146.影
ミグシャ族の歴史は、口伝で遺される。
そしてそのすべてを知ることができるのは、一族の秘技を司るクシャーラだけだ。
「クシャーラ……?」
「大陸共通語では、司祭か巫女と言うのが適当だ」
もちろん厳密な意味では同一ではないが、真の意味で適切に翻訳することはできない。概念が違うからだ。
月香はそのあたりを察したのかどうか、それ以上深く尋ねてくることはなかった。シディアの後について歩いてくる、さくさくという足音が規則的なリズムで聞こえる。
ノートリア皇子の葬儀より三日早く、シディアと月香はザークレイデスに来ていた。ミグシャ族の長老とクシャーラに、魔王の情報を聞くためだ。
巫女姫の鍵で直接集落に行くこともできたが、超常の出来事を前に大騒ぎになるのが目に見えていたのでやめた。少し手前にある街に出て、そこからずっと歩いている。
シディアは、肩越しに月香を振り向いた。ついてきてはいるものの、疲れが見えた。健康そうな女ではあるが、長時間歩き詰めはやはり堪えるようだ。
「休憩する」
「……はい」
シディアが立ち止まると、月香もよろよろと足を止めた。表情には出さないが、安堵の気配が伺える。呼吸も少し、上がっていた。
「水を出す。座っていろ」
「はい」
月香は、手近の石に腰を下ろした。腿の辺りを揉んでいる。そろそろ、疲労が足に現れたようだ。
背負っていた袋から水筒を出し、差し出す。月香は礼を言って受け取り、一口ゆっくり飲んだ。
「ごめんなさい、荷物持っていただいて」
疲労を見せ始めた彼女の荷物を、半ば強引に奪ったのは半時間ほど前のこと。月香は恐縮しているが、自分の判断は正しかったとシディアは思った。
ミグシャ族の集落は、グディル山脈の麓。街からは遠いし、今いる辺りは道も造られておらず足場が悪い。唯一、平坦であることだけが救いだ。
馬を支度することも考えたのだが、集落から直接ザークレイデスの宮殿へ向かわなければならないことを考えると、あとのことが煩雑になりそうだった。ミグシャ族は自分達で馬を育成する術を持っており、滅多にザークレイデス人の馬に乗ることはない。集落に残していったとしても、餌を徒に消費するやっかいものと見なされる可能性が高かった。
所要時間は、一時間ほどの目算だった。一応月香と相談の上徒歩で向かうと決めたのだが、彼女の体調を考えるともっとかかりそうだ。
『滑空』を使うべきかもしれない。
シディアの目算では、すでに旅程の半分は消化しているはずだ。魔力がつきないうちに、魔術での移動のみで辿りつけるだろう。
「シディアさん」
考えていると、月香が立ち上がった。
「行きましょう。大丈夫です」
「無理をするな」
気の持ちようだけで、どうにかできるときばかりではない。
「魔術で移動する」
「それは駄目です」
まだ疲れで強ばった表情で、彼女は首を振る。
「何かあったとき、魔術が使えなかったら二人とも危険になるかもしれません」
それも道理だ。危機管理、危険予測も確かに大切だろう。しかし。
「今がまさに何かあったとき』ではないのか?」
足を傷めて移動に支障が出ているのは、充分それに含まれるとシディアは思う。このままでは日が暮れて、野宿しなければならないのだから。
「……そうですね。すみません」
肩を落とす月香を、シディアは無言で引き寄せた。魔術を発動させると、二人の身体は宙に浮く。
「掴まっていろ」
一応言いおいたが、必要なかったようだ。月香は浮遊した瞬間にはすでにシディアにしっかりしがみついていたから。
「た、高……っ!」
よほど怖いのか、ぎゅうぎゅう身体を押しつけてくる。シディアが戸惑っていることには、気づきそうにない。
柔らかい。
シディアは、仕方なく咳払いをした。かなりあからさまに。
「あ……」
月香が、小さく声を上げる。圧迫も、少しだけ弱まった。
「し、シディアさん!」
ほっとしたのも束の間、月香のあわただしい声に、シディアは前方を見据えたまま答えた。進路を見定めておかなければ、術が制御できないからだ。
「あっちに何かあります」
「悪いが、見られない。説明してくれ」
少し間が開いた。やがて、月香は途切れ途切れに話し始める。
「黒い雲があります。向かって右の方向です。雲でよく見えないけど、何か……大きな建物の上空みたいです」
右手にある大きな建物。
心当たりはなかった。
この辺りはかなり辺境で、町や村もほとんどないはずだ。先ほど鍵で通路を開くときに利用した街は、後方に当たるはず。
「あ、でもこれって……もしかして……」
「どうした?」
肩を、ぎゅっと捕まれた。強い力で。
「確信はないんだけど、もしかして巫女姫の力かも……」
シディアは、はっとした。『滑空』を解除し、瞬時に『浮遊』に切り替える。同じ場所の空中に留まっているための魔術だ。
「どこだ?」
「こっちの方です」
何も見えない。曇った空以外は。月香が真っ直ぐ指し示した方角と、記憶にある地形・地図を照らし合わせる。
そして、もっともあってほしくない可能性にすぐ気づいた。
「首都のある方向だ」
「えっ!」
まだそうと決まったわけではない。だが、そうかもしれないというだけで充分だ。
「巫女姫」
首都には、かけがえのない人がいるのだから。
「先に首都へ行ってくれ。何かあっても、力で察知できるのだろう?」
「うまくいくか自信はありませんけど……」
月香の力は、災いの元を取り除くもののはずだ。だからこそ、今も何かを感じ取っている。
そう、思いたい。
「集落から、扉を繋ぐ。頼む」
「……わかりました」
話は決まった。
シディアは、魔術を『滑空』へ切り替えた。先ほどより速く虚空を移動する。月香がまたしがみついてきたが、気にする余裕はなかった。
急がなければ。
あの人を守るために。
危険の可能性すら、存在することは許さない。