116.交換条件
第四皇子は器ではない。
そう言われて生じた安堵感に、アンジュはひどく戸惑った。
そういう可能性があることを、考えていなかったわけではないと思う。魔王の気配がザークレイデスにあるのなら、あの国の人間すべてが等しく器となりえるのだから。
だがシディアの言葉が胸を揺さぶったのは、紛れもない事実だ。
心臓の上に掌を当て、アンジュはゆっくりと息を吸い込んだ。
第四皇子。身分を放棄したとはいえ、ルカが皇族の血を引く人間であることは変えられない。実際、アステル王女達が訪問した際、彼は皇子として対面したと聞く。
市井の民のため国のために、身分は邪魔だと考えた異母兄。捨て去ったはずのものは、今も彼を縛っている。
いっそ。と、ふと思う。
いっそ、彼をこの国から連れ出してしまおうか。
ザークレイデスは今、危険だ。器ではないと保証を得た彼であれば、他国へ出しても問題はないはずだ。
では、どこへ。
……最良の選択肢は、一つしかない。
身支度を整えたエリューシアがやってくるまでアンジュはじっと待ち、入ってきた彼の朝の挨拶を遮る形で切り出した。
「エリューシア。お願いがあるのですが」
「……いきなりだな」
彼は面食らった顔をしていたが、椅子に座り続きを促した。
「兄のことです」
「兄上? というと……」
「ファサールカ兄上です。まだ紹介してはいませんでしたが」
前にエリューシアが兄の部屋へ来たときは、不在だったから。
「その彼がどうした?」
「実は……」
さすがに、すぐ続きを口にすることはできなかった。
厚かましい願いだ。自分などが、彼に対して何かを請うなど。
でも。
「少しの間だけでも、兄をエンディミオンへ行かせていただきたいのです。ザークレイデスに置いておきたくない」
エリューシアは、目を丸くした。アンジュはさらに、ルカが魔王の器ではないとシディアが保証したことも説明した。
「だから、あなたの国が危険に晒されることはありません。兄は無欲な人だし、そもそも政治的な一切がいやになって身分を捨てたのです。間違っても、エンディミオンに不利益をもたらすようなことは……」
「……なるほど」
頷いて、彼は身振りでアンジュに椅子を勧めた。躊躇いながら腰を下ろし、アンジュはその緑の瞳を真っ向から見返した。
緑。
知っている別の一対と同じ、なのにどこか違う光。
シディアが先行したがった理由を、今更ながらに理解する。
ミグシャ族の戦士は、そもそもあの人の剣だったのだ。
「アステルから話を聞いた限りでは、正直な人物らしい。それに、私の秘書官に対してもひどい扱いをしなかった」
「……月香にはずいぶん助けられたと、感謝していました。もちろん私もです」
「だが、信頼への判断材料としては弱い」
ぴしゃりと言われ、アンジュは唇を引き結んだ。
「こういう事をさらけ出したくはないが、そちらの民に比べて我が国の気質は楽天的且つ暢気だ。まともに腹芸をやり合って勝てるのは、残念ながら祖母くらいだろう」
謙遜を、とは口にしないでおいた。アンジュも皇族の一員として駆け引きや議論の基礎は叩き込まれているが、なかなかどうしてこの王子は手強い。例えば上二人の異母兄程度では太刀打ちできないだろう。
唯一対等に渡り合えるとすれば……。
「エンディミオンに危険を持ち込みたくはない」
エリューシアの言葉で、アンジュは黙考から気持ちを引き上げた。
「直接会っている相手ならまだしも、又聞きで人となりを判断はできない。特に、今のような場合では」
それはそうだ。
アンジュはうつむいたが、ふと思いついてすぐに顔を上げる。
「グリード・ギアスは、兄上の命で動いています。彼が所持する紋章がその証拠です」
「紋章? ああ、ザークレイデスの皇族は、固有の紋章を持つんだったな」
「はい。偽造はできません。意匠の中に特殊な細工を施していますから。それができるのは、紋章を彫刻する専門の職人だけで、国内には現在二人しかいません」
「その二人を抱き込んで紋章を作らせることは?」
「できるでしょうが、あり得ないと思われます。もし彼らが暴力などで脅迫され紋章を作ったとしても、彼らは自分たちの危機を彫刻の中に仕込むことができる。具体的になにが起きるのかは、国民はもちろん私たちにも明かされていませんが、見ればすぐにわかるようなものだとは聞いています」
「だから偽造はすぐにわかるし、それを知った上で令兄の紋章をあちこちで見せて回っているあの軍人と、紋章を託した相手を信じろということか?」
「はい」
エリューシアは、考え込んでしまった。
彼としては、どうしても慎重にならざるを得ない。というより、断りたい方が強いだろう。第一王位継承者の判断は常に重い。
「あの……」
躊躇いがちな声が、息苦しい沈黙の中へ割って入ってきた。
振り向いたアンジュは、半分ほど開いた扉の陰から顔をのぞかせる月香を見つける。
「月香」
「すみません……出直した方がいいですか?」
「いや、いい。もうすぐ食事の時間だ」
すかさずエリューシアが立ち上がり、扉のそばまで歩み寄った。月香の手を取って、テーブルまでつれていく。
月香は抵抗しない。戸惑った顔はしていたけれど。
アンジュは、一瞬だけ彼女達から目を背けた。
「疲れていないか?」
「はい、ちゃんと睡眠はとれたので」
「やはり自分の部屋の方が落ち着くか」
「はい」
月香は昨夜、鍵を使って自分の家へ帰っていた。朝の食事は今後のことを相談しながら、ということにしていた。 とはいえ、先ほどまでの空気が未だアンジュの肺腑に残っていて、せっかく支度された朝食も味わえそうにない。
「あれ、シディアさんは?」
テーブルについているのは三人。エリューシアとアンジュが躊躇いなく食器を手にしたのを見て、不思議に思ったのだろうか。月香が声を上げた。
「シディアには、先に首都へ向かってもらいました」
アンジュが答える。
「器を捜し当てることができるのは、彼だけなので」
「ああ、皇太后様の剣ですね」
月香は、人数分のお茶を用意してそれぞれの前に配る。部屋の外で見張りをしているグリードの分もあった。彼には申し訳ないが、もうしばらくそのままでいてもらわなければならないようだ。
「魔王の気配は、宮殿にあると。でも特定するには近くへ行かなければなりませんから」
「……アンジュさん」
お茶を一口飲んでから、月香が躊躇いがちに切り出した。
「ごめんなさい。さっきのお話、少し聞こえてしまって」
アンジュとエリューシアは、期せずして同時に彼女に目をやった。彼女は一瞬緊張したようだったが、すぐに言葉を続けた。
「それで、ちょっと思ったんですが、ルカさんをエンディミオンに逃がすのは、いいアイディアなんじゃないかと」
「……根拠は?」
エリューシアが身を乗り出す。
「まず、私が実際に会ってみた印象です。数日一緒に仕事をすれば、信用できるかどうかはだいたいわかります。それから、魔王の器ではないという保証も、シディアさんがしてくれたんですよね?」
「はい」
「じゃあ」
月香は、うなずいた。
「エンディミオンにいても、問題ないと思います。それにもし万が一ルカさんが何か悪事を企んだとしても、絶対に阻止できるはずです」
エリューシアが、眉をひそめた。アンジュも自分の援護をしてもらっている立場ながら、不安になってまじまじと彼女を見つめる。
「月香、どうして断言できる?」
「いえ、だって」
なぜか月香の方が、戸惑ったように彼らを見返していた。
「清子様もいらっしゃるし……何より、琴音ちゃんがいるから」
「琴音?」
「そうか……」
先にうなずいたのは、エリューシア。
「巫女姫の力ということか」
それでアンジュにも合点がいった。
清子の力は、抜け道がわかっている。けれど琴音は、悪意や危険そのものを防いでしまう力を持つ。だからこそ、防衛の要としてエンディミオンに残してきたのだ。
「そうだな……琴音の力を突破するのは難しい。何しろその方法がわかっていない。だが……」
エリューシアは、ぶつぶつつぶやきながら考え込んでしまった。アンジュは祈る思いで、彼が決断する瞬間を待つ。
「わかった」
やがてそのときが訪れ、アンジュは溜息とともに肩の力を抜いた。
「では……」
「条件がいくつか。まず、常に琴音と行動をともにしてもらう。他に護衛をつけることも了承してもらいたい」
それは当然の配慮だろう。ルカが聞いても、納得するに違いない。
「それから、こちらが肝心だ」
エリューシアは、身体の向きを変えた。真っ直ぐに、アンジュを見据える。
「ザークレイデスの情報を、提供してもらいたい」
アンジュは大きく目を見開き、ごくりと喉を鳴らした。