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134.置き去りにして

 ザークレイデス皇国第一皇子の病死。

 その知らせは、葬儀の日程通知とほぼ同時にエンディミオン国王宛で届けられたらしい。月香達が帰還してから四日後のことだ。

 月香はその四日の内真ん中の二日間が法定休日――平たく言えば土日だったため、エンディミオンには行っていない。いろいろと疲れていたこともあり家事などを片付けてごろごろしていたので、正直ヴィヅのことはあまり考えないようにしていた。オン・オフの切り替えは大事なことだし。

 いろいろごたごたしたが、月香は前までと同じくエリューシアの部下達とともに事務処理の業務をすることになった。月曜日にもとの事務室(便宜上そう呼んでいる)へ戻る時はさすがに緊張したが、月香が思っていたよりもかつての同僚達は友好的に彼女を迎えてくれ、逆にいたたまれなくなるほどだった。

 彼女自身、以前とは違う気持ちで仕事に取り組んでいる自分に気づいてもいた。何がきっかけで、どう変化したのかはわからないけれど、嫌な気持ちではない。

 そして月曜日は何事もなく勤務が終わり、火曜日。

 爽やかな気持ちでヴィヅ企画事務所へ出勤した月香は、マネージャーの緊張した表情に出迎えられて面食らった。

「何かあったんですか?」

「うむ、悪いと言えば悪いし、そうでもないと言えばそうでもない微妙なことがあった」

 本当に微妙な言い回しだ。

「いったい何が?」

「ザークレイデスの第一皇子が病死したそうな」

 第一皇子。この間あの国で自分達を捕らえた人物だと、数秒かけて思いだした。対面した時間も短かったし、疲れていたせいで印象があまり強くなかったのだ。

 だがそれでも、あの皇子が病身というふうには見えなかった気がするのだが。

「持病が悪化したとかですか?」

「それが、どうもきな臭くて。詳しい話は、向こうで彼らに聞くといい」

 それもそうか。特にアンジュやルカは彼とは不仲とは言え一応身内なのだし、もっと深い事情を知っているだろう。

「じゃあ、行きます」

「気をつけて」

 一旦エンディミオン王宮内の自室に出てから、必要な物だけを持ってエリューシアの部屋に向かう。そういう事情なら忙しくて部屋にはいない可能性もあったが、幸い彼はすぐに出てきてくれた。

「月香、ノートリア皇子のことは聞いたか?」

「はい、さっきマネージャーから。私達を捕まえたあの人のことですよね?」

「ああ……。今、アンジュレイン達も呼んだところだ」

 促されるまま部屋に入り、月香はようやく気づいた。

「殿下」

「ん?」

「お顔の色が悪いです」

 エリューシアは笑っただけだった。その笑みに、胸が騒ぐ。

 彼らしくない。弱々しくて疲れたような、こんな笑い方は。

「お疲れじゃないですか?」

「正直、少しな」

 ますます彼らしくない。素直に疲労を認めるなんて。

 これは、相当の過労だ。

「殿下、何時間かでもいいから休んでください。事情の説明は他の人にも聞けるし……」

「駄目だ」

 月香は、びくりと言葉を止めた。エリューシアの声が強くて。

「……すまない。驚かせたか?」

「いえ……」

「だが本当に、まだ休めない。今後の方針を決めないと」

「無理しないでください。休むことだって立派な仕事です」

 言ってから、自分で自分につっこみを入れたくなる。どの口が、と。

 しかし、だからこそわかることもある。

「何かをやり続けるだけが、物事を解決させる方法じゃないと思います。撤退だって戦略って言うじゃないですか。それに、人間の脳は睡眠を十分にとっていないと機能が鈍るって」

 話すうちに、思い出す。少し前のこと。

 夜だった。大丈夫だと繰り返す自分を、この人が諫めてくれた。

 他でもない、この人が。

「明日考えるようにしたっていいじゃないですか」

「月香?」

 今ならわかる。あのときの自分が、どれほど疲弊して周りが見えなくなっていたか。自分の気持ちに対してすら鈍感になっていたか。

 この人は今、まさにその状態になっているのではないか。

「皇太后様だって、アステル様だって、琴音ちゃんやアンジュさんも、ご両親も、殿下に何かあったら心配しますよ」

 エリューシアの緑色の瞳が、大きく見開かれた。何かの記憶を辿るように束の間視線が虚空をさまよい、また現を見つめる。

「そうだな……」

「はい」

 月香はほっとして頷いて。どうしてこんなに安堵しているのかはわからなかったけれど。

「アンジュさんたちがいらしたら、事情を説明しておきますから、今すぐに休んでください」

「わかった。すまないが、頼む」

 続きになっている寝室へ、彼は歩いていく。その背中をじっと見つめていると、彼が振り返った。

「お前は心配するのか?」

「え?」

 そして回れ右をして、つかつかと戻ってくる。

 質問の意味が分からず、月香は戸惑っていた。彼が近づいてくることの意味も、だから正確に把握できなかった。

 強く、抱きしめられるまで。

「あ……あの」

 動けなかった。抱擁が強かったためだけではない。

 恐れていたから。

「お前は、私を案じてくれるのか?」

 問いかける声の近さに、月香は震えた。

 初めてのことではない。毒の効き目から覚醒した朝、疲れ切って泣き出した夜、彼の腕が労り慰めてくれた。

 でも。

 違うのだとわかる。

 今の、これは。

 彼の優しさという言葉で多い隠すことのできない何か故だと、いやでも思い知らされる。

 逃げなければならない。だから。

 なのに温もりの鎖は堅固で、月香を放さない。

「それとも、『エンディミオンの第一王子』を案じているだけか?」

 笑いの混じった、小声の問いかけだった。けれどそこに込められているのが怖くなるくらいの真摯さだと、月香にも伝わってくる。

 見ない振りも、気のせいだと自分をごまかすこともできない強さで。

 この人は、きっと。

 月香は、ぎゅっと目をつぶる。

 自惚れではないだろう。最後の砦であるそんな言葉も、この状況の前では通じない。

 自分が震えていることを、月香は知った。

「月香」

「……っ!」

 思わず息を止めてしまう。

「月香、私は」

 駄目だ。

 どうか、何も言わないで。

 戻れなくなる。取り返しがつかなくなる。

 胸が苦しい。心臓の音が早すぎて、怖い。

 エリューシアが、身じろぎしたのが伝わってきた。抱擁が緩まりほっとしたのも束の間、大きく温かなものに頬を包まれ、再び硬直する。

「……泣いているのか?」

 問われて、驚いた。あわてて目元を触ってみるが、涙が流れた跡はない。

「すまない……」

 それでもエリューシアは、ゆっくりと離れていった。背を向けて、今度こそ隣の部屋の扉を開ける。

 振り返らないままで、その背中は見えなくなった。

 足がふらついて、月香は床に座り込んだ。

 まだ動悸が激しい。深く息を吸って、胸元を押さえる。しばらくぼんやりしているうちに、何とか立てるようにはなった。しかし頭は働かず、月香は部屋の中央で立ち尽くす。

 静かだった。時間の経過がわからないくらいに。

 ノックの音がして、月香はふっと扉に目を向けた。そういえば、アンジュ達が集まる予定だったはずだ。

 月香の役割は、エリューシアが休んでいることを伝えて、時間を改めてもらうよう頼むこと。秘書官なのだから、代わりに謝罪もしなければ。

 エリューシアの。

「……っ」

 かっと熱を持った頬に、月香は愕然とした。

 どうしてこんな、突然。エリューシアの名前を思い浮かべただけだ。

 関係ないはずだ。さっきのことなど。

 抱擁の。

 腕の強さと、温もり。

 今は、関係ない、はず。

 手が動いたのは、ほとんど衝動的だった。

 首から下げている巫女姫の鍵を取り出して、扉の鍵穴に差し込んで回す。駆け込んだのは専用レストルーム。化粧室の洗面台の前にまろび、勢いよく水を出す。

 顔を洗う。何度も。

 シャツも髪も、びしょ濡れになった。化粧も当然崩れただろうが、正直水を止めるまでそんなことも忘れていた。

「はぁ……」

 ぽたぽたと、水が滴る。胸元までもが冷たい。鏡を見るのが怖い。きっと、お化けみたいな顔になっている。

 でも、落ち着いた。少し。

 手探りでティッシュボックスを見つけ、ティッシュペーパーを取る。目元だけ水を拭き取って、恐る恐る鏡を覗く。水しぶきの痕跡越し、透明な壁の先には見るも無惨な女がいる。

「一回落とすか……」

 メイク落としも化粧の道具も、ここにはそろっている。着替えもなぜかいつもバスルームのクローゼットに入っている。便利なものだ。せっかくだから、使わせてもらおう。

 もう一度きちんと洗顔をして、化粧を直していく。いつもの出勤時の顔ができていくにつれ、動揺は鎮まっていく。

 失敗したな、とまず思った。誰かがやってきたのは確実なのに、無視することになってしまったから。あのまますぐ帰ってくれただろうか。しばらく扉を叩き続けて、待っていただろうか。

 その音で、エリューシアが休息を妨げられていなければいいのだが。

「……まただ……」

 せっかく落ち着いたと思ったのに、また心臓が騒ぎだす。けれどそれほど気持ちがざわつくこともなく、程なく月香は身支度を整えた。

 最後にもう一度鏡で前進を確認して、きびすを返す。扉に手をかける瞬間、脳裏をかすめた思考は見ない振りをする。

 嬉しい、ならばよかったのかもしれない。いやだ、でもましだっただろう。

 自分の気持ちなのに、一向に正体がわからないよりは。

 わからない、わからないとリフレインする心の声を月香は背後に置き去りにして、部屋を出た。

 追いかけてこられないよう、しっかり扉を閉めて。 

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