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「『不満はありません』と言った伯爵令嬢に、私は余計なことを言ってしまった」――それ、“選んだ理由”にはならない

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/05/27

貴族の婚約に、口を出すべきではないと分かっていた。

——それでも私は、言ってしまったのだ。


「気乗りしてないなら、やめていいんじゃない」


そのときのリリの顔を、私はたぶん、一生忘れない。


リリアーヌは、誰から見ても申し分のない伯爵令嬢だ。

慎み深く、穏やかで、家の期待を裏切らない。


婚約者のアルベルトもまた、非の打ちどころがない人物だった。

誠実で、礼儀正しく、将来を約束されている。


それは、政略と呼ぶほど重いものではなく、ただ、誰もが違和感なく頷ける形を選んだ——そんな婚約だった。


——だからこそ。


その婚約に、不満を持つ者は、誰一人としていなかった。


ソーサーの上で、スプーンが小さく触れ合って、かすかな音を立てた。

湯気の名残が、視界の端でゆっくりほどけていく。


「不満はないの」


ある日の午後、リリはそう言って微笑んだ。


「優しい方だし、家のことも考えてくださるし……安心できるの」


カップの縁に触れた指先が、なぞるように動いて、すぐに離れる。


「へえ」

私は曖昧に相槌を打つ。

「嫌いじゃないのよ」

「じゃあ、好きではないんだ」


思ったよりもするりと、言葉が出た。

リリは一瞬だけ目を瞬かせて、それから小さく笑った。


「……そう、なるのかしら」


——本当に?


そんな問いが、胸の奥で小さく浮かんで、すぐに沈んだように見えた。


「気乗りしてないなら、やめていいんじゃない」


——言ってしまった。


軽い調子で、いつもの調子で。

けれど、それはきっと、越えてはいけない線だった。


口を出すべきではない。

そんなことは、最初から分かっている。


この国の貴族の婚約が、どれだけ慎重に決められるかくらい知っている。

家同士の釣り合い、将来、領地、血筋。

間違いなく、“間違いのない選択”だ。


リリの家は、昔から、誰もが違和感なく頷ける形を大切にしてきた。

アルベルトの家もまた、逸れない選択を積み重ねてきた家だ。誰も間違っていない。


——それでも。


あの笑顔が、どうしても、息苦しそうに見えてしまった。


数日後、小さな夜会が開かれた。

婚約の正式な発表を控えた、ささやかな集まりだ。


グラスの表面を伝った水滴が、ゆっくりと指先に触れる。

冷たさだけが、妙にはっきりしていた。

私は、来るべきではなかったと、少しだけ後悔していた。


——何も言わないと、決めていたのに。


「ミレ」


呼ばれて振り返ると、リリと、その隣にアルベルトがいた。


「今日は来てくれてありがとう」

「うん、おめでとう……で、いいのかな」


軽口のつもりだったのに、少しだけ声が揺れた。

アルベルトが静かに口を開く。


「正式な発表はまだだが、ほぼ決まっている」

「そっか」


それは、やっぱり“逸れない流れ”だった。

少しの沈黙のあと、アルベルトがリリを見る。


「君は、このままでいいんだろう」


優しくて、正しくて——どこか、決めきった響き。


リリは、わずかに視線を落として、

「……はい。不満は、ありません」

と答えた。


——ああ、だめだ。

そう思ったときには、もう遅かった。


「“不満がない”って、すごく便利な言葉ですよね」

気づけば、私は口を開いていた。

二人の視線が、同時にこちらに向く。


「でもそれ、“選んだ理由”にはならない」


沈黙が落ちる。

何も変わらないようでいて、何かだけが確実に、ずれていくのが分かった。


リリは、ゆっくりと視線を落とした。

カップに添えられていた指先が、わずかに離れる。

そのまま、触れる場所を失ったみたいに、宙で止まった。


「……では、私は」

小さな声だった。


「何を理由に、この方と結婚するのかしら」


その問いは、私に向けられたものじゃない。

たぶん、初めて——自分に向けたものだった。


アルベルトは、すぐには答えなかった。

ただ一度だけ、リリの手元を見て。

それから、静かに目を伏せる。


「……リリアーヌ」

その呼び方に、リリはほんの一瞬だけ目を見開いた。


「私は、君に選ばれていたわけではなかったのか」

責めるような響きはなかった。

ただ、確かめるみたいに。


リリの指先が、わずかに震えた。

何かを言おうとして、言葉を探して——


けれど、見つからなかったように見えた。

その様子を見て、私は、ほんの少しだけ息を吐いた。


——やっぱり。


分かってしまった気がした。

誰も間違っていないのに、どこにも“選んだ理由”がなかったことを。


その場で、すべてが決まったわけではない。

けれど、もう同じ形には戻らないことだけは、はっきりしていた。


数日後、婚約は静かに解消された。

誰も声を荒げることはなく、ただ少しずつ、元の形に戻っていっただけだ。


「……ごめんね、リリ。思わず言っちゃった」

あの日と同じ庭で、私はそう言った。


カップに触れた指先から、ゆるやかな温もりが広がっていく。さっきまで気になっていた重さが、どこかに落ちていったみたいだった。


余計なことだったかもしれない。

正しかったとも、まだ言い切れない。


「いいのよ、ミレ」

リリは、少しだけ目を細めて笑った。


「私、何も知らなかったわけじゃないの」

ほんの少しだけ、言葉を探してから。


「ただ、見ないでいられただけ」

「……そっか」


前よりも、自然な笑い方だった。

息をするのが、楽になったみたいに。


余計なことをしたのかもしれない。

それでもいいと、初めて思えた。


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