123.襲撃者
式典で数度、ザークレイデス第一皇子ノートリアには会ったことがある。
だが、ノートリアは月香はなおのこと、エリューシアにも目もくれず、ひたすらアンジュへの嫌みを並べることに腐心していた。いくら髪を染めているとはいえ、尋問すらしないというのは迂闊に過ぎる。
「どこかで死んでいるか、惨めに民草の中で暮らしているかと思っていたが、まさかこんな形で再会するとは! 麗しの愚弟よ、何かこの兄に言うことはあるか? ん?」
アンジュは、終始無言でいた。視線すら、自分の周りをよたよたと動き回る肥満した異母兄には向けない。
「まあよい、今更何をしにのこのこと舞い戻ってきたのか、じっくりと尋問して吐かせてやるからな」
つれていけ、と衛兵に命じるノートリアは、ひっきりなしにハンカチで額を拭っていた。息も上がっているようだ。
まさか、たった数分アンジュの周りをうろついただけで息切れしたのだろうか。
呆れたアンジュだったが、両側から腕を取られるまま素直に衛兵に従い、彼を先頭にごてごてと趣味の悪いノートリアの部屋から出た。
あの不思議な機械仕掛けの乗り物で、首都の『駅』という場所に着いたのが、およそ二時間前。そこからは別の乗り物に乗せられたのだが、それはエンディミオンにもある馬のいらない車だった。そもそもそれはザークレイデスから輸入しているのだから、不思議はない。
ちなみに、レマは見事に監視の目をかいくぐって、さっさと帰ってしまった。兵士達の誰も何も指摘しないのは、グリードにしたのと同じように記憶を操ったからだろう。
グリードと彼の部下達は、駅に着いたときに追い払われてしまった。その後どうなったかはわからない。
「彼は機転も利くようですから、きっと主の下へ戻っているでしょう。報告と、指示を仰ぐために」
三人は、一緒に一つの部屋に閉じこめられた。拘束はされていない。手分けしてざっと監視や盗聴がされていないかを確かめた後、さらにアンジュが結界を張った。そして彼は、確信に満ちた表情でそう断言した。
「お前の兄上か」
「ええ、確かに序列はノートリア義兄上より下ですが、皇族は皇族。グリードがすぐ自由になったのは、私達にとっては逆にありがたいことでしたね」
「ノートリア皇子が、先回りして手を打っているという可能性は」
「あり得ません」
これも自信を持って、アンジュは答えた。
「エリューシアには、あの義兄の策でグリードの動きが阻止されると思えますか?」
「ないな」
「でしょう?」
なかなかひどいことを言い合って、二人は同時ににやりと笑った。
「まあでも、ここで鍵を使って脱出する道もあるわけだが」
予想通り取られることなく済んだ巫女姫の鍵を、エリューシアは服の中から引っ張り出す。
「もちろん、今すぐではない」
そう続けたのは、アンジュと同じことを考えたためではないだろう。
格子がはまってはいるが、部屋には窓がある。外は絶壁だが、彼なら造作なく入ってこられるはずだ。
来るとしたら、きっとここから。
「魔王の器は」
そのとき、月香が呟いた。
「この宮殿にいるって、シディアさんは言っていたんですよね?」
「ええ」
アンジュは頷く。
「じゃあ、ここにいる人が器ってことになるけど……。全部でどれくらいの人数がなんですか?」
「……二千人は下らないですね」
これはアンジュがここにいたときの概算でしかない、とも付け加えた。あれから七年経ってるのだから、まったく変化がなかったことはないだろう。
「出入りもかなりあるはずです。宮殿に住んでいるような暮らしの貴族もいますし、逆に直系ではない皇族は時折訪れて短期間滞在するだけです。そういう人達は、いつやってきていつ帰るのかも決まっていませんから、あのときシディアが感知した器が、今はもうここにはいない可能性もあります」
あとは、重臣、役職を持たない貴族、衛兵、侍従、女官、下働きの女中、さらにその下にいる使用人達まで数え上げれば大人数になる。
「そしてもちろん、第一、第二皇子とその母である妃殿下。第三皇子のヴィラニカ兄上も除外できません。……ルカ兄上も」
でも、と月香が言いかけたが、アンジュは首を振る。
「確かに、ルカ兄上が宮殿にいることは稀です。しかし皆無ではない。事実、アステル王女とはこの宮殿でお会いしたはずです」
「そう聞いている」
「つまり、シディアが器の気配を感じた期間に、兄上が宮殿にいたのだとしたら、その仮定は覆される」
シディアがルカを器でないと断じた根拠は、その程度の儚いものでしかないのだ。
「結局、シディアに早く剣を持ってきてもらうしかない、ということだな」
エリューシアは、つかつかと部屋の中央へ向かうと、備え付けてあったテーブルの上の茶器を支度し始めた。
「飲むのですか?」
「この後に及んで毒殺はないだろう。やるだけ無駄だ。……一応確認はするがな」
茶葉と湯の上に手をかざし、エリューシアは短く詠唱した。『感知』だ。ややぎこちないが、発動と効果に影響するほど下手ではない。さすが魔法大国の王子というところか。
「うん、大丈夫だ」
エリューシアが緊張を解くのと同時に、月香が素早く動いてポットに茶葉を入れた。
「紅茶みたいだけど、蒸らして淹れるんでしょうか?」
「いえ、これはヒー茶ですから、お湯を注いですぐに飲めます」
アンジュも、カップを並べて手伝った。
閉じこめられているのに、暢気に茶を用意しているのは何だかおかしかったが、他に何もすることはないし、喉が渇いているのも事実だ。
少しして、全員分のお茶が揃う。しかし同じテーブルを囲んでいても、気の利いた話題があるわけではない。疲れているためもあったが、そもそも彼らには何一つ共通することがないのだと気づかされる。
大陸位置の領土と発展を誇る国の王子。
その国に召還された異世界の巫女姫。
そして自分は、身分と立場をそのままに守っていたら彼らと敵対していたであろう人間だ。
もしそうだったら一生、知ることがないまま終わっていたのかもしれない。
エリューシアの公正さと、責任感の強さも。
月香の優しさも。
ルカの部屋での出来事が、今も忘れられない。
お茶が飲みたい、と言ってくれたのだ。彼女は。
アンジュを気遣って。
空になったカップを、受け皿に戻す。それに気づいた月香が、お代わりがいるかと訊いてきた。
いらないと答えようとしたアンジュは、唇を動かす前に扉に目をやった。
気のせいだろうか、外が騒がしい。
「何かあったのか」
思い過ごしでなかったことは、エリューシアが立ち上がったことで証明された。
扉の取っ手を数度動かして、エリューシアは扉を細く開いた。外に見張りがいるとはいえ施錠もしないことに呆れたが、今はそれがありがたい。
エリューシアは少しの間外を窺っていたが、やがて静かに扉を閉めて戻ってきた。
「どうでした?」
「断定はできないが、どうやら侵入者があったらしい」
侵入者。
シディアか、と考えて、違和感を覚えた。彼ならばこんな騒ぎになるようなへまはしないだろう。陽動だとしても、もっと別の手段をとるような気がする。
では――。
「きゃっ!」
考えは、月香の悲鳴と扉が乱暴に開かれた音で断ち切られた。
まず目に飛び込んできたのは、煌めく白銀。
虚空に残像を残して、鋭く閃いて。
「やめろ!」
エリューシアが叫ぶ。
月香をかばったアンジュは、ようやく白銀が刃であり、それを振るう者が誰であるかを知った。
記憶にあるよりも、髪が伸びて乱れていた。何よりも、その瞳の色が異様に暗い。
しかし。
「どうして……なぜ、お前がここにいる! レナード!」
間違い、なかった。
清子を負傷させて、牢獄から謎の失踪を遂げたままの、レナード・アンシア・バークレインに。
「その剣……どうしてお前が」
エリューシアは、常になく狼狽えていた。一歩後ろへ下がる。テーブルにぶつかって、一瞬体勢を崩す。
そして。
レナードの答えは、言葉ではなく再びの斬撃で寄越された。