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102.異世界は楽園ではない。

 ゲームなら、前回セーブしておいたところから物語の続きを始めることができる。本ならば、しおりを挟んでおいたところからまた読み始めることができる。

 けれど琴音が今や生活時間の半分を送る異世界は、そんな親切なシステムは存在しない。そもそも、ゲームや本ですらない。

 今日は土曜日で、試験までまだ間があるし、好きなことをして過ごしても何ら問題ないはずの休日だった。難しい大学を受けるようなクラスメートは、せっせと予備校へ通ったり模試を受けたりもしているのだろうが、琴音には学歴に対するそこまでの情熱もなかったし、残念ながら頭の良さもそれに比例するものだ。

 なので、バイトを始めるまでの琴音の休日は、友達と遊びに出かけたり家でのんびり過ごしたりするものだった。でもヴィヅに行くようになってからは、バイトも休みである土日祝日が少し苦痛になってきている。

 自分が顔を出さない間に、とんでもない事件が起きていたら。

 あるいは、事件が起きたのに自分が休んでいる間に何もかも終わってしまっていたら。

 大勢が共有する体験からはじかれてしまう孤独は、なかなかきついものがある。みんなが「あのときは大変だった」と話し合っている中に入っていけないのに、何となく場を離れるのも気がとがめたりして、結局訳が分からないまま愛想笑いと相づちだけを繰り返す。悲しい時間である。

 だがそれはまだいい。何よりもつらいのは、その時自分が何も知らずにいて、何もできなかったと知らされる瞬間だ。

『それで電話をしてきたのか』

「はい、すみません……」

 いてもたってもいられなくなった琴音は、気づけばアザゼルの携帯番号にかけてしまっていた。アザゼルも今日は休みではないかと気づいたのは、あわてて通話ボタンを切るよりも先にマネージャーの美しいアルトが聞こえてきたときだったので、琴音は挨拶より先に平謝りしてしまったのだった。

『今のところ、何も起きてはいない。心配はいらないよ。アステルも今頃はエンディミオンに出発した頃だろうし、休み明けには向こうで会えるのではないかな』

「ほんとですか?」

『うむ。大陸の要所には、転移装置が置いてあるからな。国の管理下にあるので一般人はよほどのことがないと使えないが、王族ならば使わせてもらえる』

 以前皇太后もそれを使ってザークレイデスとエンディミオンを行き来したのだと、アザゼルは説明した。

『月香も休みが明けたら、一度エンディミオンに来る。この連絡はしていたな?』

「はい」

 つい、微笑んでしまう。

 カレンダーで確かめたらそんなに長いこと離れていたわけではなかったのに、もう何年も会っていなかったような気がする。

 まずは、心配していたと伝えて、あのときのアドバイスがとても嬉しかったとお礼を言おう。

「楽しみです」

『うむ。だから、今日と明日は安心して休むのだ』

「はい、ありがとうございました。アザゼルさん」

 通話を切って、琴音は晴れ晴れとした気持ちでベッドに身体を伸ばした。

 迷惑だっただろうけれど、やっぱり相談してよかった。これで心おきなく休日を満喫できる。

 琴音は枕元に手を伸ばし、毎晩寝る前に読んでいる小説を取った。栄美からの借り物で、異世界転移物だ。今となっては人事ではないので、主人公がハーレムになっていたり特殊知識で大活躍しているとつい自分と引き比べてしまったりもするが、まあおもしろい。

 異なる世界というのは、きっと多くの人にとって楽園みたいなイメージなのだろう。つらいことや苦しいことがたくさんあるこの世界ではなく、たとえば知識や特技の価値が180度転換してしまったりすることもあり、自分という人間ができることが何倍にも膨れ上がる可能性を持った場所。

 何でも好きなことが、思いのままにできる世界。そういう認識なのだろう。

 でも、現実に異世界へ行ってみたら琴音はやはり琴音でしかなかった。特別な力はあるけれど、それだけのことだ。

 それに、世界は違っても人の苦しみや悲しみがなくなることもないのだ。ザークレイデスはあまり農作物の穫れない、暮らしの厳しい場所だという。巫女姫である月香を連れていくことで、アンジュは国をよくしたかったのだそうだ。そして彼の兄も、一生懸命に国をよくする努力をしているのだという。

 どんな世界でも、苦しい思いをしたり努力しなければならないという事実からは、きっと逃れられないのだ。

 琴音は、ため息をついて本を閉じた。なんだか、ぜんぜん頭に入ってこない。

「出かけてこようかなぁ」

 琴音の地元は都会ではないが近所に本屋くらいはあるし、自転車で行けるところに大型ショッピングモールだってある。特に今急いで買う物はないが、ぶらぶらしてくるだけでも楽しいかもしれない。

 琴音は立ち上がり、手早く外出の支度をすませた。財布の中身と必要な物を確かめて、部屋を出る。階段を下りたところでリビングに向かって少し出かけると叫んでおいてから、元気よく外へ出た。

 天気が良くて、穏やかな休日だった。

 その次の日も、大きな事件もなく平和な一日だった。


 ヴィヅへの扉をくぐった月曜日から、すべてが変わってしまっていた。

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