12.前途多難の仕事先
ロストルームってご存知ですか?
階段を登った疲れのせいで、はっきり言って大神官様とやらの話の内容を琴音はまったく覚えていなかった。というか、たぶん寝てたと思う。授業中などによく体験する、時間を超越した感覚が微かにあった。授業のときのことならノートにのたくった謎の文書が睡眠の痕跡を知らしめてくれるのだが、椅子に座っていただけだし室内には時計もなかったので、どれくらい居眠りしてしまったか琴音に確かめる術はない。
「つっかれたー……」
今日はとりあえず神殿に泊まって、明日王宮に。そんな風に話がまとまったらしい。大神官様のいる部屋から出た時もうつらうつらしていた琴音を、この個室まで連れてきてくれたのは誰だったのだろう。月香だろうか。
石壁の部屋は、全体的に灰色で殺風景。絵が掛かっていたらもう少し華やかだったろうに。もしくは、窓がもう少し大きければ。すでに夕方になりつつある空からは、どんどん光が消えつつある。
「電気どこだろ」
ドア付近の壁を探るが、そんな物があるはずがない。異世界なのである。
ベッド脇に小さくなった遣い差しの蝋燭があったが、マッチもライターも見当たらない。蝋燭だけでどうしろと?
琴音は途方に暮れた。
「それになんか体ベタベタして気持ち悪い」
何気無く呟いて、はたと気がついた。
「そうだ、鍵」
最新ウォシュレットとシャワーブース付の専用室が用意されていた筈だ、マネージャーの話しなら!
もちろん琴音は疑わない。
マネージャーが有ると言ったのだから、それはあるんだ。
薄闇の中、琴音は自分のカバンが机に置いてあるのを見つけると迷わず中に手を突っ込み、キラリと光るピンクのハートが付いた鍵を取り出した。
そしてカバンを抱えたまま首を傾げる。
どこかに鍵穴有ったかな?
悩んだ末、琴音はこの部屋の廊下からだけ付いている鍵穴に鍵を差し込んだ。
アンティークな鍵と、錠前に似た平たい鍵穴はどう見ても合うとは思えなかったけれど、鍵はするりと入り込み、カチリと嵌まる音がした。
鍵は自然に抜けて手の中に戻って来たから、琴音はそうっと扉を開く。
薄い廊下に光が漏れ溢れるのを見て、彼女は歓声を上げてドアの中へ飛び込んでいった。
パタンとドアが閉まった後には、明かりひとつない簡素な廊下が延びるだけ。
「何か必要な物がございましたら、呼び鈴でお知らせください。この紐です」
アンジュは、施設に部屋の中の設備を一通り説明して出て行った。といっても、ベッドと机と蝋燭、水差しと洗面器しかない。宗教施設は基本的に俗世を捨てる修行の場なので、余分な物は一切置かないようだ。
「とは言ってもね」
月香は腕時計を見る。さっきアラームが鳴ったので、もう『終業時間』なのだ。この世界の時間はどう測られているのかわからないが、今は元の世界では午後の五時らしい。
「帰っちゃっていいのかな」
メモを残すにしても、恐らく誰にも読めない可能性が高い。明日になって月香が部屋の中から消えていたら、きっと神殿は大騒ぎになってしまうだろう。
考えた挙げ句、月香は外に出て誰もいないことを確かめ、その辺にあった扉に鍵を射し込み、開けた。
「おお、お帰り」
マネージャーがそこにいた。暢気な微笑を浮かべて。
殴りたい、その笑顔。
しかし月香は拳より先に、用件を切り出した。自分の理性に乾杯したい。
「お疲れ様です。ところでこのまま帰っちゃっていいんでしょうか。連絡なしでいなくなったら、騒ぎになっちゃうんじゃ」
「大丈夫だ、問題ない。明日また世界を越えた時は、この神殿からスタートできるから」
セーブポイントは完璧だ、と親指を立てるマネージャー。月香はとりあえずスルーして、元の部屋から荷物を取ってきた。そして、スルーされて若干へこんでいるように見えるマネージャーの脇を通り抜け。
扉を、閉めた。
「え?」
月香は思わず棒立ちになった、
ドアを開けたら見知らぬ風景。今朝から半ば覚悟していたが、まさか見飽きた風景が広がるとは思っていなかったからだ。
「おや? 違ったかな?」
閉めた筈のドアの向こうから聞こえたしれっとした声に、ハリセンを持たぬこの身が怨めしい。
なぜ暇を見つけて作っておかなかった月香!
自分で自分を叱責しながら、月香はせめてと手のひらに力を入れて指を揃え、そのまま背後に立つマネージャーの胸に甲から叩き込んだ。
「なんでやねん!」
パンと良い音が響き渡り、マネージャーが『ぐほっ!』と噎せた。
ほんの少し溜飲が下がったが、突っ込み待ちに応えてしまった悔しさも込み上げてくる。
とにかく、現状の説明を求めよう。
「このビル都心でしたよね。この部屋五階でしたよね? なんでドア開けたら私の家の前なんですか?」
そう、開いたドアの外は、月香が毎日玄関を開けたら見る景色だったのだ。
どないなっとんじゃワレ、今朝の交通費寄越しやがれ!
が、しかし。
「見事な裏拳だ、月香」
ケホケホと噎せながら、サムズアップしてみせるマネージャーに、本気でハリセンを作る事を決意する。
今夜作ろう、そうしよう。
「裏拳より、このどこでもドアを説明して下さい!」
心の誓いは置いておいて、問題追及を優先させる。
「こんな訳の判らない会社何なの!?」
月香の叫びは、自分のアパートの玄関に響き渡った。
「よし、説明しよう!」
マネージャーはビシッと指を突き出した。
「君も今日からこのウィヅ企画の社員だ。まず、社の事を知らねば何も仕事が出来んだろうからな」
意外な事に、マネージャーは説明をしてくれるらしい。
「本来なら、もう少し後にする予定だったか、君はまず現状を理解してから動くタイプのようだしな」
会社説明くらい普通あるだろ。と月香は思ったが、せっかくこの人を食ったマネージャーがまともな対応を見せているのだから、黙って聞く体制に入った。
「まあ、折よく君の家だ、茶でも飲みながら話すとしよう」
パタンと事務所(?)のドアを締めれば、マネージャーの背後にあるのは見慣れた月香の部屋のドアである。
「なに、心配は要らない。茶の用意は持ってきてある」
にっこりといつの間にか右手に持ったバスケットを掲げて、マネージャーは月香の部屋のドアを示した。
「家庭訪問は、本来の仕事では無いのだがな」
またもや早まったかも知れない。
月香は自分の癇癪に早くも後悔しはじめていた。
凄かった。
はっきり言って、たかがバイトのクロークルームにしては豪華過ぎる。
壁は大理石、しかも薄いピンクの柄が入ったやつで、天井が白い発光パネル、眩しくない白い光が入ってすぐの短い分岐を煌々と照らしている。
真っ正直には分岐で、おしゃれな銅版に『←レストルーム/シャワールーム→』とあった。
ロゴがキネマスタイルでおしゃれだ。
ウォシュレットに未練は有ったが、琴音はシャワールームへ向かった。
そこから先は、乙女の夢の実現のような素晴らしさで、琴音は歓声をあげっぱなしだ。
乙女の夢と言うより、琴音の夢だが、まあ琴音は乙女だから同義語だ。
シャワーブースはなんと薔薇の花を象った陶器のバスタブで、金の縁取りと花びらに巻き付く蔦のように金管が這い上がり、壁に伸びて金の薔薇が頭上に咲く。途中にあちこち枝分かれした小さな薔薇がとっても可愛く蛇口になっていたり、温度調節や湯量調節だったりと、アンティークの可愛さと、微妙な手間が琴音心をくすぐった。
ブースの壁にあるアメニティはもちろん全て薔薇の薫りで、全身薔薇で夢見心地だ。
シャワーブースのガラス戸の外には、フッカフカのバスローブとタオルがあり、目の前にはハート型の鏡の回りにガーベラ型のランプが取り巻いたドレッサーが猫足の腰掛け付きで設置されている。
昔持っていたららちゃんハウスのドレスルームそのものだ。
琴音の憧れの原点にあるドールハウス。
それが今は現実の物として目の前にあり、自分が使用している。
満足のため息を吐きながら、琴音はドレッサーの椅子に腰をおろす。
「このバイト、最高」
いきなり草原に放置とか、迎えの美形といきなり登山とか、凄まじいハードな内容と、なんかかなりバイト時間長かった気もするが、アンジュは美形だし先輩は優しくてしっかりした人だし、レマちゃん可愛いし、こんなに部屋勝手に使えるなんて、良いことの方が多い。
絶対頑張る。
決意も新たに琴音は両手を握り締めた。
と、そこに。コンコンとノックの音がする。
「はぁい、入ってま〜す」
月香だろうか? そういえば、個室なのか共同なのかも知らなかった、共同だとちょっとやだな、とか思いつつ、琴音は入り口のドアを開けると、外は面接のアンティークな部屋だった。
「あれ?」
神殿の廊下はどこに行った?
首を傾げる琴音の足を、誰かがてしてしと触る。見下ろせば、いつの間にかはぐれていたレマだった。
「あ? レマちゃん」
「ねぇた、かえろ」
にこ〜と天使な笑顔を向けられて、琴音は何の疑いもなく頷いた。
「あ、バイト上がりなのね。わかったわ」
ドレッサーにあるドライヤーで手早く髪を乾かし、何故か棚に畳まれていたクリーニング済みの下着や制服を着て、カバンを抱えてレストルームを出る。
「お疲れ様。琴音」
にっこりと微笑むマネージャーへ彼女はやはり何の疑いもなく『はい!』と答えた。
「今日は何か判らないことはあったかな?」
マネージャーは親切に聞いてくれる。琴音はう〜〜んだと首をひねった。
「バイト自体初めてなんで、まだなんにも解りませんけど、月香先輩は親切だし、これから色々覚えて行きたいと思います」
要点もまとまった素直で可愛いお返事です。
中学の担任がそう誉めてくれたから、思うことをきちんと言う。
マネージャーはにっこり微笑み返してくれた。
「鍵を使えば、この部屋から君の家まで帰れるよ」
何かの秘密を囁くように、マネージャーはウィンクをくれたから、琴音は石の無い鍵を取り出して素直に頷いた。
「ありがとうございます。お疲れ様でした!」
嬉しそうに鍵を使い、自宅の玄関へ帰って行く琴音の背中へ、聞こえない呟きをマネージャーが落としたのは、もちろん琴音が気が付く筈がなかった。
「ここまで疑いがない人間は、見習い天使並みだな。全く正反対だ」
お風呂はおにゃのこの活力です