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136.希望

 首都セレネーから八方へ伸びる大きな街道。それがエンディミオンの物流と発展を支えている。

 穀物の実りも豊か、飢える民が少ないから、自然に治安もよくなる。国民性もおおらかなものだ。そして余裕のある暮らしは、文化を発展させる。

 建ち並ぶ露店で売られているのは食べ物ばかりでなく、書物や陶器、石膏像など実に多種多様だ。しかもそれは裕福な好事家のためではなく、庶民が気軽に求めるものだという。ザークレイデスでは考えられない。

 エンディミオンの市井の暮らしを初めて目の当たりにした、シディアの衝撃は大きかった。

「あの建物は何ですか? ずいぶん大きいですが、聖堂か何かですか?」

 運賃の安い、屋根のついていない乗合馬車で通りをゆっくり進みながらルカが目に留めたのは、数本の太い柱がまず印象的な石造りの建造物だった。入り口が広く、緋色の布が張り巡らされている。

「いえ、劇場ですわ」

 王女の答えに、ルカだけでなくシディアも驚いた。この国で暮らしていたアンジュは、そんな彼らに複雑そうな視線を向けている。

 劇、というものはシディアも知っていた。けれどそれは村で祭りの時に催される他愛のない娯楽であったり、あるいはあちらこちらを巡業するような旅芸人達の見世物の一つでしかなかった。上演される時は村の大きな建物が使えればましなほう、たいていは広場のような場所に天幕を張るくらいがせいぜいだ。レーマサーナの神殿といわれても通じるような重々しい建物とは、どう頑張っても結びつかない。

「最近は歌劇というものが評判らしいですの。登場人物達の心情などを、歌で表現するのだとか。それは私もまだ見たことがございませんわ」

「歌で? それは面白い試みですね」

 ルカはすっかり興味を持ったようだ。熱心に王女から劇の話を聞いている。

 シディアは、流れていく街並みに視線を移した。

 今馬車が走っているのは、商店が集まっている大通りだ。露店の集まる界隈を過ぎれば、立派な構えの店が整然と並ぶ辺りにさしかかる。売られているのは食べ物から宝飾品まで多様だが、どれも高級品ばかりらしい。店に入っていく者達の身形や様子から、シディアはそう判断した。

「そろそろ一休みいたしましょうか」

 王女が提案するままに、彼らは乗り合い馬車を降りその通りの静かな建物に入る。飲食物を提供する店の一階は広く、並んだテーブルはほぼ満席だった。

「二階の方がよろしいかしら。個室になっておりますの」

 王女が店の支配人らしい男に話しかけると、男は恭しく彼らを二階の一室へ案内した。注文が決まったら呼び鈴の紐を引けと言いおいて、すぐに退出する。一連の物腰が洗練されていた。

「ここは、王侯貴族の御用達……というわけではなさそうですね?」

 アステルが差し出した冊子を、そっとテーブルの上に広げたルカが問う。

「ええ。誰でも利用できる気軽なお店ですわ。長い時間をかけてお茶と歓談を味わってもいいし、空腹と喉の渇きを満たしたあとはすぐにでてもいいと」

「……アステル王女は、ずいぶん市井の暮らしにお詳しいですね」

「お兄様の受け売りですわ。以前、連れてきてもらったことがありますの」

 目を丸くするルカに、アンジュが短く説明した。

「エリューシアは、よく市中の視察をするのです。違法行為は自ら調査し、取り締まってきたそうです」

「自ら?」

 ルカは、口をぽかんと開いたまま固まっていた。無理もないとシディアは思う。

 かつてエリューシアの暗殺を目的としていた際、彼のことを調べた。その結果、騎獣に乗って市中を警邏するという驚くべき行動の習慣を突き止め、逆に戸惑ったものだ。これほど無防備でいいものだろうか、と。

 もちろん実際には数人の供を連れており、身辺の隙など見出せなかった。それでシディアは王宮に入り込み、機会を窺うことにしたわけだが。

「兄上?」

 アンジュの声が、気遣わしげにルカを呼んだ。

「どうかなさったのですか?」

「ん? いや……少し驚いただけだよ」

 ルカは苦笑して、弟と同じ色の目を細める。

「我が国とはあまりにも違うな、と思ってね」

 本当にそうだ。

 治安がよく物資も豊かなエンディミオン。文化面の発展も著しい。個人レベルの所得も高いのだろう。皆無とまではいかなくても、おおむね問題なく暮らしていくことができる国。

 シディアが生まれ育った場所は、差別と弾圧に支配されていた。今でもそれは本質的には変わっていない。数を減らしていく同胞。いつ自分が、その中に含まれてしまうかもしれないという恐怖。富むのは上にいる者ばかり。そして彼らは、踏みにじられ搾取される側を省みない。無尽蔵に湧き、いくらでも奪えるのだと信じて疑わないのだろう。抑圧され蔑ろにされる屈辱にも苦しみにも、まったく目を向けない。

 だがそこまで考えた時、鮮烈な銀が目の奥で閃いた。

 シディアは、思わず頬の緊張を緩める。

 あの最悪な場所にも、ただ一つ美しく確かなものがあるのだ。

 血にまみれ汚辱の中でもがいていた自分に、差し伸べられた白い手。

 滅びに向かう己の国の正しい有様を直視する、翡翠色の強い眼差し。

 エンディミオンとザークレイデスは、確かに大きな隔たりがある。けれど違わないものが――勝るとも劣らないものは、確かにある。

 誰からも見えない位置で、シディアは微笑んだ。

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