159.これで、最後
それは、蛸のようだった。
もっというと、宇宙人だろうか。
「これが魔王なんですか?」
「そして、ザークレイデスの皇帝なのよね……」
琴音の疑問のあとに、月香は溜息混じりに言う。彼女が目をそらしていないから、琴音も腹に力を入れて改めてベッドの上のそれに視線を向けた。
華美臭いような汗くさいような臭いが、立派な部屋の中に満ちていた。その発生源が、ベッドの上でうじゅうじゅと動く『これ』なのだと、直感した。
全体的に青い。大きさははっきりとはわからないが、うねうねと柔らかい身体をぴんと伸ばせば三メートルにはなるかもしれない。頭は、動き続ける五本の触手の中心部にあるのが多分そうなのだろう。
本当に、これでは蛸だ。今まで琴音達が調べてきた厄災のすべての根元が、本当にこんな生き物なのだろうか。
「下がっていろ」
剣を逆手に構えて、エリューシアが静かに寝台のベッドまで歩いていく。
彼が、魔王を倒すことになった。
でも彼は、勇者ではない。神様に選ばれた人ではないはずだし、伝説の英雄の血を引いているという事でもない。確かに以前魔王を倒したのは彼の祖母だが、その皇太后も特別な存在ではない。琴音達と同じ、ただの人間だったはずだ。
巫女姫の力が、いったいいつどんな風に自分の――自分達の中に宿ったのかはわからない。最初からあったのか、あの扉を開いたときに得たのか。けれどそれを使えるようになったからといって、別に何が変わったわけでもない。琴音はあくまで、琴音だった。
今までできなかったことができるようにもならなかった。
自信もつかなかった。
やはりいつも迷って、困惑して、悩んで、自分の無力さを嘆いていた。
世界を越えただけで、超常の力を得ただけで、駄目な自分自身を変えてもらえるなんて虫のいい話だ。
けれど。
「王子様」
琴音の呼びかけに、エリューシアは振り返った。心なしか、顔が強ばっているように見える。無理もない。
拳をきつく握って、琴音は口を開いた。
「大丈夫……です。がんばってください」
頭が良くないから、結局こんな言葉しか思いつかなかった。伝わればいいと、受け止める相手に頼るしかない。
「私、がんばります。巫女姫だから……」
必ずと約束できないのが、本当に情けない。
巫女姫の力を、未だに意のままにできないから。
「琴音ちゃん」
後ろから、ぽんと肩を叩かれた。
「月香さん……」
月香は無言で頷いただけだった。琴音と、エリューシアに。
「……ああ」
エリューシアは剣を抜いて、しっかりと構えた。眠る魔王に向き直り、大きく振りかぶる。
肩に触れる月香の手に、力がこもるのがわかった。思わずそこに触れると、すぐに指が絡んでくる。
汗ばんで、震えていた。
彼女も怖いのだ。
カラカラに干上がった喉に、唾を流し込む。痛い。でも、おかげで少し落ち着いた。
いよいよ、だ。
アンジュが、扉の前に立つ。外からの出入りを封じると同時に、この部屋で起きることが漏れないための結界を張るのが彼の役目だ。
レナードは、エリューシアの補佐をする。
そして、琴音と月香は。
「……大丈夫」
月香の声が、思いの外落ち着いているように聞こえた。安堵する。
「琴音ちゃんなら、できる」
思いもかけなかった言葉に、琴音ははっと彼女を振り仰いだ。月香の顔は青白かったが、それでも微笑んでいた。
いつもの、気丈な彼女だった。
「琴音ちゃんの力は、いつだって必ず発動して誰かを守った。だから今回も、きっと大丈夫」
「……はい」
どうしてだろう。
他の誰よりも、彼女から言われると心から受け入れられる。
琴音は、月香の手を握り直した。
大丈夫。
きっと、大丈夫だ。
あの時――エンディミオンに魔王の力が襲いかかったとき、この人は来てくれた。琴音の後押しをして、助けてくれた。
自分達二人は、間違いなくこの世界を守るために選ばれた巫女姫なのだ。
琴音は、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
エリューシアの一挙手一投足に、集中する。
そしてその直後。
エリューシアが、高く掲げていた剣を、思い切り振り下ろした。