110.魔王を屠る狩人
アンジュは、奇妙な立場に置かれている。
歴とした大罪人、しかし王位継承者の命を救った者でもある。せめてもの救いは、同じ境遇にあるのが自分一人ではなかったことか。
隣に座るシディアに顔を向けると、目が合った。シディアはにこりともしなかったが、軽く頷きかけてきてくれただけでアンジュには十分だった。
「なかったことにはできないが、エリューシアから事情は聞いている。それに、あなたの狙った標的は、どちらも元気だからね。処分保留というところにしておくよ」
アンジュとシディアの正面に堂々と座る皇太后は、彼らが席に着くなりそう宣言した。その傍らには、シディアの妹が不安げな面持ちで控えている。
彼らがいるのは、皇太后の離宮だ。ここは本当に、秘密の話をするにふさわしい。
「孫息子を助けてくれてありがとう。まずはお礼を言わせてもらうよ」
「いえ……」
アンジュは曖昧に首を振る。兄の助言に従ったまでで、あの瞬間に居合わせたのは本当に偶然だったのだ。
だからそう言ったのだが、皇太后は首を振る。
「どんな経緯だろうと、結果は同じ。そしてその結果に私が感謝していることもね」
そして彼女は、微笑んだ。アンジュにとって馴染み深い為政者の顔ではなく、身内を案じる人の表情で。
エンディミオン王国の皇太后。そしてかつての巫女姫。しかし彼女は、母であり祖母でもあるのだ。
目の前に座る女性にまっすぐ向き直り、アンジュは無言で頭を下げた。
しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。やがてアンジュがゆっくりと姿勢を元に戻すと、皇太后が「さて」と口を開いた。
その顔はもう、国の中枢を司る者のそれに戻っている。
「その、兄上のことについても含めて訊きたいことがある。アンジュレイン皇子、これまでに『終末の剣』の話を聞いたことはある?」
『終末の剣』。それをこの女性が尋ねるのはおかしな気がした。古い伝承に残るこの剣は、まさしく。
「それは、皇太后殿下がかつて魔王を倒したときに手にしていらしたという、伝説の武器のことでしょうか?」
「その通り」
彼女は重々しく、言葉少なに頷いた。
「サナ……創造神の片割れがくれた剣でね。敵を倒す度に強くなるし、鍛え直したりする必要もないという便利な武器だった。まあ、剣の強度が上がる度に装飾もごてごてして、最後の方では実に使いにくかったけれどね。かさばるし」
往事を思い出したのか、皇太后は小さく笑った。
アンジュは、おとなしく話の続きを待つ。兄の命令には、実はその剣のこともあるのだ。
唯一魔王を倒すことのできる、伝説の剣を探し出すこと。
唇を引き結ぶ。兄の、決意に満ちた瞳が瞼の裏に蘇る。
責任感の強いあの人は、剣を手に入れたら恐らく自分の手で魔王を葬ろうとするだろう。勝ち目など、なきに等しいというのに。
「その剣だけどね」
皇太后はそこで、ミュージアに向けて手を振った。彼女は無言のまま、お茶のおかわりを用意し始める。その動作は実に優雅で、アンジュは視界の端でシディアが満足げにしているのを認めた。
「恐らく今でも、魔王を倒せる唯一の切り札だ。だから、魔王が完全に目覚める前にその剣で倒してしまわなければならない。アンジュレイン皇子、あなたはもしかして、剣の手がかりを求めてエンディミオンへ来たのでは?」
「……その通りです」
ごまかしは何の意味もない。素直に肯定したアンジュに一つ頷いて、皇太后は考え込むような仕草をした。
「皇太后殿下……?」
「実は、剣はエリューシアに託そうと思っていたのよ。孫だし、見て見ぬふりができる子じゃないからね。喜んで二代目の救世主になるだろうと」
そういえば、国内の視察と称して文字通り騎獣に乗って飛び回っていた王子だ。しかし相手は魔王で、彼は第一王位継承者である。
「恐れながら、危険が大きすぎないかと」
「その通り。まあレナードのことがあるから、止めても行くだろうというのは大目に見るとして。それで、考えたんだけれど」
皇太后は、すっと目を細めた。
それだけのことだったのに、アンジュは反射的に背筋を伸ばしていた。
無意識に、唾を飲み込む。
拳を、握る。
「皇子は剣よりも魔法の方がお得意なようだし、そういうわけでとどめを刺す任務は心許ない。そこで」
緊張が解けたのを、実感した。皇太后の視線が動いたから。
アンジュの、傍らに。
「シディア殿、あなたは魔法はもとより戦いの術全般に長けたミグシャ族の戦士。魔王を屠る栄誉を手に入れる役目、お任せしてもよろしいか?」
それまで無言と無関心を貫いていた青年は、大きく目を見開いてまじまじと皇太后を見返した。