137.不穏
宮殿から館に戻ったのは、未明だった。それも、三日ぶりのこと。
まだ碌に夜も明けていない時間だというのに、中から扉を開けて迎え入れてくれた家令にヴィラニカは微笑んで心から礼を言った。
「いいえ、いつもの起床時間に変わりはございませんでしたから」
「それでもだよ。迎えてくれる人がいるというのは安心する」
ヴィラニカのマントを受け取って、家令は飲み物はいるかと尋ねる。少し仮眠をとりたかったのでそれは断り、彼は自室へ向かった。
部屋へ入ろうとし、扉にかけた手を止める。視線を向けたのは、隣室だ。
中からも行き来できるようになっている続き部屋だが、外の廊下と繋がるこちらの扉から入ったことは今までなかった。この部屋で暮らす人は、たいていヴィラニカの部屋にいるから。
さすがに眠っているだろうか。
そう考えて、ノックしようとした手を下ろす。数歩移動して自分の部屋に入ると、カーテンを下ろした薄暗さを妙に肌寒く感じた。
ヴィラニカは、着替えに人の手を借りない。自ら衣装箱を開け、寝間着を取り出す。
この三日間で、四時間ほどしか眠っていない。自宅に戻ったという安心感からか、頭がぼんやりしてきた。ゆっくりと上着を脱いで、無造作に寝台に放る。
シャツを脱いだ時にかちゃりという音が聞こえたが、その意味を理解するのが一瞬遅れたのも眠気のせいだった。
「ヴィラニカ」
声をかけられた瞬間は、さすがに心臓が跳ね上がった。しばらく驚きはそのまま胸にわだかまっていたが、ヴィラニカは振り返った先にいた人に何でもないように微笑んで見せた。
「起こしてしまった? もう少し眠っていてもいいよ」
レナードは、いつも表情の変化に乏しい。それでも長くともに過ごしていれば、心の内をある程度推し量ることはできるようになる。ヴィラニカはそう思っていた。
レナードが額を抑え、呻いてその場に膝を着くまでは。
「レナード」
駆け寄って、肩に左腕を回す。もう片方の手で、レナードの首筋を探る。熱はないようだ。ただ、じっとりと湿っている。
「具合が悪い?」
「……いや」
否定の言葉を、素直に受け止めきれなかった。ヴィラニカは、レナードをゆっくり立ち上がらせて、支えながら自分の寝台まで移動させた。体格差があるから、僅かなはずの距離ですら遠く感じた。
「さ、座って。水は?」
「……もらう」
水差しからコップに水を注ぎ、渡す。微かに触れ合った指は、おぼつかなく震えていた。
「飲める?」
レナードの手にコップを持たせ、その上から掌で押し包む。彼は一瞬戸惑ったようだが、そのままコップに口を付けた。
ゆっくりと、時間をかけてコップが空になる。レナードがコップを放したとき、ヴィラニカもほっとした。
「念のため、あとで医師に来てもらおう。体調を崩したのかもしれないから」
「ヴィラニカ」
受け取ったコップごと、手を掴まれる。
「教えてほしい……今は、何日だ?」
質問の唐突さに面くらいはしたが、ヴィラニカはすぐに日付を答える。
彼の指に、力がこもったのが伝わってきた。
「そんな……そんなに、時間が」
「レナード?」
コップを置いて、彼の肩に触れる。ひどく強ばっていた。
背筋が冷える。
「どうしたの?」
「ヴィラニカ……? いや、ああ……でも、そうだ、それは覚えて……」
譫言のような呟きが、ただただこぼれ落ちる。ヴィラニカは思わず、レナードの肩を揺さぶった。
「レナード、どうした? どんな具合かだけでも、せめて教えてくれないか? 一言でいいから」
レナードは、顔を上げない。答えない。
何度呼びかけても。
引き結んだ自分の唇が、乾いて干上がっているのを感じた。
ヴィラニカは、しっかりとレナードを抱きしめる。背中をさすって、繰り返し名前を呼んだ。
レナードの腕が、自分の身体を強く抱き返した時も。
何かを求めるように、彼の唇がむき出しのうなじに触れたときも。
「ヴィラニカ、私は……」
人を殺したのか、と。
おののく声が問いかけた時も。
決して、抱擁を解くことはしなかった。
「私は……私は……っ!」
触れる唇のわななきを、肌で知った。頬に触れる金の髪を、そっと撫でる。
柔らかい。
掌でそれを確かめたのは、今が初めてだ。
耳朶を、嗚咽が打った。
ヴィラニカは、無言で震える人に身を寄せる。
何が起きているのかはわからない。まだ、知る術もない。
ただ、少しでも支えることができればと、そう思った。