11.そこに階段があるから
月の都セレネー。
母なる海パラエを臨む麗しの都。
九重の運河と七方からの道が交差する、エンディミオンの青き王都。
何で道が八方じゃないのか? それは今、琴音と月香がやって来た手付かずの草原がその八番目の方角だから。
街を讃える言葉をアンジュから聞いた月香が、中途半端な数への突っ込みに返ってきた説明だった。
「此処から見ればお分かりでしょう。エンディミオンは新しき風を受ける西に港、富を伸ばす東に大河ラルと穀倉地帯、未来をもたらす南に王宮、そして神の栄光を得る北を神殿が守るのです」
長い腕を優雅に広げて、アンジュが眼下にある都市の紹介をしてくれている。
あべのハルカスから見える風景をハリウッド俳優が紹介すると、こんな感じかなと琴音は思った。眠った赤ちゃん背負って無ければもっと決まるだろう。
「因みに、貴女方のいらしたあの草原は、王家の狩猟場でした」
指差す先には、青い都市の向こうに伸びる手付かずの草原がある。
なんか果てしなく遠くまで広がってるなぁ。パタパタとカバンから下敷きを出して扇ぎながら、琴音は目を細めた。
都市だって京都位の広さはありそうで、さっきから、電車っぽい長い交通機関が動いているのが気になっている。あれはなんだろう?
「穀倉地帯の交通網は整備されているんですね、大型輸送は大河が担っているのですか?」
手摺に半ば腰掛けて、月香が訊ねている。さすがに先輩はキャリアウーマンだ、目の付け所が違う。
「はい、此処から衛星都市のカストまでが一大穀倉地帯です。まあ、まだ何れ程かはおいおい地理を知っていただいてからでなければ、詳しくはお分かりにはならないでしょうが」
「そうですね、何事もこれから教えてください」
月香の返事はちょっと疲れている。そりゃそうだろ。と琴音も思う。
「これから全て、お教え致します」
アンジュは元気だ。
品の良い笑みはうっとりするけれど、さっきからおんぶ紐代わりに背中にくくったマントが、レマのよだれで濡れていく。勿体無いほど美形なのに、シングルファーザーみたいだ。しかも、なぜか似合う。
はぁ、と琴音は息を吐く。
王子様然とした神官の奇妙な所帯臭さと、景色はきれいだけど、自分たちが置かれた状況に。
「琴音殿はお疲れですか?」
ええとっても。
下敷きをパタパタさせながら、力無くアンジュを見上げた。
「どうして、あたしら登山してるんでしょう?」
奇妙な問いにアンジュはきょとんとし、月香は吹き出した。
「今何合目?」
下敷きを日除けにして手摺の影に踞る。
「なんでこんなに階段あるのぉ?」
情けない琴音のぼやきが、遥かに青い都市を見下ろす虚空に溶けた。
なぜなら神殿は、あのでっかいでっかい人工灰色富士山の、てっぺんに建てられていたからだ。
頂上まで、あと一万段。
事務職だと聞いていたから、それに相応しい服装を選んだ。スーツにハイヒール。ストッキングはもちろん無地無色で、あとパンツではなくスカート。
山に登るとか聞いてない。訴えよう。そして勝とう。
そんなことを考えつつ、月香は先を見上げた。まだまだゴールは遠い。靴はだいぶ前に脱いで、素足にハンカチを被せてある。ヒールが折れる危険性があるし、第一危ない。
「大丈夫ですか?」
アンジュが水筒を渡してくれた。もちろんステンレスではなく、この時代によくある革袋のようなタイプだ。正体は何かの内蔵。考えてはいけない。
「ありがとう」
焼き肉屋でも横隔膜とか心臓を食べるんだし、と勇ましく考えを変え、月香は水筒を受け取りごくごくと飲んだ。水はおいしい。肉体疲労時の栄養補給……とはいかないが。
それにしても、と水筒を返しながら、月香はアンジュを眺める。
琴音と月香の荷物を持ち、且つ赤ん坊までおんぶして、彼はずっと登ってきている。疲労が見えないのは、毎日上り下りしているせいだろうか。聖職者はすごい。
「休みながら行きましょう。大丈夫、この調子でいけば日暮れ前には着きますから」
いいながら、彼は背中の赤児をあやしている。背負われているだけの赤児は、無邪気にきゃっきゃと笑っている。
何でこの人、こんなに慣れているんだ。
月香は溜息をつき、仕方なく一歩前へ踏み出した。後ろから、琴音のぼやきが聞こえてくる。
ぼやいていると体力を無駄に消費すると思うのだが。
実のところ自分も愚痴を言いたいのだが、社会人のプライドで飲み込んだ。
「赤ちゃん、重くないですか?」
代わりにアンジェへ問いかけると、彼はにっこり返してきた。
「大丈夫。慣れてますから。それに、修行の一環として、毎日二往復していますから」
何が大丈夫なんだろう? 子守に慣れていることか、重い物をもっての階段登りか?
そういえば、神社でもお寺でも、由緒正しい所ほど、山の上にあったりする。
何にせよ。聖職者ぱねぇ。
アンジュの子守り慣れ疑惑はあるものの、些細な疑問など登頂の達成感には敵にはならなかった。
ストッキングの裏ががすっかり磨りきれたのを嘆くより、山頂の清涼な風が嬉しい。
近年経験した事のないやり遂げた感が、脳内エンドルフィンに後押しされて月香と琴音を包み込む。
そうか、これを得る為に人は山に登るのか。
二度とやりたくないけれど。
最上段はテラス風な休憩所になっていて、外縁に添って設置されたベンチに、月香達と同じように登頂を果たした参拝者らしい人々が休んでいた。
テラスの真ん中には二人の少年が掲げる水瓶から尽きる事ない噴水がマイナスイオンとキラキラしい輝きを撒き散らしていて、こんな山頂にどうやって水を上げているのか謎だった。
噴水の周りにもそれなりに人が居て、拝んだり涼んだりしている。噴水に後ろ向きでコイン入れたらご利益があるかも。どこぞの観光名所の作法を月香はぼんやり考えた。ここもそんな名所なのかも知れない。
そういえば、登っている最中にも、結構な数の人々がアンジュに挨拶しながら追い越し登っていったり降りて行ったりしていった気がする。
皆きっと、不馴れな登山初心者を温かく見ながら通りすぎて行ったんだろう。
中学の登山遠足を思い出して、なんだか居たたまれない小っ恥ずかしさが込み上げてきた。
ベンチに思い思いに寛いで、中にはお弁当広げるピクニック感覚な家族連れも居るのが平和過ぎて哀しくなった。
脳内麻薬は切れる時に気分の失墜を連れてくるのだ、人体の理不尽さに腹を立てておこう。そうすればアドレナリンが助けてくれる。
月香がそうやって自分に克を入れつつへたり込んでいた最上段の真ん中からノロノロ立ち上がると、今まで励ますだけで指の一本すら貸してくれなかった神官が、思いの外力強く肩を支えてくれた。
「お疲れ様でした、やり遂げられましたね」
にっこり微笑む美形に、非ジェントルマンを訂正する。
赤ん坊から月香や琴音のカバンまで、アンジュは二人の荷物を全部持ってくれていた。途中で脱いだハイヒールパンプスまで。
通りすぎていった人々のように、登り慣れた彼ならとっくの昔に登頂していただろう。
それでも自分たちに歩調を合わせて、一段一段励ましてくれていた。手伝わなかったのは、何か理由があったに違いない。
取り敢えず前向きに、月香はアンジュのやり方を受け止めてみた。
「お手伝いできずにすみませんでした。ですが、この天空階段は初めて登る時は必ず自力で登らなければならなかったのです」
果たしてアンジュは理由を説明してくれた、やっぱり神様系特有のしきたりがあったらしい。よし、苦行の押し売りを恨むなら神様だな。
月香は挑戦的に神殿を見た。
「三万二千段。半日で登り切られるとは、さすがは巫女姫です。我らが神の恩恵に違いありません」
それにしてもこの人はホントに美形だな。黒い髪に発光しそうな碧い目。しかも背は高いわ足は長いわ肩幅広いわ、なんでこんな宗教臭い解説してるんだろう。剣でも持って誓い立ててる方が似合うのに。あ、そういや神官って宗教家だっけ。
力説しているアンジュの声が頭を通りすぎていく。月香は視線だけはアンジュの顔に固定して、とりとめの無いことを考えていた。
達成感の後の虚脱感のせいだろう。
「この偉業により、我らが神。創造神にして平和の神レーマサーナのよりいっそうの御加護がお守り下さるでしょう」
晴れやかな笑顔でアンジュが言い切った時、彼の背中で機嫌良くウナウナ言っていた赤ん坊が、激しくむせた。
酷い咳き込みで泣き出した赤ん坊をあやすのに、三人が慌てふためいたのは言うまでもない。