいていって琴音を覗き込む。意識を失ってはいなかったようで、琴音は「ぎょほえにょあえ~!」とか叫んでばびんと身体を跳ね上がらせた。
「何があった?」
「あ、あのあの、レナードさんがテニス部で、でも神崎さんがグレープフルーツでアタックを……!」
すごい勢いで意味がわからなかった。