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103/172

103.明日になったら

 無事に戻ってきた妹を、エリューシアは安堵の思いで迎えた。

「お兄様、ただいま戻りました」

「ああ、何事もなくて何よりだ。レナード、疲れてないか?」

「……ああ」

 従兄弟は頷いたが、エリューシアはその返事を信じることはできなかった。

「顔色が悪い」

 体格がよくいつも精悍で沈着だったレナードの頬は、誰の目にも明らかなほど大きく痩けていた。金の髪も艶がなく枯れ草のようで、不思議な緑色の瞳だけが異様に輝いて見える。

「疲れが出たんだろう。今日はもう休め。明日になっても体調が悪いようなら……」

「髪が」

 言葉の途中で。

 その手は、伸ばされた。

「髪?」

「まだ戻っていない」

 レナードの手は、エリューシアの前髪をさらりと払って、そのまま後方へと移動する。

「ああ、色か。思ったより落ちにくいものだな。毎日洗っているんだが」

「そうか」

 髪の中の皮膚に、強い圧迫を感じた。一歩下がり、さりげないふうでレナードから距離を置く。

 数日前の記憶が蘇りそうになったのを、強引に封じ込めた。

「まあともかく、今日は帰れ。報告は明日以降でかまわない」

「そうですわ、レナード様」

 アステルも同調する。

「出発の日から、ずっと具合が悪そうでいらっしゃいましたもの。ゆっくり休んで、早く元気になってくださいな」

「……わかった」

 緩慢な動作でレナードは頷き、扉へ向かっていった。特に足取りがふらついているということはないが、やはり本調子ではないのだろう。だらだらとした遅い歩みだった。

 エリューシアは思わず妹と顔を見合わせたが、すぐに彼女も下がらせることにした。転移装置を使ったとはいえ、旅の後だ。疲れていないわけはない。それに、ザークレイデスでの滞在でも気を遣っていたはずなのだから。

 初めての外交らしい外交の経験として、彼女にとってザークレイデスは少々厳しい場所だったに違いない。エリューシアはもとより、皇太后ですら一瞬たりと気の抜けない国だ。誰もが一流以上の策謀家で、言葉の裏の裏までを常に勘ぐっているくらいでちょうどいい。

 寝支度をすませ、エリューシアが寝台に潜り込んだのはそれから一時間ほど後のことだ。身体は疲れていたが、レナードのことが気にかかってもいてなかなか眠気は訪れなかった。

 あまり考えたくはないが、何か悪い病気にかかったのではないか。疫病はどこにでも蔓延っているし、罹患の危険は常にある。

 そしてもっといやな可能性は、ザークレイデスで人為的な悪意の的にされたということだ。

 レナードは公爵家の跡取りで、仮に謀殺したところでエンディミオンへの影響はほとんどない。だが王族と深い関わりがあることは誰でも知っていることだから、彼を道具にしてゆくゆくは権力の中枢へ牙を食い込ませることを狙うことはあり得る。

 感染性の病の元をレナードに植え付けて、そこからエリューシアやアステル。ひいては国王、皇太后。

 そこまで考えて、エリューシアは自分にうんざりした。

 たった一人の大切な従兄弟の体調すら、素直に案じることができない。背後にどんな可能性が潜むことが考えられるか、それらの影響、対処法まで考えてしまう。

 とにかく、どれが真実であったとしても、すべきことは一つしかない。明日になったら、レナードを医者に診せることだ。

 昔からレナードは丈夫で、風邪もほとんど引いたことがない。だから、余計に気になってしまうのだろう。

 そんなことを考えながら目を閉じているうち、ようやく眠気がゆっくりと降りてきた。身体から力を抜き、うとうとと微睡みに身を任せる。

 今日できることは、もう終わった。あとは、明日。

 明日になれば。

 カーテンの隙間から、微かな光が床と掛布を這っている。目を閉じていてもそれをほんのりと感じていたエリューシアは、次の瞬間目を開けるのとほぼ同時に寝台から転がり降りた。

「誰だ!」

 枕の下にいつも忍ばせている短剣も、すでに手の中にある。いつでも抜けるように構え、寝台からゆらりと立ち上がった襲撃者に、目を凝らして。

 人影の、輪郭が明らかになる。夜闇に紛れる頼りない光でも、十分に見て取れる。

 エリューシアは、動かなかった。襲撃者も、床に足をつけたきり微動だにしない。

 動いたのは、彼ら以外のものだった。

「エリューシア殿下!」

 大きく扉が開け放たれ、誰かの声が鋭く彼の名を呼んだ。

 後ろから、腕を引かれる。倒れる寸前にエリューシアの視界を横切って行ったのが何か、彼には判断できなかった。

 すぐに耳を打ったのは、澄んだ金属の音。

 何度も。

「お怪我はありませんか?」

 それに紛れて、静かな声が問うてくる。

 目の端に、優しい光が灯った。魔法だ。

 照らし出された者が現に違いないことを、エリューシアはしばらく信じることができなかった。

「お前……」

「事情は、後ほど説明いたします。今は、あちらを――」

 エリューシアの背中を支えて、その青年はゆっくりと顔を廻らせた。

 肩からさらりと落ちたのは、漆黒の髪の一房。

 気づけば、部屋の中は静まりかえっていた。

「シディア、怪我はさせませんでしたよね?」

「ああ……『夢幻の抱擁』で眠らせただけだ。しばらくは目覚めない」

 エリューシアは、そんなやりとりを聞きながら軽く頭を振った。何が起きているのか、まだわからない。

 わかっているのは、しなければならないことだけだ。

 深呼吸したあと、彼は静かに立ち上がる。

 睨む。彼の傍らにいる黒髪の青年と寝台の傍らで襲撃者を未だ押さえている男とを。

「アンジュレイン皇子。それから、シディア」

 それぞれの名を呼ぶ。確かめるために。

「話を聞きたい」

「ええ。そのために参りました。……間に合って何よりでした」

 アンジュは一度エリューシアと視線を交わしたあと、襲撃者へと目を移した。

 エリューシアも、その動きを追う。

 倒れているのは、男だ。ゆったりとした部屋着の背に、金の長い髪が散っている。

 反射的に、目を閉じそうになる。顔を背けてしまいそうになる。

 けれどたとえそうしたところで、ここにある事実が消えるわけではない。

「どうして……」

 意味を成さない問いかけだけが、こぼれ落ちる。

 見覚えがある。その体つきにも、部屋着にも、髪にも。

「なぜ……レナードが」

 ずっと握りしめていた短剣が、かたりと床に落ちた。

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