106.暗雲
少し前から、気になっていることがあった。
長い説明が終わった後、琴音と月香はサナ達に連れられて事務所へ戻っていた。琴音のバイト時間が終わりに近づいていたことと、巫女姫だけへの連絡事項があると言われたからだった。
琴音は、アザゼルが全員分のお茶を配り終えて着席したのを見計らって、思い切って口を開いた。
「あの、これなんですけど」
鞄から取り出したのは、魔法の攻略本。今やほとんどを覚え込んだ魔法の手引き書である。
「これ、最初はカタカナで書いてありましたよね?」
「うん」
お茶を飲むサナの前に、琴音は適当なページを開いて本を置く。
「でも今は、日本語で書いてあります」
「ちょっと待って」
会話に入ってきたのは、月香だ。
「どういうことなの?」
「いえ、だから……最初書いてあったのと、今書いてある内容が違ってるんです」
断言できる。最初は確かに『ファイアーアロー』などと書いてあった。実際それを使ったこともあった。
けれど、今は。
「ほら、ここ。『炎の鏑矢』になっちゃってます」
琴音は、びしっと紙面を指さした。琴音が引いた蛍光ペンのアンダーラインもそのままに、文字は確かに最初と変わっているのだ。
月香は戸惑った表情で、アザゼルやサナ、赤子に戻ったレマを見ていた。無言の問いかけに応じたのは、サナだった。
「うん、説明はするつもりだったんだ。いろいろあって延び延びになってたけど」
サナは、うとうとし始めたレマを膝の上で優しく撫でた。
「俺と――レマがあの世界を作ったっていう話は、さっきしたけど」
そこも驚いたが、琴音には何となく実感として迫ってこない。魔王とかいろいろなファンタジーっぽい単語のせいで、現実のような気がしないのかもしれない。
「レマは、もともとは俺と同じくらいの年なんだ。こんな赤ん坊になってるのは、いろいろあって俺達の親父から罰を受けたせい。元に戻るためには、様々な経験を積まなければならないらしいんだ。それで、ヴィヅも作った」
琴音の横で、月香が遠くを見ていた。考え事をしているのだろうか。琴音はもう、考える気力もない。ただ話を聞くだけで精一杯だった。
「確実に、実績にはなっているようだった。赤ん坊の姿でも、最初は乳児だったのが今は幼児くらいだからな。でも世界を一つ作って動かしていくのは、俺達だけの力では無理だ。命の種をまいて、こっちの世界からの助っ人も送り込んで、ゆっくりと世界を育ててきたんだ」
「……待って」
サナの物語を中断させたのは、月香だった。
「あの、ものすごい可能性を考えついちゃったんですけど……」
やはり月香はすごい。琴音は感心した。
こんな壮大な話を聞いていても、頭のいい人は何かを発見できるのだ。
「どうした?」
サナは、レマをだっこしてゆらゆらさせながら訊き返した。
「世界を作るとか、お父さんに怒られて赤ん坊にされたとか……。何でそんな人知を越えた出来事がほいほい起きてるんですか?」
「それはな」
答えたのは、一人もぐもぐとお菓子を食べていたアザゼルだった。
「この二人が、神の御子だからだ」
沈黙。
しーん、という擬音が見えるような気がするほどの、沈黙。
今、神と聞こえたような気がするのだが。
「……神?」
「うん、英語でいうとGod」
神。
御子ということは、その子供。
欧米の主要宗教の偉い人と同じなのだろうか。
「ええと」
月香はテーブルに両肘をつき、組んだ手の上に額を乗せて呻いた。
「はい、ええと。それでいいです」
琴音もまったく同意見だった。
「うん、じゃあそういうことで」
神様の息子らしい銀髪の少年は、こほんと軽く咳払いをした。
「で、そうして作ったヴィヅだけど、さすがに一から全部いろいろ考えるのはしんどいから、ちょっと既存のものから拝借した部分もあったんだよな。魔法の呪文もその一つなんだ」
既存のもの。
「つまり、この世界の小説とかゲームからネタをもらってきたと」
「そういうこと」
琴音は首をかしげた。
「琴音ちゃん、そもそもファイヤーアローって、どこかで聞き覚えあるでしょ?」
「ええ、それは……」
琴音も好きな、RPG超大作で出てくる魔法だ。同じ魔法が使えるなんてすごい!と、最初は思ったのだったが。
「ええと、ヴィヅでファイヤーアローが使えたのは、ゲームから魔法のネタを借りたからってことなんですか?」
「その通り」
なるほど、そういうことか。
謎はすべて解けた。
……わけではなかった。
「じゃあ今魔法が変わっちゃってるのは?」
「それは、ヴィヅが成長したからだな」
眠ってしまったレマを横抱きにして、サナが答える。
「一つの世界として存在が確立し、ヴィヅだけの法則ができあがった。だから、魔法も独自のものへと変化したんだ」
「そうなんですか」
わかったような、わからないような。
とりあえず、「そういうものなんだ」と琴音は片付けることにした。
「前のままでも発動はするけどな。原理を説明するとややこしいけど、呪文が違うだけで効果は同じってことになってるだけだから」
そして、いい加減だった。
「……まあ、設定のおさらいは、今日はここまでにしておきましょうか」
月香がこめかみを揉んでいる。琴音も同意見だった。
窓の外は、オレンジ色だ。そろそろ帰らなければ。
「魔王についての対策は、明日からってことで。レナードには、清子がついてるから大丈夫だ」
清子様。
琴音は、ちくりと胸が痛むのを感じた。
レナードがエリューシアを襲ったと聞いた時は、息が止まりそうになった。あんなに仲がよかったのに。魔王のせいなのだろうか。
それに、アンジュとシディア。
いなくなった彼らが、突然戻ってきたのはなぜなのか。
まだまだわからないことは残っているが、すべては明日からだ。
お茶を飲んで、琴音は立ち上がった。
「それじゃ。帰ります。お疲れ様でした――」
挨拶して鍵を取り出したのと。
「アザゼル!」
扉が開いて、エリューシアが転がり込んできたのは、ほぼ同時だった。
「どうした!」
すぐさま立ち上がり駆け寄ったのは、サナ。いつの間にか少年の姿になったレマもそれに続く。
「清子様が負傷された。レナードが……!」
「落ち着け。何があったのかできるだけ順番に説明してくれ」
エリューシアらしくない。こんなに取り乱して。
肩に手が触れて、琴音はそちらを振り向いた。月香が、強ばった表情でエリューシア達を見つめていた。
彼女も不安なのだ。
そう思って、肩に置かれた彼女の手に自分のそれを重ねた。
温かい。
溜息が漏れる。
「レナードは、牢には入れていなかった。それでも、鍵のかかる窓のない部屋に監禁して……清子様の力で、探ってもらっていたんだ」
清子の力は、すべての悪しき者を見抜き、浄化する。レナードがもし魔王の力で洗脳などを施されていれば、それで問題は解決するはずだった。
しかし。
「清子様の力を浴びても、レナードは……。それどころか、清子様に斬りつけて、そのまま隙を突いて逃走したらしい」
「そんな!」
思わず、琴音は叫んでいた。
あの人が。
いつも優しかったレナードが。
視界が歪む。
涙だと、頬に濡れた熱を感じて悟った。
「……ヴィヅへ戻る」
レマが、静かに宣言してエリューシアに手を差し伸べた。
「何が起きているか、探ってみる。情報が集まるまで、お前達はヴィヅへ来るな」
金の瞳が、強く輝く。
動けなく、なる。
琴音が茫然と立ち尽くしている間に、黒髪の少年は扉をくぐり抜け、消えた。