138.慟哭
悲鳴を上げ、血しぶきで虚空に深紅の帯を引いて倒れても、かつて世界を救った巫女姫は剛毅だった。レナードを睨みつけ、こう言い放ったのだ。
『とっととどこへでも行くがいい。追っ手に囲まれないうちに』
覚えている。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、レナードは衛兵に取り囲まれた。
そして。
そのあとに見聞きしたものは、非常に曖昧だ。誰かに話しかけられた気はするのに、記憶として残っていない。
世界が再びいくらか鮮明になったのは、この部屋に来てから。
白銀と翡翠の色合いを、美しいと感じてからだ。
「少し落ち着いた?」
レナードの額からぬるくなった布を取り上げ、冷水に浸した新しい布を載せてくれる、手の持ち主。
「ヴィラニカ……」
本来自分の身分と立場で、彼をこんなふうに呼ぶことは許されない。
今更ながらそのことに思い至り、レナードは呆然となった。
なぜ。
なぜ今まで、考えもしなかった。
頬がふわりと温かくなり、驚いたレナードの混迷は断ち切られる。
「最初から順を追って考えていこう。少しずつでいいから、覚えていることを整理していくんだ」
「……ヴィラニカ……殿下」
「敬称なんていらない。今になって改まられると面映ゆい」
苦笑するヴィラニカに、レナードは何と返せばいいかわからなかった。
靄のかかったような記憶の中で、唯一この人に関することだけははっきりとしている。
魔王の傀儡の術はそのように作用するらしいと、彼は説明してくれたけれど。
「……そう、あの夜、突然私の部屋に現れたね。そのことは覚えている?」
「……ええ」
レナードは目を閉じる。遠い昔のことのようだ。
牢に、入れられていた気がする。暗くて冷たい場所。
焦っていた、ようにも思う。
行かなければ、と。
当然戸は開かないし、開けたところで見張りがいたはずだ。そんなことを考えていると……。
「声」
「え?」
「声が、した」
瞼の裏の闇。暗くて、ちょうどあのときのよう。
――疾く――
そう、確かに聞いた。
「誰かの声……戻れ、と」
『我が僕』と。
「聞き覚えがあった?」
「いや……ないと思う」
どんな声だったか思い出そうとしても、非常に曖昧な印象だ。高かったような、低かったような、男のような、女のような。子供のようでもあり、老人のようでもある気がする。
ふと、肩の上に柔らかな重みが触れた。
「少し休んだ方がいい」
ヴィラニカの手が、掛布を直してくれる。そうして、その手は当たり前のようにレナードの前髪を梳いた。
温かい。形よく、雪のように白い、それ。
気がついたときには、離れていく彼の手を掴んでいた。
「レナード?」
「……申し訳ない」
急いで放す。
目を閉じて、騒ぐ心で繰り返す。
弁えなければならない。相手はこの国の皇子。
そしてなにより。
おののく顔の醜さ。滑稽な動きで後ずさっていく肥えた身体。
覚えている。思い出せる。鮮やかに。
剣を持っていた。妙に装飾の多い、けれどとても軽い凶器。
振り上げて、思い切り突き下ろした。
たったそれだけの動作で。
叫びそうになった口を反射的に抑え、唇に感じたそれの存在をすぐに取りのけた。
あの一瞬を境に、レナードは。
目を閉じていてもわかる。自分の手は、ここにある。
あの男の……ザークレイデス第一皇子ノートリアの血にまみれて。
決して、消えることのない穢れに侵されて。
この手は、人を殺した。
ヴィラニカの異母兄を。
「レナード」
呼ばれるのと同時に、はっと目を開けた。そして、信じられないものを見つける。
「大丈夫。落ち着いて」
己の手。それを、白いものが包み込んでいた。
「ヴィラニカ……?」
雪のように目映く無垢な、彼の。
「今はなにも考えなくていい」
優しい囁き。
レナードは、震えた。
自分は赦されない。許されない。
わかっている。痛いほど。
そのはずなのに。
この手を包む温もりから、離れることができない。
「眠って。ついているから」
柔らかな熱がやがて全身に寄り添うのを感じ、レナードはとうとう幼子のように啼いた。




