118.ありふれた毒
無能だ。
赤から青に変わった紙片を無造作に脇へ置いて、ヴィラニカは溜息をついた。紙の色と同じくらい真っ青になった給仕に気づいて、穏やかに尋ねる。
「誰に頼まれた?」
「ひっ……!」
給仕は逃げだそうとしたが、部屋にいた衛兵に取り押さえられる。無駄にもがこうとする給仕の前に、ヴィラニカは膝をついた。
「罰するのは簡単だが、無闇に貴重な人員を減らしたくはないんだ。お前は今まで忠実に仕えてくれていたし、毒を盛った時だって面白いくらいに手が震えていた。本意ではなかったのだろう?」
給仕は、汗と涙でどろどろになった顔を上向けた。唇が戦慄いている。可哀想になったが、まだ衛兵をどかしてやることはできない。
「お前は失敗した。このまま逃げても、お前を唆した者に人知れず殺されるだけだ。それくらいはわかっているな?」
給仕の顔は、蒼白を通り越して土気色だ。しばらくヴィラニカは言葉を切り、彼が十分恐怖に溺れた頃を見計らって再び口を開く。
「だが、私は知っている。お前の長年の忠誠を。ほんの一時の気の迷いなどでは打ち消せないほどの誠意を、お前は私に捧げてきてくれたな」
優しい声で、ゆっくりと話しかける。
給仕の顔に、少しずつ血の気が戻ってくる。
「それに免じて、罪を減じよう。答えよ、お前を唆したのは、誰だ?」
「……ノートリア皇子殿下です」
他愛ない。
ヴィラニカはほのかに苦笑し、衛兵に無言で命を下した。すべて心得た衛兵は、抵抗をやめた給仕を引き連れて部屋を出ていった。
しばらくは、牢で我慢してもらわなければならない。ヴィラニカの存在によって、嫌でもノートリアは計画の失敗を悟るはずだから。あの給仕の人柄と誠実さを貴重に思っているのは事実だし、一度でも敵意を向けたから存在すら抹消するというやり方は好きではない。
甘い、と叱られるかもしれないが。
いずれにせよ、とヴィラニカは椅子に座りながら考える。毒を検出するための紙を、ハンカチに包んで慎重にしまう。
証拠にはならないが、どのような毒かは調べることができる。ノートリアが手配したのなら、おそらくたいしたものではないだろう。どこでも手に入る、ありふれた毒物に違いない。
異母兄自身と同じ。
「ヴィラニカ」
続きの部屋から勢いよく扉が開かれて、レナードが飛び込んできた。ヴィラニカが口を開くよりも立ち上がるよりも早く、彼は腕を伸ばしてくる。
「落ち着いて」
両肩を強く捕まれ、言葉が不自然にくぐもった。抱きしめられるのだけはかろうじて避ける。それでもレナードは、なおも詰め寄ってくる。
「毒を盛られただと! なぜあんなにたやすく解放した?」
「彼だけを罰したところで、解決にはならないからですよ」
「見せしめにすればよかったのだ。死体を、首謀者に送りつけてでも」
「……騒ぎが大きくなって、何か私に得がありますか?」
あくまでも静かに応対しているうちに、ようやくレナードも冷静さを取り戻した。
「すまない」
「いえ」
両肩にかかる重さと痛みが、消える。だらりと腕を下ろし、レナードは部屋の隅へ移動した。
うなだれた背中。身長も肩幅も自分より一回りは大きいはずの青年を、小さく感じたのはなぜだろう。
「……ありがとう」
その想いに圧されて、言葉が転がり落ちた。レナードが、驚いたような顔で振り返る。
「案じてくれて……」
「当然だ」
返ってきたのは、それだけ。
レナードはそのまま、隣の部屋へ戻っていってしまう。引き留める理由もなく、ヴィラニカだけが残される。
まだ肩が少し痛い。
あんな風に必死な人の、むき出しになった感情に触れたのは久しぶりだ。驚きよりも、困惑が強い。
案じてくれた、のだろう。
胸の奥が、むずがゆい。ヴィラニカは、そっと自分の肩に手を置く。
不快ではないけれど。
自分のことを心配してくれる人など、いないに等しい。生みの母であるはずの女にも、同じ腹から生まれたはずの男にも、そんな温かな感情を期待することはできない。
思い浮かんだのは、ある面影。
青灰色の髪と、不思議な色の瞳の。
思わず、窓の外に目をやった。
無事でいるだろうか。