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14.異世界プリンスさまっ!

 バイトで疲れていて、帰宅後ご飯を食べたらすぐ眠ってしまったので、琴音は宿題の存在なんて綺麗さっぱり忘れていた。

 学校に行って、授業が始まってからやっと思い出すという有様で、当然怒られた。

 おかげで、放課後の今になってもちょっと気持ちはブルーだ。

「あーあ」

 アルバイトと学業の両立。今回バイトするときに両親からだされた条件だが、早くも不安になってきた。

 成績が落ちたらやめさせる、と言われている。もともとあまり勉強が得意でも好きでもない琴音だから、これはもう来月にはどうなっているかわからない。

 がんばらないとなぁ、とぼんやり考えながら、琴音は電車を降りた。そして会社のあるビルに着く頃には、もう勉学の憂いなど忘れていた。

 異世界トリップ。

 女子高生にとって憧れの、大冒険。

 それが毎日できるのだ。

 今日はそれに、何と言っても。

「王宮……王子様……うふふふ」

 異世界と言えば王子様。王子様と言えば美形。

 にやにやしながらスキップし、琴音はヴィヅ企画のドアの前にぴょんと着地した。

 ノックする。中からマネージャーの「はい」という声がしたので、勢いよくドアを開ける。

「おはようございます!」

 挨拶は元気に。大きな声を出したら、いよいよもう学校での憂鬱なんて忘却の彼方だ。

「ねえた、おあよー」

 加えて、可愛いレマがよちよちやってきたらもう決定打だ。

「レマちゃん、おはよー!」

 幼児は、きゃっきゃとはしゃいで琴音に両手を差し伸べてきた。だっこの要求らしい。

 琴音はレマをだっこして、ぷにぷにほっぺに思い切りほおずりした。柔らかいし温かい。赤んぼの肌は最強だ。

「琴音、準備はいいかな?」

 赤児と戯れる琴音に、マネージャーが声をかける。

「あ、はい。大丈夫です!」

 琴音は一度レマを下ろし、鞄をロッカーに入れた。荷物になるようで、必要ないものはロッカーにしまっていくように、帰り際に言われたのだ。

 財布や携帯は持っていきたいが、持っていったところでお金は使えないし、電波は届かない。預かってもらった方が身軽でいい。特に昨日のように、予期せぬ登山などがあった場合は。

「あの、もう山登りとかしなくていいですよね?」

 不安になって、琴音はマネージャーを見やる。マネージャーは苦笑して、

「何もなければ大丈夫だろう」

「よかった!」

 琴音はほっと胸を撫で下ろした。『何かあれば大丈夫じゃない』という意味なのに、そこまで頭が回らなかった。

 鍵で、扉を開ける。出た先は、昨日こっちへ帰ってくるときに鍵を使った廊下だった。たまたま通りかかったらしい人が、出てきた琴音に驚いたのかぎょっとした顔をしていた。

「こんにちは」

 にっこり笑って、琴音はその男性に挨拶する。いつの間にか着いてきていたレマが、舌っ足らずな声でやはり挨拶した。

「こ、こんにちは……」

 男性は茫然と答える。しかしそのやりとりの間に驚きから立ち直ったようで、琴音に向き直り丁寧に一礼した。

「異世界の巫女姫様。本日は王宮へお送りいたします。このままアンジュレイン様の元へご案内いたしましても、差し支えございませんでしょうか?」

「はい、大丈夫です」

 アンジュレイン。昨日親切にしてくれた綺麗な男の人だ。

 月香さんはもう来てるのかな?

 ぽけぽけと考えていると、アンジュが待っている場所に案内された。

 執務室とかを想像していたら、聖堂のど真ん中だったのでちょっとびっくりした。

 でもまぁ考えてみれば、聖職者が異世界の『巫女姫』と会うなら、聖堂が一番適切かも知れない。だって華やかだし。

 琴音は大聖堂の伽藍を見上げてそう思った。青いタイルに繊細な模様がついていて、砂漠の国のオベリスクとか連想する。

 一日五回お祈りするのかな?

 ぼへ〜と見上げていたら、案内の人に促されて二人の側へ連れて行かれた。

「おはようございます」

「まちゅ〜」

 琴音がびょこんとお辞儀すると、レマも抱っこされたまま、お辞儀を真似る。

「おはようございます。琴音」

 アンジュが優雅な動作で挨拶してくれる。昨日の慌てた様子とは全然違う落ち着いた姿は、大人の男性っていうのはこれね、と思わせた。

「おはようございます」

 月香はやはり、きちんと整った身形をしていた。昨日と違ったのは、スーツじゃなかったこと。清潔感と動きやすさを兼ね備えたカットソーに、伸縮性のありそうなパンツ。靴は、足にぴったりした柔らかそうなズック。でもスニーカーではない。さすが大人の女性はオフィスカジュアルの服装も完璧なんだ。

 二人に見とれる琴音を余所に、アンジュは淡々と今日の予定を説明し始めた。

「今日は、王宮へ向かいます。陛下や殿下に謁見できるのは、すぐというわけにはいかないと思うので、そこはご理解ください」

「はい、大丈夫です」

 エッケン。確か、偉い人に会うことだったっけ?

「それでは、下に馬車を用意しますので早速――」

 歩き出そうとしたアンジュだが、その一歩目は入り口から飛び込んできた男性によって止められた。

「た、大変です!」

 アンジュと似たような服装だが、胸に着いている線が色違いだった。デザインもちょっと違う気がする。体格も一回り大きいが、彼が狼狽えているのに対してアンジュは冷静さを崩すことなく向き直った。

「何がありました?」

「実は……」

 そんなアンジュの態度がよかったのか、男は少し落ち着きを取り戻したようだった。身をかがめ、アンジュの耳元でなにやらこそこそと耳打ちする。

 アンジュの綺麗な眉がひそめられた。

「殿下が……。わかりました」

 殿下。王子様に何かあったのだろうか。

「失礼いたしました。では、参りましょう」

 しかしアンジュは琴音達に何も説明せず、先に立って歩き出し二人を促した。月香も質問しようとはせずに彼を追ったので、琴音もそれに従った。

 本当は気になっていた。王子様がどうかしたのか。訊きたくも、あった。

 しかししばらく歩いたところでアンジュが唐突に立ち止まり、壁に描かれていた不思議な図柄に手を翳した途端、とんでもないことが起きたのだ。

「わ、わああっ!」

 おかげで琴音は疑問などすっかり忘れ、素っ頓狂な声で叫ぶ。

「エレベーター!?」

 続く月香の言葉も、明らかに裏返っていた。

「えれべーたー……とはなんでしょうか?」

 おっとり聞き返してくるアンジュの目の前ですっと扉を開き、琴音達を待ち受けている四角い小部屋は、自分達の世界ではおなじみのエレベーターとしか思えなかった。




 月香は、朝から辛かった。

 体の節々がギシギシ軋み、腿と脹ら脛を中心とした全身の筋肉が悲鳴を上げる。

 要するに登山の置き土産、筋肉痛だ。

 次の日に来るだけ、学生時代に運動部にいたおかげだとか。三日目じゃないだけまだ若いとか。自分を鼓舞し気合いを入れて身支度したものの、玄関を出たあたりで目に入ってしまった。

 三階の自室から階段を経て駅へと続く道のりが……

 認識した途端に根性が萎える。

 黄色と黒の例のしるしは持ってないし、あれは筋肉痛にはあまり効かない。拠ってラッシュの通勤電車を乗り継ぐ勇気はない。

 深〜いため息と共に今しがた鍵を掛けた自室の玄関ドアを見やり、アンティークな鍵を取り出して鍵穴に押し込めば、一切の交通機関をすっ飛ばしてマネージャーの居る白いオフィスに入り込む。

 そういえばこの会社、交通費支給の有無が明記されていなかったな、と今さら気が付いたのは些末な事だろう。

 通勤バッグに忍ばせたのは、夜なべで作ったハリセンだ。

 マネージャーがボケをカマセばいつでも抜ける様に身構えていたら、意外な事に体調をとても気遣われて、突っ込みの機会を失った。

 まあ、別に悔しくはない。

 疲れた体に鞭打って、夜も開いてる駅前の文房具屋へ自転車とばして厚紙買いに行ったのにとか、ちょっと小振りなバッグに入れやすくするため伸縮性を持たせた妙に凝った作り方と取り出すタイミングを練習して、夜更かしと筋肉痛を増した努力が無になったとか、別に大して気にしない。釈然としないだけで。

 ついでにマネージャーが、『ちょっと苦手なのだが』とか言い訳しながら、月香の額と両肩を撫でたらば、全身の痛みと疲労感が綺麗さっぱり消え失せたのと、そのせいで『上手くいった』と微笑む例によるドヤ顔へ、お礼を言わねばならなかったのも、何となく釈然としない。

 このもやもやをどうしよう?

 別にマネージャーが嫌いなわけではない。

 超美形は眼福だし。中性的、いや、むしろ性別さっぱり判らないスッキリ感はむしろ好きだ。

 なのに何でもやもやと消化不良な物足りなさが渦巻くのか……

 答えが見つからない、何とも奇妙な気分だ。

 そのままウィヅに来て、遣いに案内されてアンジュと挨拶を交わしている時にやって来たのが、ぼへ〜っと口開けて大伽藍を見上げる琴音とレマ。

 こちらへ案内されて、駆け寄ってくる姿には、筋肉痛も疲労も全く無いようだ。

 若い者の回復力は凄いと言うか、あの過酷な登山の疲労感がマネージャーによって消された今でもなんかだるい自分に比べて、まるっきり元気いっぱいの彼女達は本当に同じ地球人だろうか?

 眩しい笑顔が光量過多で、挨拶に微笑む振りして、思わず目を細めた月香だった。



 そして今、美形神官に案内されて乗り込んだ『多分エレベーター』な乗り物の中で、赤ん坊をサンドイッチにした二人は、互いを支えるのに必死になっていた。

「ふにゃぁ〜月香さぁん〜!」

 涙目の琴音が気の抜ける悲鳴を上げるから、月香はヨシヨシと背中を撫でてやる。

「ゴンドラよ、ゴンドラだから心配無いわ琴音ちゃん!」

 慰めの言葉に、琴音は更にしがみつく力を込める。

「やです〜こんな床と天井以外透明なゴンドラ〜」

 そう、今四人は、セレネーの上空をゆらゆら王宮に向かって進んでいた。

 天井と床以外の四方が、スケスケの状態で。

 壁から現れた小部屋は、どこから見ても普通のエレベーターに見えた。

 例えば日本人を十人連れてきたとしても、全員エレベーターだと答えるだろう。ただ、床と天井がリノリウムや神殿内のような石では無く、ちょっと金属っぽいのと、操作パネルがみあたらないのが違和感な位だった。

 だから月香も琴音も何の疑いもなく、地上へ降りるつもりで乗り込んだ。

 アンジュも全員が乗り込んで扉が閉まるのを確認して、にっこり微笑むと、『では参りましょう』と言って、なにやら呪文っぽいものを唱え出す。

 さすがファンタジー世界、パネルの変わりに呪文か。と二人が眺めていたら、微かな振動で動き出した。

 上へ。

 てっきり降下するものと信じ込んでいた二人は仰天したが、結構な早さで昇った小部屋が、そのまま神殿の屋根から飛び出したのを見て、しっかりしがみつき合って悲鳴を上げた。

 そして現在に至る。

「アンジュさん! いったいこれは何なんですか?!」

 既に神殿は遠い。

 にっこりと突っ立ったアンジュは、相変わらずの穏やかな笑みで月香に答えた。

「神殿と王宮を結ぶ、専用昇降機です。ご存知ではなかったのですか?」

「全く存じません!」

 なにやらふわりと風が頬を撫で上げていく。もしかして四方は透明な壁ではなくて、素通しでは無かろうか?

 たまにアイドルが乗る鳥かごみたいなゴンドラの様に。

 しかしあれはせいぜい高くて四・五メートルで、遥か数十メートルなんて高度じゃないからできる技だ。

 今ほど武骨な金属の筐体と開けれない窓が恋しいと思った事はない。

「神殿と王宮を理力線で繋ぎ、そこにこの玻璃篭を包んで移動させているのですよ。」

 理力? フォースを使うのか? ライト○ーバー有るかな?

 現実逃避に月香と琴音の頭の中を、銀河系最速のガラクタが飛び去っていく。

「お……落ちませんか?」

 怯える二人を安心させるように、アンジュはにこやかに腕を組み、見えない壁に背中を預けて見せた。

「落ちません。ほら、この通り」

 眼下に広がる青い街を背景に背負って、美形が爽やかな笑顔を安売りしている。軽く見えないのは彼の人柄だろう。

「ね? 大丈夫でしょう?」

 組んでいた腕を広げて安全をアピールするアンジュを見て、月香もやっとからだの力を抜いた。

「くゆち〜」

 サンドイッチにされて苦しがるレマにやっと気が付いて、琴音も慌て月香から離れてレマをあやし始めた時。

「そいつをあまり信用しない事だな。女ども」

 不意に知らない声が降ってきて、月香が外を見ると、黒い大きな塊が、ゴンドラの横にゆっくり降下してきたところだった。

 金色の瞳は鋭い縦長の瞳孔で月香を見据え、高空の風が豊かな黒い鬣を巻き上げて吹きすさぶ。

 風を強めているのは、七・八メートルはありそうな全幅の黒い翼で、艶やかな風切り羽根が陽光を弾きながら滑空の姿勢でピンと広げられている。

 六点固定の安全ベルトのようなものががっしりした胴体に巻き付けてあり、太い四肢が空気抵抗を減らすためか関節をできるだけ縮めて身体に引き付けてある。猫科特有の香箱状態の前肢がなにやら可愛らしく思えた。

 しっかりと腹の毛に埋まる後肢は鋭い爪を隠しもしない猛禽類のもので、その後ろでうねうね動く蛇にも似たしっぽが、ふさふさした毛に覆われているのになぜか満足した。ツルツルの蛇革ではなんとなく許せなかったからだ。

「月香さん、かっこいいですねあの人」

 うっとりした琴音の声に月香はちょっと首を傾げた。

「マンティコア? それとも鵺? とりあえず、飛んでるモフモフは良いわね」

 全く会話は噛み合わないが、本人達は気付いていないから関係無いだろう。

 これぞファンタジーだ。隣で呆けている琴音とは微妙に下方向の視線は、鼻の太い獅子頭に吸い付けられる。

 もふりたい、だるい体を毛皮に沈めて、心臓と内臓の音を聴いたら、さぞや安眠できるだろう。

 シングルベッド並みにでかい胴体に夢を持ち、月香は深いため息を着いた。

「女、どこを見ている」

 尊大な声がまたもや降ってきた。

「モフモフを」

 素直に返事を返せば、アンジュが小さく吹き出した。

「モフモフ?」

 再度問われて月香はやっと顔を上げた。

 黒い獣の背に、ふんぞり反った男を見る。

 セスナくらいある騎獣の大きさのせいで、少し距離のある男の顔はぼやけて見えにくい。モニターとにらめっこの事務職のせいで仮性近視気味なのだ。

 琴音が素敵素敵と呟いているから、きっとかなりの美形なのだろう。

 しかし、初対面の人間を『女』呼ばわりとはいい度胸だ。これでだいたいの性格がわかろうと謂うものだ。そしてその立場も自ずと悟れる。

 多分こいつが噂の暴れん坊王子様なのだろう。

 月香はアンジュを見た。

「あの偉そうな人は誰ですか?」

 もちろんわざとだ、挑発への反応で度量もわかる。

 月香の腹を読んだのか、神官は騎獣を操る男へ軽く会釈をしながら答えてくれた。

「我がエンデュミオン王国のお世継ぎで在らせられる、エリューシア・ミゲール・ロー・エンディミオン殿下です。今日はなにやら市井にてご用がおありでお出かけと聞いていたのですが、遭えて良かった」

 神殿でアンジュに来た遣いは、どうやら暴れん坊王子様の出陣を伝えていたのだろう。

 王宮で国王や王子と顔通しが今日の予定だから、見事にすっぽかされていたわけだ。

「まあ、それは何よりでしたね。すれ違いにならずに済んで」

 アンジュに合わせて嫌みを乗せてやれば、王子様は意外と明るい笑い声をたてた。俺様やんちゃ坊主でも、自尊心パンパンな癇癪持ちではなさそうだ。

 これは案外仕事相手として付き合い安いかも知れない。

「礼ならそこの嫌み神官に言うんだな。わざとらしくこの昇降機におまえらを乗せて見せて、私を誘き寄せたのはそいつだ」

 王子がアンジュを示せば、神官は軽く肩を竦めた。

「殿下が街中で御活躍中に、お邪魔になっては行けませんから」

 この人結構食えないタイプだな、と月香はアンジュへの見方を上方修正する。

 ただの世話焼きではなさそうだ。

「もう済んだ。宮で待つ。さっさと来いよ。お前らの名はその時聞こう」

 ばさりと重たい羽根音を立てて空飛ぶモフモフが離脱していく。

 ああ、もふりたい。その毛皮。

 後ろで王子様にはしゃいだ琴音とレマの声を聞きながら、黒い毛皮を名残惜しく見送る月香だった。



 王子様。

 金髪に翠の目の、すごい美形だった。白馬じゃなくて変わった動物に乗っていたが、それは問題ではない。

 かっこいい。

 琴音は、目だけでなく頭の中までハートになっていた。

 王子様と聞いて今まで見たことのあるハリウッド俳優や欧米のミュージシャンなどをあれこれ思い浮かべていたが、琴音が知る誰よりもかっこよかった。ついでに、アニメやゲームの好きなキャラよりもかっこよかった。

「王子様だなぁ……」

 うっとりと呟く。

 異世界トリップの醍醐味といえば、やはり美形との遭遇だろう。出会う人出会う人皆美形というのがお約束だ。アンジュもきれいな顔をしているし、王子様はといえばもう……。

「いやぁ~~~~ん」

 ごろごろごろごろ。

 琴音は、ふっかふかのベッドの上をのたうち回った。さっきから何度もこのパターンを繰り返しているので、せっかく綺麗に整えられていた掛け布団などはぐちゃぐちゃだが気にしない。

 ちなみにここは、王宮である。透明ゴンドラは王宮にある高い塔のてっぺんに降りて、そのままアンジュの案内でこの部屋に案内された。風呂に入るなどして着替えておけ、といわれている。

 昨日の専用シャワールームとはまた違った趣の、立派な風呂に大喜びだった琴音である。おかげでかなり時間がかかってしまった。

「どれを着ようかなぁ……」

 着替えたらいよいよ王様と王子様との『エッケン』だ。制服よりも、用意してもらった綺麗なドレスの方がずっといいだろう。というかドレスが着たい。ぜひ。

 月香は隣の部屋にいるようだが、彼女のことだからすでに着替えも済ませて待っていることだろう。急がないと怒られる。

 そうは思うが、大きなクロゼットにずらりとかかったドレスはどれもこれも豪華絢爛色とりどりで、目移りしすぎて決められない。

「こっちのピンクのもかわいいけど……緑の方が大人っぽいかなぁ。あ、でもこのデザインかわいー」

 肌着姿でドレスをとっかえひっかえする琴音。一人なのをいいことに盛大にぶつぶついいまくり、ぽいぽいとドレスをベッドに放っていく。

「あー! 決められないよう!」

 ベッドにぶちまける勢いで広げられたドレスに琴音が唸っていると、ベッドの端に小さな手が突き出てきた。

「んちょんちょ」

 手はシーツを掴んでよじ登ろうとしてはいるが、どうにもシーツが滑って上手くいかないようだ。

 小さな手は諦めずにシーツを手繰る。自重と摩擦が釣り合い、なんとか頭が見えた。

 琴音は思わず頑張れ、と拳を握りしめ心の中でエールを送る。

 もう片方の手が伸ばされて更に前方を掴んだが、なんとそれは琴音が放り出していたドレスだった。ふんわり乗っていたドレスに、幼児を支える力はない。

 こてん。

 掴んだ布に裏切られ、レマは敢えなく床に転がった。

「わ! 大丈夫?」

 慌てて駆け寄れば、幼児は事態の把握が追い付かずにドレスを掴んだまま呆然としている。

 この間の保険体育で、乳幼児の頭蓋骨はくっつききっていないから、子供の頭に衝撃は厳禁と習った。レマが馬鹿に育ったら大変だ。琴音はそっと抱き上げたが、王宮の豪華な部屋は当然床もふかふか絨毯が敷かれ、しかもベッド回りには更に毛足の長いファーのラグが敷かれていたから、幼児の柔らか頭も優しく受け止めてくれていた。

 コブが無いかそっと摩って痛がらないのにほっとする。

 そういえば琴音の母親が、赤ちゃんはからだが軽いから転んでもたいして怪我はしないと言っていたっけ。

 あんたはどんくさくてよくコロコロ転がってたから、頭打ちすぎて悪くなったわね。とか言ってケラケラ笑われた。母よ、それはあんまりだろう。

 しかし頭の打撃はこぶなし痛みなしで後からくる場合もあると言うし、そっちの方が怖いと聞いた。

 直ぐ小児科に連れていかないといけないかも知れない。

 救急車この世界にあるのかな

 おろおろとレマを抱えて立ち上がろうとすると、ずるりと何かがくっついてきた。

「ねぇた」

 むにゅっと突き出されたのは、転倒の原因となったドレスである。

「こえ」

 じっと見上げてくる金の瞳に、琴音はしっかりと頷いた。

「レマちゃん、選んでくれたのね」

 そっと赤ん坊をベッドに下ろし、小さな手からドレスを受けとる。

「あ、可愛い」

 全体が薄いピンクとアクアブルーのレースを重ねてある花弁の様な楚々とした華やかさの、エンパイアドレスだ。

 控えめなパフスリーブの袖は、そのまま腕を花弁が包む様なデザインだ。これならコルセットもいらない。

 ふわふわな雰囲気が琴音にピッタリだった。

「ありがとうレマちゃん」

 だが今は、レマの安全が心配だ。琴音はレマを抱き上げると、廊下に出た。

「月香さん!」

 隣の部屋をノックする。彫刻で縁取られたとてもおしゃれな扉だったが、傷がつくかもとはまったく考えずにがんがん叩いた。

「どうしたの?」

 月香はすぐに出てくる。やはり服装もきちんとして(元のオフィスカジュアルだったが)、化粧もちゃんと直していた。

 微妙な表情をしているのは、驚いたからだろう。

「レマちゃんがベッドから落ちたんです! 小さい子が頭打ったら大変なんです!」

 いいながら、月香にレマを突き出す。幼児はきゃっきゃと笑い声をたてた。

「……大丈夫そうだけど」

 子供を受け取って、月香は頭部を検分する。

「救急車よばないと……」

「いや、ないと思う」

 泣きそうになった琴音に、どこまでも月香は冷静に答えてくる。

 できる女性は、いつでも落ち着いているんだなぁ。

 おかげで琴音も少し落ち着いた。

「とにかく、アンジュさんに訊いて、どこかでレマちゃん診てもらえないか頼んでみる。琴音ちゃんは部屋で準備して待ってて」

「は、はい」

 お願いします、と、走っていく月香の背中に声をかけてから、琴音はいわれた通り部屋に戻る。ベッドの上には、レマが選んでくれたドレスが広がっていた。

 そこで、はっと我に返る。

「っき、きゃああああ!!!!!!」

 忘れていた。

 肌着姿だったことを。

 忘れて、そのまま廊下に出てしまった。

 月香が変な顔をしていたのは、きっと琴音のこんな格好に面食らったせいだ。

「いや~~んもう、あたしのバカ~~~~っっ!!」

 うずくまりいやんいやんと首を振る琴音の絶叫は、部屋の高い天井とシャンデリアにあっさり吸い込まれて消えた。

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