168.購うために
清子の怪我は、もう治っている。本人も気にしていないと豪快に笑っていた。
だがレナードの罪は、消えることはない。清子が赦してくれても、レナードが己を許せない。
なによりも、人一人殺めてしまった。操られていたなどというのは、理由にならない。レナードは、己の行動をすべて把握し、理解していた。その上で、逆らわなかった。
そこまで語り終えて、レナードは口を閉ざした。向かいに座って話を聞いていたエリューシアは、何も言わない。言えるわけがないだろう。
裁きがほしかった。けれどそれは、自分から求めてはいけないものだ。
だからレナードは、ただ待った。うなだれて。
「レナード」
やがてよこされたのは、自分の手に重ねられたエリューシアの温もりだった。あわてて逃げようとしても遅く、しっかりと捕らえられる。
「すまない、私には、どう言っていいかわからない。すまない」
優しい従兄弟は、レナードの手を握って謝罪を繰り返す。彼が謝ることなど、何一つないのに。
「罪は、罪だ」
レナードは、ふっと肩の力を抜いた。
「何もなかったことにはできない」
すべきでは、ない。
エリューシアの手の力が、強くなる。震えている。宥めてやりたかったが、今の自分にその資格はないと、思いとどまる。
「レナード」
エリューシアが、ゆっくりと顔を上げた。
翠の瞳。
目眩がした。近いようで遠いような曖昧な過去の中、拠り所としていた尊い輝き。
けれど、違う。あの色とは。
「言づてを預かっている」
思いがけない言葉が、レナードの追想を消し去った。
「言づて?」
「ああ」
うなずいて、エリューシアは強く手を引いた。その勢いで立ち上がったレナードと手を繋いだまま、扉へ向かう。
「どこへ行く?」
「清子様のお部屋だ。そこで待つと」
待つ。
誰が。
答えがでないまま連れていかれた部屋で、レナードは呆然と目を見開いた。
「レナード」
美しい微笑。
柔らかい声。
白金の光が流れる。
「元気そうでよかった」
優しさにとろける、翡翠の。
ヴィラニカ。
幻か。
「少し二人で話すといい」
部屋の主である清子は、レナードの背中をぐいと押して出ていった。エリューシアも一緒に。
振り向いたときには呼び止めるには遅く、扉が静かに閉まるところだった。
「座って」
促すように触れた手から、思わず逃げていた。驚いたように自分を見つめるヴィラニカの眼差しに、レナードはさらに狼狽する。
なぜ。
彼は、現だ。
でも、なぜ。
「なぜ、ここに」
「君のことが気がかりだったから。アンジュレインの巫女姫の鍵を使わせてもらった」
その場に姿勢良く立ったまま、ヴィラニカは簡潔な答えをよこした。
「葬儀では忙しくて、きちんと話せないままになってしまったけど……。大丈夫?」
そして彼は、心配そうに眉根を寄せる。動けずにいるレナードの顔を、のぞき込む。
「すまない、驚かせたね。顔色も悪い……。さ、座って」
伸ばされた手を拒む気力は、もう残っていなかった。それどころか。
離れていく温もりを、惜しいとすら思ってしまった。
「お礼も言いたかった」
隣に座って、ヴィラニカは真っ直ぐレナードを見た。
「……礼、など」
「私の命を救ってくれた」
言われたことが理解できなかった。
そんなことをした覚えはない。
「ずっと狙われていたからね。ノートリア義兄上には」
テーブルに置かれたカップのそばから、ヴィラニカはスプーンを取り上げた。銀の。
レナードは、ぼんやりと脳裏に浮かぶ光景を辿った。
蒼白になった男。穏やかな尋問。変色した特殊な紙。毒によって。
あれはそう、確かに、ノートリア皇子の企てだった。
「ノートリア、そしてカレイドにとって、自分以外の兄弟は全員邪魔な存在だったから。カレイドとは母が同じだが、情らしいものを感じたことは一度もない。そういえば、アンジュレインとシディアにエリューシア王子暗殺を命じたのも、あの二人だったんだ」
いつも落ち着いた口調で話すヴィラニカに似つかわしくない、強い物言いだった。
「ノートリアもカレイドも、くだらない小競り合いで早晩互いに殺し合っていただろうね。そうなればザークレイデスは、誰が何をしなくても滅んでいただろう。」
彼の言いたいことがよく飲み込めず、レナードは無言で彼を見返した。
まさかとは思うが、だからレナードがノートリア皇子を殺した罪を不問にするとでもいうのだろうか。
まさか。
「だが、私のしたことは……」
人の命を、奪うことだ。人として最も、赦されない罪だ。
「それにね、これは君に初めて言うんだけど……」
ヴィラニカは、やんわりと指でレナードの唇を押さえた。驚いて言葉を呑む彼の前で、ヴィラニカは一瞬苦しげな表情を見せた。
「父上……魔王となったあの方は、私の力を吸っていた」
「え?」
力を、吸う。
「ミュージアから聞いた話によれば、魔王が力を欲するために世界に様々な異変が起きるというから、私で止められるならと。……所詮は気休めだったようだが」
「なんてことを!」
怒鳴っていた。思わず。
きょとんと目を見開くヴィラニカの両肩を、強く掴んで揺さぶる。
「考えなしにもほどがある!」
「考えなしって、しかし他に方法が」
「命に関わるようなことがあったらどうするつもりだった!」
ヴィラニカは、たった一人。唯一無二の存在なのに。
今更ながら、腹が冷えた。気づけばヴィラニカを抱きかかえるようにして、レナードは震えていた。
「レナード? どうしたの?」
「よかった……!」
温かい。触れている。
「あなたが無事で、よかった……」
失うところだったのか。この人を。
おぞましい触手。蠢くあの生き物に刃を突き立てた感覚を、今も覚えている。
もっともっと、徹底的に止めを刺してやればよかった。
「レナード」
ぽんぽんと、あやすように背中を軽く叩かれる。
「だから君は、私の命の恩人なんだよ。二度も救ってくれたことになる」
優しい言葉。抱擁。
胸が締め付けられた。
「してしまったことは、もう修正できない。悔やんでも、どうすることもできない」
ゆっくりと、言葉が染みこんでくる。厳しくて、労りに満ちた。
「けれど、埋め合わせることはできるはずだ。これから先の行動で」
ヴィラニカが少しだけ離れる。レナードの背中を抱いていた手が、両頬へ移動してくる。
こつん、と額同士が触れ合った。
「どうかそれを、恐れないで」
形よい唇が言葉を紡ぐ様を、レナードは間近でじっと見守った。
「先へ進むことしか、私達にはできない。過去は追ってくるけれど、負けずに立ち向かうことはできるはずだ」
立ち向かう。
先へ、進む。
過去を、購うために。
「私でできることなら、力を貸す。だから、レナード」
ヴィラニカが、微笑む。
奇跡のように。
「まずは、ありがとうと言わせてほしい」
涙が溢れるのを、もう止めることはできなかった。
身分、立場、罪、そんなものもどうでもよくなった。
ヴィラニカの肩に顔を埋めて、レナードは声を上げて泣いた。