「君を愛することはない」と言った夫が、私の恋愛小説に毎回泣いている
「君を愛することはない。だが、妻として不自由はさせないつもりだ。何か希望があれば、遠慮なく言ってほしい」
結婚式を終えたその晩、夫となったバーナビー様は、私の部屋まで来てそうおっしゃった。
私は座りかけていた椅子に、ひとまず腰を下ろした。立ったまま聞くような話ではなさそうだし、式のために新調した靴が、朝からずっと小指に当たって痛かったのだ。できれば脱いでしまいたいけれど、夫はまだ扉のそばに立っている。こんな話をするなら、そちらも座っていただけないだろうか。
「どうぞ、お掛けになってください。ずっと立っていらっしゃると、私も落ち着きませんので」
「いや、用件はそれだけだ。ヘスター、今日は疲れただろう。返事は明日でも構わない」
ああ、そう。今のお話は、もう終わったことになっているのね。
今日までに夫とお会いしたのは三度。そのたびに両家の親が隣にいて、当たり障りのない話をして終わった。夫が何を食べるのが好きなのかさえ、私は知らずにいる。それでも明日からは食事を共にするのだから、まずはそのあたりを尋ねてみようと思っていた。
好きな料理の話には付き合ってくれなくても、嫌いな料理なら一つくらいあるだろう。そこから何か話せるかもしれない。そんな話をするつもりで待っていた私に、この人は愛することはないと言いに来たのだ。
まだ三度しかお会いしていないのに、もう私を愛さないと決めてしまったらしい。こちらは、これから知っていただくつもりでいたのだけれど。
「でしたら、一つお願いがあります。この部屋に書き物用の机を置いていただけますか。少し広めで、引き出しに鍵がかかるものがいいです。窓際が空いていますから、あそこに」
「分かった。明日、家令に手配させよう。部屋の調度は好きに変えて構わない。私にいちいち断る必要もないから」
おやすみ、と言って夫は部屋を出ていった。私は扉が閉まるのを待って、ようやく靴を脱いだ。小指が赤くなっている。この靴を選ぶときには、夫の隣を歩くのだからと、見栄えのよいものを探したのだった。
明日は履き慣れたほうにしよう。どのみち長い裾に隠れて、誰にも見えやしない。
小指の痛みが引いてくると、夫への腹立ちばかりが残った。返事は明日でもいいと言われたけれど、返事とは何だろう。愛されない件について、承知いたしましたと答えればよいのか。
寝てしまおうかとも思ったが、今横になったところで、さっきの言葉を繰り返し思い出すだけだ。私は荷物の中から原稿を包んだ布を取り出し、鏡台の上にあった化粧道具を端へ寄せた。
実家にも夫にも知らせていないが、私は二年ほど前から、筆名で恋愛小説を書いている。今も出版社に待ってもらっている原稿があって、ちょうど、妻を顧みない男の登場場面を書いているところだった。
どうにも台詞が決まらず、結婚の支度が忙しいことを言い訳に、何日も放っておいた箇所だ。
私はペンを取り、空けてあった行に書き込んだ。
『君を愛することはない』
その下にも、さっき夫が言ったことを続ける。こんなにすらすら書けたのは久しぶりだった。
翌朝、朝食を終えて部屋に戻ると、窓際に机が置かれていた。
引き出しにはちゃんと鍵がかかり、広さもちょうどいい。椅子に座って確かめているところへ、家令がお困りのことはございませんかと尋ねに来たので、出版社へ届けてほしい封筒を渡した。中身を聞かれることもなく、受取先を確かめると大事そうに抱えて出ていく。
夫にお願いすると、用事が片づくのは早いらしい。結婚生活のよいところを一つ見つけてしまったのが、少し悔しい。
私が『コマドリ』だと知っているのは、出版社の人だけだ。結婚が決まったときに新しい宛先も知らせておいたので、返事はもう実家を経由せずに届く。
夜に仕上げた原稿には、編集担当の女性から、いつもより返事が早く来た。新連載の始まりにふさわしい、とても腹の立つ男だそうだ。
そのお褒めの言葉は、夕食の席で向かいにいる夫にお伝えしたい。
もっとも、夕食ではほとんど話すこともなかった。夫は必要なことは教えてくれるし、こちらが尋ねれば答えてくれる。ただ、それが済むと黙って食べるので、私もわざわざ新しい話題を探さなくなっていた。
そんなバーナビー様の泣き声を聞いたのは、結婚して五日目の夜だった。
書斎の前を通りかかったとき、中から、低く鼻をすする音がした。足を止めると、また聞こえる。具合でも悪いのかと思って扉を叩いたが、返事がない。しばらく迷ってから少しだけ開けてみると、夫が本を片手に顔を覆っていた。
「旦那様、どうなさったんですか。どこか痛むのでしたら、人を呼んでまいりますけれど」
「……いや、大丈夫だ。少し待ってくれ。あと二頁なんだ」
急病ではなかったらしい。夫は脇に置いてあったハンカチで目元を拭くと、本を持ち直した。私もそのまま引っ込めばよかったのだが、見覚えのある表紙が気になって、つい近づいてしまう。
緑色の布張りに、小さな船の絵。
あれ、私の本では?
一年ほど前に出した、船乗りと仕立屋の娘の恋物語だ。最後の二頁なら、帰ってきた船乗りが、彼を待っていた娘に会いに行くところに違いない。
私は夫の向かいに座り、読み終わるのを待つことにした。さっきより少し気楽になったのは、この先に何が書いてあるか知っているからだ。生きて帰った船乗りを今さら死なせたりはしないので、そこは安心して読んでいただいてよい。
ところが、最後の頁をめくった夫の目から、また涙が落ちた。
「手紙を、六年も書いていたんだ。この娘は。届ける先さえ分からなくなっていたのに、会えたら読ませようと思って……『全部読んでくれるまで、帰してあげない』なんて、そんなことを言われたら、私ならもう」
そこまで言うと、夫はハンカチを目に当てて黙ってしまった。
私ならもう、何なのだろう。続きを聞きたいが、これ以上は喋れないらしい。私には愛することはないと言い切った夫が、架空の娘にもらった架空の手紙で、こんなことになっている。
「でも、帰ってこられてよかったですわね。娘さんも、ずっと待っていた甲斐があって」
「君も読んだことがあるのか。それなら分かるだろう、最初に彼が海へ出た日、娘は泣きもしないで送り出しているんだ。あの時点では、すぐに帰ってくると思っていたんだな。それが六年だぞ。読み返すたび、あそこでもう胸が詰まる」
初めてお読みになったわけでもないのね。
今夜だけは特別に悲しいことがあったのかとも思ったのだが、どうも違うらしい。夫の後ろの本棚を見ると、同じ大きさの本が三冊、きちんと並べて置かれている。私が今までに出した本は、夫が手にしているものを合わせて四冊だ。
驚いたあとから、頬が熱くなってきた。読者から手紙をいただくことはあっても、実際に読んでいるところを見たのは初めてだった。それが夫で、しかも、こんなに泣いているとは。
「この方の小説がお好きなんですね。ほかの本も、全部揃えていらっしゃる」
「ああ。来月の月刊誌で新しい連載が始まるから、そちらも頼んである。結婚なさるので少しお休みすると聞いて、しばらくは読めないと思っていたんだが、予定どおり載るそうだ。よほどよい結婚だったんだろうな」
私は膝の上で両手を握り合わせた。
よいかどうかは、まだ分かりませんけれど。
とてもよい台詞をいただいたのは、確かです。
それから三週間ほどして、新しい月刊誌が届いた。
私のところには出版社から、夫のところには馴染みの書店から。同じ屋敷へ二冊届けさせているのがもったいない気もしたが、私のほうを止めてもらうのは、まだやめておこう。
自室で出来上がりを確かめてから夕食へ向かうと、夫はすでに席についていた。私を見るなり何か言いかけたので、いよいよ感想が来るのかと身構えたが、料理が運ばれてくると口を閉じてしまう。
夫はその晩、いつもより早く食事を終えた。それでいて私が食べ終わるまで席を立たず、最後の一口を飲み込んだところで、待っていましたとばかりにこちらを向いた。
「食後に、少し付き合ってもらえないだろうか。例の新作を読んだんだが、どうにも腹が立って、一人で続きを待つのがつらい。君も前の作品を知っていたし、話を聞いてもらえればありがたいんだが」
それは、ぜひ。
私はお茶を小さな居間へ運んでもらうよう頼み、先に長椅子へ座った。夫は書斎から持ってきた雑誌を膝に置き、私のために最初から説明を始める。
新作の主人公は、町の小さな店で働いていた娘だ。年の離れた宝石商に嫁ぎ、不慣れな屋敷で暮らし始める。贅沢には慣れなくても、せめて夫とは親しくなりたい。そう思って、彼の好物だという蜂蜜菓子を焼いて待つのだが、夫は屋敷に戻ると、菓子には目もくれず仕事部屋へ行ってしまう。
「娘は結局、一つも食べないで箱に戻すんだ。自分で食べるために作ったんじゃないから、って……ここのところだ。すまない、少し読んでくれ」
夫に渡された頁を見下ろし、私は気づかれないように口元を押さえた。
また目が赤い。
ちゃんと読んでくれたのだと嬉しくなる一方、菓子を箱にしまうところでこれほど泣かれるとは思わなかった。まだ一回目なのに。先は長いので、もう少し力を抜いて読んではどうだろう。
「本当ですわね。お茶を淹れて、お菓子を出して、それを口実にお話ししたかったんでしょうね。何もないのにお仕事中の方を呼び止めるのは、難しいですから」
「そうだろう。しかも、この男は妻に何と声を掛けたと思う。『何か足りないものはあるか』だぞ。自分のために菓子を焼いて待っていてくれたのに、一つも食べないで。少しくらい座って、話をしてやればいいじゃないか」
私は雑誌を返して、夫の隣へ菓子の皿を寄せた。夫は話しながら一つ取り、当たり前のように食べる。
できるのね、そういうことは。
夫はもう二つ目の菓子を取っていた。結婚した晩も、そうして座ってくださればよかったのに。
「でも、お仕事がお忙しい方なのでしょう。娘さんが何も言わなければ、満足していると思ってしまうのかもしれません。お屋敷も立派ですし、お金にも困らないようにしてくださっているんですから」
「それなら、そう思い込む前に少しは話を聞けばいい。結婚しているんだぞ。それに、この娘が何も言えなくなったのは、最初にこの男が余計なことを言ったからじゃないか」
夫が頁を戻す。そこに何があるか、私はよく知っている。原稿用紙の上で何度も読み、今日も雑誌で確かめた台詞だ。
「『君を愛することはない』。わざわざ結婚した日に、これを言う必要がどこにある。娘だって初めから愛の告白をねだったわけじゃない。これから仲良くなることまで断られたら、どうやって話しかければいいんだ」
私は夫の顔を見た。
それを分かっていただけるなら、聞いてみたいことがある。
「旦那様、この娘さんは、どうすればよかったと思われます?」
「男にはっきり言ってやっていい。どれだけひどいことを言われたのか。そのくらいしないと、この男は気づかないぞ」
「では申し上げますけれど、それ、私にもおっしゃいましたよね」
夫の手が、開いた頁の上で止まった。
さっきまであんなに喋っていたのに、今度は何も出てこないらしい。私は待ちながらお茶を一口飲んだ。時間ならある。今夜は夫が私を呼び止めたのだから、急に用件が終わったことにされても困る。
「……あのときのことか」
「ほかにもございましたか? 私は一度言われただけで、よく覚えておりますけれど」
夫は雑誌を閉じかけて、やめた。その頁をもう一度読み直し、それから私を見る。
「私は、政略結婚だから、互いに期待を持たせないほうがいいと思っていた。妻としての暮らしは保証するが、恋愛とは分けて考えてほしいと……」
そこで夫は口を閉じた。私は続きがあるものと思って待っていたが、夫はとうとう雑誌から手を離し、両手で顔を覆ってしまう。
「……この男と、同じことを言っているな」
先ほどは、ずいぶん厳しく責めていらっしゃいましたものね。
そう言ってやりたかったのに、実際に口を開くと、出てきたのは別のことだった。
「私、お食事の好みを伺おうと思っていたんです。あの晩。ほかには、式のときに緊張しましたねとか、お天気がよくて助かりましたねとか。そのくらいの話ができれば、明日から少し気楽になると思っていたんですけれど」
いざ話すと、どれもつまらないことばかりだった。それでも私は、夫が部屋に来るまで、一つずつ話題を用意していた。忘れないように思い返しながら待っていたのだから、笑われたらさすがに嫌だ。
夫は私の顔を見たまま、しばらく黙っていた。
「君は、座るように言ってくれたな。私はそれも断った。机を頼まれて、欲しい物を言ってくれたと安心していたんだが……君は、ほかの話をしたかったんだな」
自分で言ってから、夫は深く頭を下げた。
「すまなかった。君が何を望んでいるか、聞きもしないで決めつけた。私は誰かに恋をしたことがないし、こういう物語のような恋愛は、この先も自分には縁がないと思っていた。それを先に伝えておくのが、君のためにもなると」
「これから恋をするかどうかなんて、私にも分かりません。でも、仲よく暮らしたいと思っていることまで、迷惑だったら困ります。私がお話ししたくなったときは、また、お茶にお誘いしてもよろしいんですか」
「もちろんだ。迷惑なはずがない。私だって、今夜は君に話を聞いてほしくて呼び止めたんだから」
なら、もっと早くそう言ってくれればよかったのに。
そう思ったら、鼻の奥がつんとした。ここで泣くつもりはなかったので、慌ててお茶を飲もうとしたが、もう冷めている。少し前まで夫の涙を面白がっていたくせに、今度は自分が人前で泣きそうになっていた。
夫が膝から雑誌を下ろし、卓の隅へ置いた。
「あの言葉は、取り消させてほしい。……明日も、お茶に付き合ってもらえないだろうか」
「取り消していただいても、すぐには忘れられませんけれど。お話しする気があるなら、今夜はもう少しここにいらしてください。お茶を淹れ直していただきましょう」
私は呼び鈴に手を伸ばした。夫は席を立たずに待ち、新しいお茶が来ると、菓子の皿を私に寄せてくれる。
「食事の好みを聞きたかったと言っていたな。肉料理は大抵好きだ。苦手なのは、皮が残っている甘い煮豆で……いや、こんな話でいいんだろうか」
「そういう話がしたかったんです。ちなみに、私はあの煮豆が好きです。今度出ましたら、残す前にこちらへください。好物を分けてもらえるなら、私も嬉しいですから」
夫は少し笑い、それから私の好物を尋ねてくれた。
お互いの苦手なものの話から、実家でよく食べていたもの、式の食事でおいしかったものへと話が移った。あの日は緊張して、味が分からなかった料理もあったというのは、私たち二人とも同じだったらしい。
私も笑って話しながら、卓の隅に置いた雑誌を見る。
こんなことなら、お菓子を焼いて待っている娘の場面を、もっと早く書けばよかった。もっとも、あの初夜のあとでなければ、あの娘が何を考えているのか、私もそこまで分からなかった気がする。
そう考えると夫に少しお礼を言うべきなのかもしれないが、それはまだ、やめておくことにした。
翌日の夕食で、夫はさっそく私に話しかけてきた。
「ヘスター、今日は何をしていたんだ?」
「書き物をしていました。朝のうちに少し進めて、お昼から散歩に出ようと思っていたんですが、気がついたらもう夕方で」
「そうか。今日は庭の西側の花が咲いていたから、明日、時間があれば見てくるといい。私は昼過ぎまで書斎にいる。散歩に付き合ってもよければ、そのあとなら空いている」
夫はそこまで言って、私の返事を待っていた。
……お誘いだったのね。見てくるといい、と言われたところでは、一人で出掛ける話だと思っていた。最後まで聞いてよかった。夫も来るらしい。
私は午後三時にお願いして、夕食のあとはいつもより真面目に机へ向かった。明日になってから悩むつもりだった箇所も、今夜のうちに悩んでおく。
翌日、一緒に歩いた庭は、それほど広くもなかった。夫は昨日見たという花の前まで案内してくれたが、名前を尋ねると、少し困った顔になった。
「昨日、ここを歩いているときに、君に話すことを何か見つけようと思ったんだ。それで、前は咲いていなかった花があったから。名前くらい、庭師に聞いておけばよかったな」
夫はもう一度、花を見下ろした。今からでも名乗ってくれれば助かる、とでも言いたそうなお顔だった。私も知らないので、お役には立てない。
「でしたら、二人で聞きましょう。庭師の方も、きっと喜んで教えてくださいますわ。私も、どなたがどの場所を担当なさっているのか、まだよく分かっていませんし」
確かに、庭師の方は喜んで教えてくださった。
花の名前だけ聞くはずが、夫は水やりや植え替えのことまで尋ね始めた。庭師の方も、そのたびに別の鉢へ案内してくださる。
お茶の席でも本の話になるとこうだったけれど、花でもそうなるのね。
けれど、そろそろ夫を返していただけないだろうか。
散歩の時間の半分が過ぎたころ、ようやくお礼を言って、庭師の方と別れた。帰り道へ向き直った夫に、私は声を掛ける。
「残りの時間は、私のお話を聞いていただいてもよろしいですか」
「もちろんだ。何の話だ?」
夫が笑ってこちらを向いた。
何の話をしましょう。
いけない。庭師の方から夫を取り返すことに気を取られて、そこまでは考えていなかった。
夫が返事を待っているので、私はひとまず、こんなにたくさん教えていただいて、最初の花の名前を覚えていらっしゃいますかと尋ねてみた。
夫は黙った。
私も忘れたので、大丈夫です。
最初は新作の話をするために集まっていた食後のお茶も、いつの間にか毎晩のことになった。
本の話が尽きて盤遊びをしたら、夫に負けた。もう結構ですと言って片づけたが、あれは昨夜の話なので今夜もやる。
ただ、私には夜通し夫に付き合っている余裕はない。次の原稿も、その次の原稿も待たれている身だ。中でも熱心に続きを待っている方が目の前にいらっしゃるので、そろそろ書きに戻らせていただきたい。
「今夜はここまでにさせてください。もう少し書いておきたいものがあるんです。明日は夕食に間に合うように終わらせますから」
「食事に合わせて急がなくてもいい。時間が必要なら、君の部屋に運んでもらおう。私のことは気にしないでくれ」
そう言っていただけるのはありがたいけれど、夕食まで別々になってしまうのは嫌だった。書き物なら、夫が仕事をしている間にもできる。
私は翌朝、いつもより早く起きて原稿を進めた。午後には終わるはずが、どうしても納得のいかないところが一つ残って、結局、夕食の時間ぎりぎりまでかかってしまう。
食堂へ行くと、夫は私の顔を見て、いつもの席を示した。
「今日は家令に頼まれた手紙を三通書き直した。君は一日書き物をしても平気なのか。私は手が痛くなってくると、もう字まで乱れてしまうんだが」
「私も肩が凝りますし、同じ字を何度も間違えます。さっきは一行まるごと飛ばして書いてしまって。おかげで、直したはずのところまで書き直しです」
ついこぼすと、夫はそれは大変だったなと言い、私の皿へ煮豆を分けてくれた。
労ってくださったのだろう。そういうことにしておこう。煮豆が夫の苦手なものだということは、今は考えない。
食後のお茶の席へ移ると、夫はいつものように本を開いた。その晩は、強欲な伯父の台詞を読んで聞かせてくれた。
「お前ひとりを養うのに、いったいどれだけ金がかかったと思っている。恩を忘れたとは言わせんぞ」
私は口へ運びかけていた茶碗を下ろした。
そんな声も出るのね。さっきまで手紙を三通書いて手が痛いとこぼしていた方とは、とても思えない。
夫は眉を寄せ、口の片側だけを持ち上げて、次の台詞を続ける。あの伯父にはこんな顔をさせていたのかと、書いた私が初めて知った。台詞は覚えているけれど、まだ続けるおつもりだろうか。私はそろそろ、いつもの旦那様とお話ししたい。
「……旦那様。その方は、そろそろ黙りませんか」
「もう少しだ。ここからがまたひどいんだ」
まだあるのね。あるわね。私が書いたのだった。
書いているときは、こんな男にはあとで痛い目に遭っていただけばよいと思っていた。目の前で聞かされてみると、その「あと」を少し早めていただきたい。
夫がようやく次の頁をめくったので、私はお茶を飲んだ。
それなのに、肝心の主人公たちのことになると、すぐに心配そうな顔になる。私が、ここは娘がもう少し早く気づいてもよかったかもしれない、と自作への反省をうっかり口にしたときも、夫は納得しなかった。
「あとから読めば、私にもそう思える。でも、あの娘に分かるようには男が話していないんだ。読んでいるこちらは両方の事情を知っているが、娘は自分の聞いたことしか知らない。それを、もっと早く気づけばよかったとは言えないだろう」
私は口を閉じた。
夫が指している場面は、読者から、主人公が鈍すぎるとお叱りをいただいた箇所でもある。もしかしたら書き方を変えるべきだったのかと、今でも時々考えていた。
そうなんです。私も、そう思って書いたんです。
……と言いたいけれど、ここで急に作者が出てきては、夫も困るだろう。もう少し聞かせていただきたいので、出てくるのは我慢した。
こんなふうに読んでくれた人もいたのね。しかも、同じ家に住んでいて、毎晩お話ができるのだ。
「そこまで考えてくださったなら、作者の方も嬉しいでしょうね」
「何度か手紙を書いている。きちんと伝わっているといいんだが、長く書きすぎて、かえって迷惑かもしれない。毎回、短くしようと思うんだがな」
短くしなくていいのに。先ほどのお話なら、まだ続きを伺いたいくらいです。
バーナビー様の名前で届いた手紙があっただろうか。これまでいただいたものは全部取ってある。あとで確かめてみよう。短くしようとした末に、どれくらい長くなったのかも知りたい。
そう思いながら夫を見ると、私が何か言いたそうにしていることに気づいたのか、夫が本を閉じ、こちらを向いてくれた。私は、明日も一緒に散歩をしたいと頼んだ。
新作の二回目が載って数日後、出版社から、読者の手紙をまとめた封筒が届いた。
私はちょうど最後の回の原稿に取りかかっていたところで、休憩がてら机を空け、届いたものを一通ずつ開いていった。
主人公を応援してくださる手紙、夫にもっとひどい目に遭ってほしいという手紙。もっと、ですか。今のところでも、私はずいぶん遠慮なく書いたつもりなのだけれど。
中には、娘が新しく出会った薬屋の青年を好きだと言ってくださる方もいた。
あの方、いいでしょう。そう言っていただきたくて書いたところを、わざわざ挙げてくださっている。早く続きを読んでいただきたい。休憩のつもりで開けたのに、もう原稿へ戻りたくなってきた。
けれど、次に開いた手紙で、その気はすっかりなくなった。
『コマドリ先生へ。
新作の二回目を拝読しました。娘が今度は自分のために蜂蜜菓子を焼いたところが好きです。結婚してから初めておいしいと思えた、という一文を読んで、ほっとしました。薬屋の青年とどうなるかも気になりますが、まずはこの娘が、誰に気兼ねすることなく菓子を食べられる暮らしを願っています。
先の手紙では書けませんでしたが、実は私も、妻に「君を愛することはない」と言ってしまった男です。物語を読んで憤っていたところを妻に指摘され、自分のしたことがようやく分かりました。』
私は先に署名を確かめた。
B。
……バーナビー様。お名前で探しても、見つからないはずです。
椅子に座り直し、読みかけのところへ戻った。
『謝ったあと、妻と話す時間を持つようになりました。妻も先生の本を読んでいて、私と違うところを面白がるので、私もまた読み返したくなります。
昨日は庭を歩きました。前に庭師に教わった花の名前を忘れてしまったと白状すると、妻も覚えていないと笑いました。もう一度聞きに行こうと手を引かれて、私は花の名前などどうでもよくなりました。
私は妻が好きです。
妻に話したいことがあると、早く帰りたくなります。話すことが見つからない日にも帰りたいので、ただ顔が見たいのだと思います。
先生の物語を読んで泣くことなら昔からできたのに、自分のことでこんなふうになるとは思いませんでした。妻に気づかせてもらえなかったら、今でも向かい合って、黙って食事をしていたかもしれません。
長くなってしまいました。お礼をお伝えしたかったのです。次の掲載を楽しみにしております。
B』
署名まで読み終え、それから、途中の一行へ目を戻した。
私は妻が好きです。
夫の手を引いた日のことは覚えている。庭師が向こうへ行ってしまいそうだったので、急いでいたのだ。夫がそんなことを考えていたとは、少しも知らなかった。帰り道では普通に話していたし、夕食もいつもどおりだった。
あの顔で、いつ、こんな手紙を書いていたのだろう。
もう少しゆっくり歩けばよかった。花の名前なら、別の日に聞けたのに。
以前の手紙の束も確かめると、同じ署名がいくつも見つかった。まだ縁談が持ち上がる前の日付もある。久しぶりに読み返した文章には、今なら夫の声がつく。ここはきっと少し早口で、ここの娘を庇うところは、いつものあの顔で書いたのだろう。
手紙を順番どおりに並べ、最後にもう一度、新しい一通を読んだ。
夫が私を好きだと言っている。
私に言ったわけではないのに、嬉しくて、返事をしたくてたまらない。
妻もあなたを好きですよ。
そこまでは、すぐに書ける。けれど、コマドリからそう言われたら、夫はどうして分かるのだと思うだろう。尋ねられたら、本人ですので、とお返事するしかない。
同じ家に住んでいるのに、そんなやり取りを何日もかけてしていられない。今夜、お返事をしたい。できれば、そのときのお顔も見たい。
私は手紙を封筒へ戻し、書きかけの原稿を揃えた。夫のところへ持っていくには、手紙だけでは足りない。
その晩、私は原稿を抱えて、いつもの居間へ向かった。
夫はすでに座って本を読んでいたが、私が入るとすぐに顔を上げ、隣を空けてくれた。
いつもなら、向かいの椅子を選ぶ。けれど、あの手紙をいただいたのだし、今夜くらいは隣に座ってもよいのではないだろうか。
私はそちらへ腰を下ろし、原稿を膝に置いた。
「今日は、書き物はもう済んだのか。まだなら、気にしないで部屋に戻ってくれていいんだが」
「いえ、今夜はお話ししたいことがあります。お手紙、ありがとうございました。今日、出版社から届きました」
私が封筒を差し出すと、夫は不思議そうに受け取った。それから自分の書いた宛名を見て、表と裏を確かめ、私を見る。
「なぜ、これを君が?」
「私がコマドリなんです。前にいただいたお手紙も、全部取ってあります。ただ、署名が頭文字だけだったので、旦那様からだとは思っていませんでした」
夫が何も言わないので、私は原稿も卓へ置いた。
「実家でも、私が書いていることは知らせていませんでした。嫁いでからも、黙っていられればそのほうが楽だと思っていたんです。でも、あんなお手紙をいただいたので、これは私からお返事をしなければと」
夫は原稿を見下ろしたまま、動かなかった。しばらくして手を伸ばしかけたが、触れる前に引っ込める。
「これが、あの続きなのか。君がずっと部屋で書いていたのは、これで……私は、散歩に誘ったり、食後に引き留めたりして」
「私も行きたくて行っていました。それに、結婚した晩は大変よく進みましたので」
夫は原稿から顔を上げ、口を開きかけて、また閉じた。
そこまで言えば、さすがに分かるらしい。
「あの男の台詞は……」
「はい。そのまま使わせていただきました。私には思いつかなかったもので」
夫は目を閉じた。私は少しだけ待ってあげたが、今夜はまだ聞きたいことがある。
ここでお話が終わってしまったら、わざわざ原稿を持って追い打ちをかけに来たようではないですか。
「でも、船乗りの話を読んで泣いてくださったのは嬉しかったんですよ。すぐに名乗ればよかったのかもしれませんが、次の本があの内容でしたし、どうしたものかと。あとからは、本の話をしてくださらなくなるのが嫌で、なかなか言えなくて」
「私は、君に作者のよさを説明したんだぞ。あの娘のことまで、君に……」
それまで、言わなければよかったことにされては困る。私は何度も思い出して、喜んでいたのに。
「ええ。あのお話は、私がいちばん嬉しかったところです。自分ではうまく書けたかどうか分からなくて、ずっと気にしていましたから。あのとき、作者の方も嬉しいでしょうね、と申し上げたでしょう。私が、嬉しかったんです」
夫はようやく私を見た。それから、膝に置いた封筒へ目を落とした。
「あの手紙を、君が読んだのか」
「はい。何度か読みました」
何度か、というのは少し控えめに言った。昼間に何回読んだか、途中から数えていない。
「私に言うつもりは、なかったんですか。妻が好きだと書いてくださっていましたけれど」
「言うつもりはあった。ただ、あんなことを言ったあとで、自分から好きになったと告げるのは、あまりに身勝手だと思っていた。ようやく君が笑って話してくれるようになったところで、また困らせたらと」
「それも、私に聞いてみないと分からないことではありませんか」
言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。けれど、今夜も本の話だけで終わったら、私は部屋へ戻って、またこの手紙を取り出すのだろう。さっきまで隣にいた方の言葉を、一人で読み返して。
それより先に、一度くらい、私に向かって言っていただけないだろうか。
私は封筒の端を指で押さえた。
「私、今夜も原稿を進めるつもりだったんです。でも、このお手紙をいただいたら、書けなくなってしまって。何度も読み返して、あの日はどんなお顔をなさっていたか思い出して……そういうふうに喜んでいたことを、知っていただきたいんです。あの言葉を、私にも言っていただけませんか」
封筒の宛名を見ながら、どうにか最後まで言った。コマドリ先生へ。この名前には、あんなに素直に書いてくださったのに。
お返事がなくて顔を上げると、さっきよりもずっと近くで目が合ってしまう。
「ヘスター。私は、君が好きだ」
自分で言ってほしいと頼んだくせに、私はすぐに返事ができなかった。
手紙では何度も読んだ。でも、こうして夫の声で聞くのは初めてで、呼ばれた名前のほうまで胸に残っている。毎日の食事で聞いていた声なのに、今は続きを聞くのが少し怖くて、それでも聞きたい。
「もっと君と一緒にいたい。帰ってくると、まず家令に君がどこにいるか聞いてしまうんだ。書き物をしていると聞けば、夕食まで待とうと思うんだが、それが長くてな」
こちらは、夕食までに書き終えようと、あんなに急いでいたのだけれど。
そちらでは、長かったのね。
「君が盤遊びで負けたとき、もうやらないのかと思ったんだ。次の晩にまた勝負を申し込んでくれて、嬉しかった。今度は勝てるつもりでいる顔を見るのも、好きなんだ」
私は夫の手に、自分の手を重ねた。
「君がコマドリ先生だったことは、まだ、頭が追いついていない。聞きたいことも、山ほどある。……だが、その前に。あの晩、あんなことを言ってすまなかった。君と、この先も一緒に暮らしていきたい。君は、私のことをどう思っている?」
「私も、あなたが好きです」
今度は言えた。夫が目を見開くのを見て、私は思わず笑ってしまった。こちらから手まで重ねているのだから、少しくらい自信を持ってくださればいいのに。
「お部屋で食事をしていいと言っていただいても、一緒に食べたくて、急いで原稿を書いていたんですよ。お散歩だって、花が見たいだけなら一人でも行けます。私が何度もお誘いしていたのは、あなたと歩きたかったからです」
夫の手が動き、重ねていた私の指を包んだ。散歩のときは平気で引っ張った手なのに、今はどこに指を置けばいいのか分からない。夫が握り直してくれたので、そのまま任せることにした。
夫は私を見たまま、嬉しそうに笑った。
ああ、こんなお顔もなさるのね。
もう少しよく見たくて近づいたら、夫の空いている手が背中に回った。私はその肩へ手を置いて、抱き寄せられるままに体を寄せる。聞きたいことも話したいことも、まだ残っていたはずなのに、しばらくは、このままでよかった。
「……ヘスター。キスをしてもいいだろうか」
私は夫の肩に置いた手を襟元へ寄せ、少し顎を上げた。夫が顔を近づけてくれたので、目を閉じた。
*
出来上がった原稿を読んでもいいと伝えたのだが、夫は、印刷されたものを最初から通して読みたいと言った。途中で表情を見られると、私が書き直したくなるかもしれないから、とも。
私はそんなに簡単に結末を変えるつもりはない。ただ、夫が気にしたところに、台詞をひとつ足すくらいなら、あるかもしれない。その台詞が唐突にならないよう、前の場面も少し直すかもしれない。
……お言葉に甘えたほうがよさそうだ。
私は原稿を夫に渡さず、いつもどおり出版社へ送った。
それから三週間後、新作の最終回が載った雑誌が届いた。
物語の娘は宝石商と別れ、小さな菓子の店を開く。店に薬を届けてくれた青年と親しくなり、最後には、彼に誘われて初めての休業日を作った。
店の前で待つ青年に渡した箱には、二人分の菓子が入っている。
その最後の頁を読み終えた夫は、私が用意しておいたハンカチへ手を伸ばした。
「よかったなあ……あの娘は、ずっと一緒に食べてくれる人を待っていたんだな。やっと出かけられた。店を閉めるのにあんなに迷っていたから、また断ってしまうかと思った」
「今度は、ちゃんと自分で行くと決められましたから。青年のほうも、何度か断られても来てくれる人で、よかったですわね」
夫は頷き、もう一度最後の頁を見て、それから少し前へ戻った。あそこには、宝石商が別れた妻を訪ねてくる場面がある。
娘はもう出かけたのに、夫はまだ宝石商に用があるらしい。
「……この男は、最後まで腹が立つな」
「台詞に困らない方でした。最初のうちは、特に」
夫が私を見たので、私は笑ってお茶を差し出した。夫も困ったように笑い、受け取った茶碗を置いてから、私の手を取る。
「感想を書いたら、また読んでくれるだろうか。口で言うだけでは、どうも足りない気がするんだ」
「もちろん。お返事も書かせてください。今までいただいた分まで、少しずつ」
あの手紙を、私はもう読み返す必要もないくらい覚えている。それでも時々、原稿の手が止まると、引き出しから取り出して読んでしまう。
その引き出しには鍵がかかる。結婚した翌朝、夫が用意してくれた、あの机だ。
今夜は夫への返事を一通書こう。好きなところを全部書いたら、きっと長くなる。今までにいただいた長い手紙を思えば、私も遠慮せずに書いてよさそうだ。
それを読んで、また泣いてくれるといい。
読み終えるまで、今度も隣で待っていようと思う。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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