100.日常へ、帰る
化粧のりが悪くないだろうか。
髪型はおかしくないだろうか。
忘れ物は、多分ない。
月香は何度も鏡を見たり鞄をのぞいたりして、出勤までの時間を潰した。ぎりぎりまで家にいられるのはありがたいのだが、今朝のように妙に気持ちがふわふわしているときは逆に手持ちぶさたで落ち着かない。
強制的に休暇をもらってから、ようやくやってきた出勤日だから気が高ぶっているのだろうか。
つけっぱなしにしていたテレビでは、星占いコーナーをやっていた。月香の星座は六位、金運はまずまず、総合運も普通、そして恋愛運が絶好調。
見ないようにしようと思ったのに、画面に書かれていた文章はしっかり目に飛び込んできた。
『少し積極的になれば気になるあの人からの好感度がアップ!』
いつもは見ないのだ。占いは見ても、恋愛運のところだけ飛ばすのだ。
今朝の自分はおかしい。
「……もういいや、行こう」
テレビを消し、火の元を確認してから鞄を持って一度部屋を出る。施錠をした後で巫女姫の鍵を取り出して、鍵穴に入れて回す。
こうすれば、玄関の鍵はかかった状態でヴィヅ企画事務所へ行けるのだ。
「おはよう、月香」
「おはようございます。お休みをいただきましてありがとうございました」
「うむ、顔色もよくなった」
アザゼルは満足げに頷いて、月香をテーブルセットの方へ促した。時計を見ると勤務開始の十五分前で、確かにまだ少し時間が半端だ。月香は素直に従って、椅子に座った。
「早く来てくれてよかった。月香が休んでいる間にヴィヅで起きた出来事を、日別にまとめて表にしておいた」
アザゼルは、クリアフォルダーにファイリングしたものを月香の前に置いた。礼を言って早速めくる。
A4の紙一枚で、一日分。大した記載がない日もあるし、びっしり書き込んである日もある。エンディミオンとザークレイデス、それぞれで分けて書き込んであった。
一週間もいないと、いろいろあるものだ。エンディミオンはおおむね平和だが、アステルがザークレイデスへの訪問旅行から戻ってくる途上にあるし、琴音も両国を行ったり来たりしてがんばっていたようだ。
アステルのザークレイデス皇国訪問は、月香のためだとエリューシアは言っていた。琴音が頑張ってくれたのも。
月香は暫し、アステルと琴音の名前の箇所をじっと見つめていた。
ザークレイデスに関する記載は、どことなく不穏だった。第一皇子ノートリアと第二皇子カレイドの陣営が、皇太子争いで次々政策を発表・施行している。ざっと見るだけでも、その場しのぎではないかと思えたりただのばら巻きにしか見えない政策が多い。
ルカは、どうしているだろう。こんな兄達を見て。
……アンジュ、は。
「さて、月香」
月香がフォルダーを閉じると、アザゼルは改まった調子で口を開いた。
「いろいろ急激に状況が変わることがあって、大変だったと思う。ある程度はあちらの状況に合わせて様子を見なければならないのだが、結果的に放置することになってすまなかった」
「いえ、そんなことは」
頭を下げられて、逆に困惑する。確かに大変だったし、実はかなり限界に来ていたようだったのだが、何とかうまくまとまったのだから問題はない。
「月香は、自分の気持ちや感じたことをもっと優先していいと思うのだ」
アザゼルは、溜息混じりに首を振る。
「その辺りも、追々がんばっていこう。ところで、これを預かっていた」
差し出されたのは分厚い紙の封筒で、表には直線と曲線の組み合わされた何かが黒いインクで書かれていた。たぶん文字なのだろう。
「ルカからの手紙だ」
「ルカさん?」
「うむ。月香はしばらく来ないと伝えたら、手紙を渡してほしいと頼まれたのだ」
月香は封筒を、裏へ返した。よくヨーロッパの歴史映画などで見る、封蝋で閉じてあった。家紋のカフスか何かで押さえたのだろう、左右対称の葉の形が浮き出ていた。
この場で読もうかどうしようかと迷って、結局月香はバッグに封筒をしまった。そろそろ行かなければならない時間だった。
ずいぶん久しぶりに行く気がする。『また明日』といいつつも、取得した有給を取り消せなかったとかで結局今日まで待つことになっていた。
エリューシアは、まさか扉の前で待ち構えていたりはしないだろうか。そんなことをされた日には、一日中気まずい。
そんなささやかな心配を、アザゼルの声が柔らかく取りのける。
「さ、行っておいで。今日もがんばって」
「はい、いってきます」
いつも通りの挨拶。
扉を開く。
以前の日常へ、月香は足を踏み入れた。