絶望
私はごく普通のOLだった。
学生時代から7年の付き合いになる彼もいて、友人もいて、平凡な、けれど幸せな毎日を送っていた。
彼とは結婚も決まり、式の準備を着々と進めていた。
付き合い始めたころから、いずれ結婚をと話していて、その願いがやっと叶うと夢心地だった。
そう、浮かれすぎていたのだ私は。
式まで2ヶ月と迫ったある日。
私は一人ウェディングドレスを選びに出掛けた。
本当は彼も一緒に来るはずだったが、仕事が急に入ったとかで来れなくなってしまったのだ。
式当日まで花婿に見られない方が縁起がいいと、西洋の言い伝えを聞いていたこともあって、「当日のお楽しみね!」と笑顔でメールを送ったのを覚えている。
今にして思えばなんてバカだったんだろうと思う。
3時間かけてようやく運命の一着を見つけ、この上ない幸せに満たされていた帰り道。
通りすがったオープンカフェに見知った顔があった。
私服姿の恋人を見て、こんなところで何をやっているのかと思ったが、会えたことがうれしくて駆け寄ろうとした。
その時。
彼のそばに、一人の女性が現れた。
それは、私の幼いころからの親友だった。
私と彼と親友は、小学校の同級生。
だから、こうして会っていてもおかしくはない。
もちろん二人きりで会うなんておかしいが、それでも道でばったり会ってちょっとお茶でも、なんてことがないわけではない。
けれど。
彼の右手には、彼女の左手が添えられて。
まるで恋人同士のような甘い空気に包まれていた。
彼の左手が、親友の頬をそっと撫でると、彼女はくすぐったそうに身をよじって笑う。
なに…これ…。
そもそも、彼は今日仕事だったんじゃないのか。
私のウェディングドレス選びを断って、どうして彼女と一緒にいるの?
彼女はどうしてあんなに幸せそうに笑ってるの?
私の婚約者だと、誰よりも知っているじゃない。
どうして…!
衝動のままに2人に歩み寄った。
自分ではわからなかったが、ものすごくひどい顔をしていたと思う。
「…何を…やっているの…!」
低く、唸るような声を絞り出す。
喉がかれて、胸が熱い。
こんなに嫉妬でかき乱されたことなんかない。
ハッとした様子で私を振り返る。
そのタイミングも全く同じで、そんなことすら癇に障る。
「仕事なんじゃなかったの…今日が何の日だったか、わかってるの…?!」
叫ばないようにするのが精いっぱいだった。
ここが公衆の面前なんだってことくらいわかってる。
そんな場所で事を荒立てるほど私は馬鹿じゃない。
でも、今はもうそんな理性さえ露ほどしか残っていなかった。
親友の目は潤み、彼は二の句が継げずにいる。
「何とか言いなさいよ…!」
怒りを抑え、反動で2人を睨みつける。
親友はか細い声で「ごめんなさい…」といい、彼は「別の場所で話し合おう」と言った。
それから。
人気のない公園で2人の話を聞いた。
2年も前から、私の知らないところで会っていたこと。
私に悪いと思いつつ、そのスリルさえ楽しんでしまっていたこと。
結婚が決まり、なかなか自由にならなくなる前に2人の時間を大切にしようとしていたこと。
「どうして、私と結婚しようと思ったの」
その問いには、親友が答えた。
私に申し訳なかったと。
だから、結婚は私としてほしいと。
夢を見られただけで満足だったし、私にもきちんと幸せになってほしいと。
そういって彼に頼んだというのだ。
彼女がそこまで言うし、私と結婚しようと思っていたのも嘘ではないから、彼も結婚を決めたらしい。
そんなの、まるで私は邪魔ものじゃない。
私がいなければ、二人はきっと結婚したのだろう。
しかも、彼女が望んだから私との結婚を決めただなんて。
馬鹿にするにも程がある。
怒りでおかしくなりそうだったが、どうしたらいいのかわからなくて怒鳴れなかった。
ここで別れてしまうのか。
それとも、結婚して2人を引き離してしまう方がいいのか。
どっちにしたって私は幸せになんかなれない。
つらくて苦しくてどうしようもない。
悩んで悩んで、頭がくらくらして、今日は冷静な判断ができないからと帰宅を促そうとした時。
彼女が倒れた。
もちろん側にいた彼が支えて地面に身体を打ちつけることはなかったけれど。
あまりの不安と罪悪感に意識が遠のいたのだろうか。
そんなにひ弱だったかと思いつつ、救急車を呼んだ。
そして、向かった先の病院でさらに私はどん底に突き落とされた。
「妊娠していらっしゃいます。」
笑顔で医者にそう言われ、絶望した。
いや、このときはまだ片鱗を見ただけなのだが、それでもこのときの私にはそれ以上ない最悪の出来事だった。
もちろん、親友のお腹に宿ったのは彼との子ども。
私に宿るはずだった、でも来てはくれなかった命。
親友と彼は喜びと苦痛が混ざったような顔をした。
もう、どうしようもなかった。
「おめでとう。」
私はそう言ってその場を去った。
後日、私は彼に手紙をしたためた。
結婚式の準備が進んでいたので、そのキャンセルをしてもらうこと。
もちろんキャンセル料は彼の全額負担。
正式に婚約しているのだから、本当は慰謝料をもらってもよかったが、そんなもの欲しくなかったし、生まれてくる子どもが可哀そうなことにはさせたくなかった。
だから、その代わりに。
もう招待状も送ってしまっていたので、送った相手全員に謝罪することは私が引き受けた。
しっかりと一言で理由も添えて。
誰が庇ってなどやるものか。
正直自分がこんなに性格の悪い人間だなんて思わなかったけれど、そんなことにかまっていられる余裕はなかった。
精々会社で冷めた目で見られればいい。
家族や私の友人にはちゃんと説明する必要があった。
皆私の傷心を癒そうと慰めてくれた。
中には彼らと共通の友人も何人かいた。
その中の一人は彼女の方ととても仲が良く、実は事情を知っていたのだと苦しそうな顔をして話してくれた。
そして、彼らのさらなる悪行を語ってくれた。
「あの子、全部確信犯だよ…。結婚まで進んじゃったけど、やっぱり一緒にいたいからって…その…子どもができるように仕向けたんだよ…。冗談めかしてそんなことになったら良いななんて話してて…まさかそんな、本当にやるなんて思ってなくて…。多分彼の方はそんな思惑は知らなかったと思う。」
怒りで頭がガンガンした。
なんて浅ましい人だったんだろうと、この歳まで信じて疑わなかった自分が心底あほらしい。
さらに、そんな女に絆されて子どもまで儲けるような男と7年も共にしたなんて。
散々彼らを罵った後、力が抜けてしまった。
もう、何もしたくない。
こんなみじめな自分を、家族は温かく迎えてくれた。
契約社員だったこともあり、契約満了の時期と結婚が重なったのでもう更新はしていなかった。
そのまま彼の転勤についていくつもりだったのだ。
今は有休消化中で、もう仕事もない。
一人暮らしをする気力もなくなったし、彼のそばにいたくてこの場所で生活していたので一刻も早く立ち退きたかった。
実家に帰ると、父と母が笑顔で「おかえり」と言ってくれた。
彼のことについては触れてこなかった。
なんてありがたいのだろう。
憔悴しきった様子を見かねて、旅行を提案してくれた。
私の好きなヨーロッパへ、結婚資金として貯めておいた貯金で連れて行ってくれた。
1週間の旅行はとても楽しかった。
美しい風景とおいしい料理に癒されて満たされた。
ツアーにはあえてせず、ゆっくり体調に合わせて観光したので、とてもゆったりと過ごす事が出来た。
「ああ、まだこの人生も捨てたものじゃない」
そう思えた。
帰国の日、父と母とは同じ便に乗れなかった。
座席が空いておらず、私が先発、二人は後の便で帰ることになった。
時間はずれるが、5時間ほどしか違わないし、ぎりぎりまで予定を組んでくれたので翌日には父の仕事があり、この日に帰らなければならなかった。
私を一人にするのをためらっていたが、この旅行で癒されたし、元気ではあるが一応もういい年の二人をそれこそ一人で飛行機になんて乗せたくなくて、私が先に発った。
実家に帰って2人の帰りを待っていた私のもとにやってきたのは、笑顔の父と母ではなく、2人が乗った飛行機の墜落事故のニュースだった。
乗客乗務員全員が、帰らぬ人となった。
別の便で帰っていれば。
旅行になんていかなければ。
自分のせいで、2人を死なせてしまった。
私に、無償の愛を与えてくれた唯一の人たちがいなくなってしまった。
深い後悔と喪失感の中、2人を見送る手筈を整えた。
その間のことは、あまり覚えていない。
立ち止まって、己を失わないように必死だった。
やっと全てが終わった夜。
私は一人残された部屋で、泣き崩れた。