114.使者
買い物をして帰る様子の女達は、皆嬉しそうだった。すれ違う会話の端々から、アンジュは第一、第二皇子のどちらかが行った政策がその理由だと知る。
ここは、ザークレイデスの首都からかなり離れた小さな町だ。それでも、政策はゆきわたっているらしい。施行の正確な時期がわからないが、上の異母兄二人の事を考えるとかなり早いのではないか。
「この間来たときに、そんな話を聞いたな」
エリューシアが、小声で言った。周囲の人々、特にいつ来るかわからない見回りの兵士を警戒したためだろう。
「金として利用できる証明書のようなものを国民全員に配布するんだと。経済政策の一環だとか」
「……私の国でも同じようなことやってましたよ」
曖昧な表情で言ったのは、月香。苦笑いのような、困ったような顔をしている。どんな顔つきに定めればいいのか決められないといった感じだ。それを見れば、彼女の国でどんなことが起きたのかはだいたい想像がつく。
「それで、結果は?」
「税金の無駄遣いだって批判されてました」
そしてだいたい予想通りの答えが、彼女の口からもたらされた。
「金券っていっても、財源は税金なんですよね。つまり、私達が払ったものを『使っていいよ』ってもらったのと同じわけで……。その分国他のどこかでお金が足りなくなって何かができなくなる可能性を作ってしまうことだから、無意味だって」
「その通りだな」
エリューシアが頷く。
「国力の増強が第一。自国内で生産力と消費力すべてが回るのが理想だ」
「ええ」
ファサールカも、似たようなことを言っていた。そしてそのために、農地改革に力を注いでいる。
だが彼一人の努力と、それが実った結果だけでは限界がある。この国の農業は貧弱だ。気候の悪さと土壌・水質の問題はどうにもならない。
「それでもこの国は、どうしても輸出入に頼るしかないのです。賄えない農作物を手に入れるために、技術を売って」
エリューシアの視線が、ゆっくりとアンジュの上に移動してきて止まった。
「貴国の技術製品は、とても精密だ。そして質がいい」
そこで一度、彼は言葉を切る。向こうから兵士が来たからだ。例によって金髪は濃い色に染められているが、兵士に聞かせたい話題でもない。
「我が国でも使わせてもらっている。水田への水の供給、堤防の工事、人手が入り用なところの作業にはほぼ導入している」
「……それは光栄です」
ルカからも聞いていたし、アンジュ自身エンディミオンの暮らしで時折目にしていた。何かの折りにザークレイデスの技術に触れる度、便利だとは思った。懐かしいと感じる代わりに。
「エンディミオンでは、まだ作れない。模倣した品が量産されるだけだ」
「エンディミオンは、魔法が発達していますから。それで十分不自由や不便が補えるのに、わざわざ高い資金を投じてまで異国の技術を使うことはないと考えている方が多いのではないですか?」
「……その通りだ」
エリューシアの答えは苦々しかった。
「慧眼だな」
「いえ、実際にそのような場に居合わせたことがあるだけです」
そのときは、頭の固い神官長と議論する労力が無駄に思えて、結局人力と魔法で事を片づけたのだ。その後も同じような出来事は何度もあり、自身の不便を解消するため魔法の研鑽に励んだ結果、アンジュの魔法はかなり高度な水準にまで達してしまったのだから、悪いことばかりではないということか。
「さてと……少し休むか」
この町では一応繁華街なのであろう、申し訳程度の食堂と雑貨屋が数軒建ち並ぶ通りに出たとき、エリューシアは足を止めた。
「月香、大丈夫か?」
「はい。そんなに歩いてないですし」
この町は国境に近く、サレ王国側の好意で馬車を使わせてもらえた。国境の関所付近からはずっと徒歩だったが、それでも休憩を入れつつ三時間足らずの移動だ。
巫女姫の鍵は、一度いった場所にしか通路を開けない。こっそりと首都に入るためには、徒歩しかないのだ。何しろ今回の目的は、魔王の器探し。国賓待遇では何かと制約ができ、自由に動き回ることができなくなる。
「エリューシア」
人目をはばかるため敬称はやめようと打ち合わせしたとおりに、アンジュはエンディミオンの第一王子を呼んだ。
「食事は採るとして、それからどうしますか? 先へ進んだとしても、次の町に辿り着く前に日が暮れます」
「そうか……。馬を調達できたらと思っていたんだが」
「馬でも、夜までに到着できるかといったら断言はできかねます。月香もいるのですから、安全面を考えると今日はここで宿を取った方が」
「そうだな」
エリューシアは頷き、月香とシディアを振り向いた。
「じゃあ、今日はここで宿を――」
彼の言葉は、しかし統率の取れた複数の足音で掻き消される。
アンジュが動こうとした時には、間に合わなかった。
「月香!」
エリューシアが、叫ぶより早く月香を腕に抱き込む。
シディアが、剣を抜く。
「お静かに願います」
十人ほどはいるだろう。槍を構えた軽装鎧の男達の中の一人が、低い声で言った。
「アンジュレイン殿下。特命が下っております。そちらの方々とご一緒に、どうぞご同行いただけますよう」
「特命?」
アンジュは、何もできずにいた。そのままただ、問い返すことしか。
「はい。速やかにと申しつけられております」
口の利き方からして、軍人。恐らく階級持ち。アンジュはそう判断する。そうすると、そんな人間がわざわざ下級兵士のような身形で、こんな辺境に現れる理由は穏やかなものであるはずがない。
何よりこの男は、アンジュの顔と名前を見知っているのだ。確認すらしなかったのだから。
「……従った方がいい」
エリューシアが囁く。
「そうですね」
アンジュも、同じ判断を下していた。男に向き直り、短く了解を伝える。
「では」
兵士達は男の合図で整然と動き、アンジュ達を囲むように並んで一緒に歩き出す。故意か偶然か、それは何事かと遠巻きにこちらを伺う民達の視線から彼らを隔てる役割も果たしていた。
アンジュは先頭に立ち、駄目で元々だと男に話しかけた。
「お名前を伺っても? それから、誰の命で動いているのかも」
「グリード・ギアスと申します。階級は十人将です」
十人将は、十人部隊の長。才能ある若い軍人がだいたい最初につく役職で、逆に言えば肩書きだけがほしい貴族の子弟がなることはまったくない。つまりは、叩き上げの軍人だ。
「誰の命かという問いには……今は、お答えできかねます」
グリードは、真っ直ぐ前を向いたままだった。そしてそのまま、口を閉ざす。
これ以上の質問は無意味か。アンジュは諦めて、やや歩調を緩める。
「すぐにお知りになれます。黙秘という命は受けておりません」
生真面目に補足して、グリードは前方を指し示した。
「どうぞ、お乗りください。我々が責任を持ってお送りいたします」
「どこへ?」
エリューシアが問う。片腕で月香を支えたまま。
月香は、不安そうではなかった。だが強ばった表情で瞬きもしない。
二人から目を逸らし、アンジュはグリードを見やる。ふとそこで、彼と視線が合った。
鳶色の髪と目。二十代の後半か、三十代の前半。無骨で真面目一辺倒といった雰囲気だ。
その厳つい顔が、ふっとほころんだ。一瞬だけ。
「首都まで。道中の宿も手配済みです故、ご安心ください。皆様を無事にお連れするようにと厳命されております」
口調も、変わっていた。人間らしさと、温かみを感じさせる言葉。
アンジュは、直感した。
彼は味方だ。そして彼をここへ寄越したのは、信頼できる異母兄だ。