130.大切な
物事を悪い方向へ向かわせる要素を、消し去る力。
それが月香の力だとサナは言った。
「もっとも例によって、何をして『悪い方向』とするかは、巫女姫自身やその他の要素によって定義が変わるんだけどな」
赤子のレマをあやしながら、サナはうんうんと頷いている。
エリューシアは、未だに昏々と眠っているであろう二人の巫女姫のことを思った。
あの光の塊が、橙色の力のカーテンによって消滅した様は、『もにたー』で見ていた。その後すぐアザゼルも伴ってエンディミオンへ移動したのだが、王宮は騒然としていてそれを落ち着かせるのにも手間取ってしまった。後でわかったのだが、光の塊が現れる直前に地震があったらしい。ただでさえそれで浮き足立っていたところにあんな異変があっては、平静を保てと言う方が酷だろう。
立場上、エリューシアがまずしなければならなかったのは、混乱する人々を鎮め行動の秩序を回復させることだった。
月香と琴音が、光の塊の消滅と同時に意識を失って運ばれたと聞いたのは、三十分ほどあとのことだった。
「いきなり王子が血相変えて呼びにくるから、びっくりしたぜ」
強引に向こうの世界から引きずってきた創世神は、片割れの赤子を抱いて苦笑している。さっきまで眠っていたレマは、今は目を覚ましてじっとエリューシアを見ていた。
「まあ、月香が覚醒したのはよかったな。本人も気にしてたみたいだし」
「本当にね。それが唯一の幸いだ」
皇太后の声に抑揚はなかった。何一つ収穫もなく還ってきたことを、咎める響きも。
しかし、エリューシアは思わず俯いて膝の上で拳を握った。
レナードのことも、ザークレイデスであったことも、すべて話した。魔王の傀儡というものを祖母は当然知っていたようで、それについて特に驚きを表すことはなかった。
やっぱりね、と言っただけ。
「しっかし、終末の剣を忘れてきたのは痛いんじゃないか?」
サナの言葉で、エリューシアはさらに拳に力を込めた。
気づいたのは、事態が落ち着いたときだった。シディアに預けていたはずの剣がどこにもないと、最初にアンジュが指摘した。
最後にあの剣を見たのは、ザークレイデスの宮殿。
持っていたのは。
「エリューシア、もう一度確認するよ。終末の剣はレナードが持っていた。それでお前に襲いかかってきた。間違いないね?」
「……はい」
「ふむ」
祖母は少しの間考え込み、そして。
「それは、幸運だ」
にやりと、笑った。
幸運。
何が?
理解が追いつかずにいるエリューシアの横で、サナがぽんと手を打った。
「あ、そうか。レナードは今傀儡にされてるから……」
「剣を持っていれば、それが守りになる」
「なるほどな」
二人のやりとりが、ぼんやりと頭の中を通り過ぎていく。
終末の剣は、魔王への対抗手段となる唯一の武器。
レナードは、その魔王の力に絡めとられている。
彼の手に今終末の剣があることが、幸運。
守り。
「まさか……」
おぼろげに、一つの仮説が浮かんでくる。
「魔王からレナードへの干渉を、あの剣が防ぐのですか?」
「そう。こちらからの攻撃を十割以上のダメージとして伝えると同時に、向こうからの反撃を防ぐことができる。終末の剣は、攻防一体の武器なのよ」
エリューシアは、じっとテーブルの端を睨みつけた。祖母の言葉を、頭の中でよく吟味する。
少しずつ、拳がほどけていく。爪を立てていた掌が痛い。それでも、何ほどのことはない。
「悪く見えるからといって、必ずしも悪いだけだとは限らない」
祖母は、厳かにそう言った。
「たとえ本当に悪かったとしても、それにどう対処するかを考えることはできる。思い詰めて思い悩んで、何もせずに停滞するよりはずっとましだ」
励まして、くれているのだろうか。
祖母はいつも強い。そして、正しい。
対処する。
できるだろうか。自分に。
「大事なのは、諦めず屈しないことだよ。向き合いどうにかしようという意志を捨てたときが、本当の意味で終わるということだ」
衣擦れの音がして、ぽんと肩を叩かれた。顔を上げると、祖母が傍らに立っている。
「諦め、負けを受け入れる以外の選択は、終わりではない。状況を見定め最善と判断したのであれば、逃走もまた立派な布石だ」
「……そうでしょうか」
自分でも情けなくなるくらい、弱々しい声が出た。
「もちろんだ」
だが、祖母はそれを笑ったりしなかった。
それどころか。
「あ、わ、何を!?」
次いで起きた出来事に、エリューシアは思わず声を裏返してしまう。
包まれていた。
およそ十数年ぶりの、祖母の温もりに。
「よく無事で戻ってきたね……」
耳元で聞こえた声。
エリューシアはまず自分の耳を疑い、すぐにその事実を重くかみしめた。
震えている。
先ほどまで、強く張りのある言葉だけをかけてくれていたのに。
「……はい。お祖母様」
幼い頃だけの呼び方で応えると、抱き返した背中は小刻みに揺れた。
笑ったのか、それとも。
子供の時は、よくこんな風に抱き上げられたことがある。ふくよかな腕を、今も覚えている。
大きい人だ、と思っていた。
けれど交わし合う抱擁は、頼りなくて。
こんなにも、小さかったのか。
「サナ」
「ん?」
少年の返事は、やや離れたところから聞こえた。気を利かせて、移動してくれたのかもしれない。
はっきりと届くよう、エリューシアは少し声を強める。
「ありがとう」
「何が?」
「巫女姫を、エンディミオンへ遣わしてくれたことだ」
世界の真上から見た、あの光の塊。魔王の悪意は、この国を目指していた。あれが到達していたら、どうなっていたことか。
「琴音と月香のおかげで、この国は守られた」
たくさんの民も、土地も、今こうして寄り添ってくれる人を初めとする、大切な家族も。
今更ながら震えてきた指を、エリューシアは手の中へ握り込む。しっかりと。
「感謝する。レーマサーナの加護に」
「……感謝は俺達より、巫女姫達に言った方がいいよ」
答える言葉は、笑いを帯びていた。照れているのかもしれない。
ようやく祖母が抱擁を解いてくれても、エリューシアにはサナの顔は見えなかった。少年は、背中を向けていたから。
けれどサナの肩越しに顔を出したレマは、にこにこと笑っていた。