「『不満はありません』と言った伯爵令嬢に、私は余計なことを言ってしまった」――それ、“選んだ理由”にはならない
貴族の婚約に、口を出すべきではないと分かっていた。
——それでも私は、言ってしまったのだ。
「気乗りしてないなら、やめていいんじゃない」
そのときのリリの顔を、私はたぶん、一生忘れない。
リリアーヌは、誰から見ても申し分のない伯爵令嬢だ。
慎み深く、穏やかで、家の期待を裏切らない。
婚約者のアルベルトもまた、非の打ちどころがない人物だった。
誠実で、礼儀正しく、将来を約束されている。
それは、政略と呼ぶほど重いものではなく、ただ、誰もが違和感なく頷ける形を選んだ——そんな婚約だった。
——だからこそ。
その婚約に、不満を持つ者は、誰一人としていなかった。
ソーサーの上で、スプーンが小さく触れ合って、かすかな音を立てた。
湯気の名残が、視界の端でゆっくりほどけていく。
「不満はないの」
ある日の午後、リリはそう言って微笑んだ。
「優しい方だし、家のことも考えてくださるし……安心できるの」
カップの縁に触れた指先が、なぞるように動いて、すぐに離れる。
「へえ」
私は曖昧に相槌を打つ。
「嫌いじゃないのよ」
「じゃあ、好きではないんだ」
思ったよりもするりと、言葉が出た。
リリは一瞬だけ目を瞬かせて、それから小さく笑った。
「……そう、なるのかしら」
——本当に?
そんな問いが、胸の奥で小さく浮かんで、すぐに沈んだように見えた。
「気乗りしてないなら、やめていいんじゃない」
——言ってしまった。
軽い調子で、いつもの調子で。
けれど、それはきっと、越えてはいけない線だった。
口を出すべきではない。
そんなことは、最初から分かっている。
この国の貴族の婚約が、どれだけ慎重に決められるかくらい知っている。
家同士の釣り合い、将来、領地、血筋。
間違いなく、“間違いのない選択”だ。
リリの家は、昔から、誰もが違和感なく頷ける形を大切にしてきた。
アルベルトの家もまた、逸れない選択を積み重ねてきた家だ。誰も間違っていない。
——それでも。
あの笑顔が、どうしても、息苦しそうに見えてしまった。
数日後、小さな夜会が開かれた。
婚約の正式な発表を控えた、ささやかな集まりだ。
グラスの表面を伝った水滴が、ゆっくりと指先に触れる。
冷たさだけが、妙にはっきりしていた。
私は、来るべきではなかったと、少しだけ後悔していた。
——何も言わないと、決めていたのに。
「ミレ」
呼ばれて振り返ると、リリと、その隣にアルベルトがいた。
「今日は来てくれてありがとう」
「うん、おめでとう……で、いいのかな」
軽口のつもりだったのに、少しだけ声が揺れた。
アルベルトが静かに口を開く。
「正式な発表はまだだが、ほぼ決まっている」
「そっか」
それは、やっぱり“逸れない流れ”だった。
少しの沈黙のあと、アルベルトがリリを見る。
「君は、このままでいいんだろう」
優しくて、正しくて——どこか、決めきった響き。
リリは、わずかに視線を落として、
「……はい。不満は、ありません」
と答えた。
——ああ、だめだ。
そう思ったときには、もう遅かった。
「“不満がない”って、すごく便利な言葉ですよね」
気づけば、私は口を開いていた。
二人の視線が、同時にこちらに向く。
「でもそれ、“選んだ理由”にはならない」
沈黙が落ちる。
何も変わらないようでいて、何かだけが確実に、ずれていくのが分かった。
リリは、ゆっくりと視線を落とした。
カップに添えられていた指先が、わずかに離れる。
そのまま、触れる場所を失ったみたいに、宙で止まった。
「……では、私は」
小さな声だった。
「何を理由に、この方と結婚するのかしら」
その問いは、私に向けられたものじゃない。
たぶん、初めて——自分に向けたものだった。
アルベルトは、すぐには答えなかった。
ただ一度だけ、リリの手元を見て。
それから、静かに目を伏せる。
「……リリアーヌ」
その呼び方に、リリはほんの一瞬だけ目を見開いた。
「私は、君に選ばれていたわけではなかったのか」
責めるような響きはなかった。
ただ、確かめるみたいに。
リリの指先が、わずかに震えた。
何かを言おうとして、言葉を探して——
けれど、見つからなかったように見えた。
その様子を見て、私は、ほんの少しだけ息を吐いた。
——やっぱり。
分かってしまった気がした。
誰も間違っていないのに、どこにも“選んだ理由”がなかったことを。
その場で、すべてが決まったわけではない。
けれど、もう同じ形には戻らないことだけは、はっきりしていた。
数日後、婚約は静かに解消された。
誰も声を荒げることはなく、ただ少しずつ、元の形に戻っていっただけだ。
「……ごめんね、リリ。思わず言っちゃった」
あの日と同じ庭で、私はそう言った。
カップに触れた指先から、ゆるやかな温もりが広がっていく。さっきまで気になっていた重さが、どこかに落ちていったみたいだった。
余計なことだったかもしれない。
正しかったとも、まだ言い切れない。
「いいのよ、ミレ」
リリは、少しだけ目を細めて笑った。
「私、何も知らなかったわけじゃないの」
ほんの少しだけ、言葉を探してから。
「ただ、見ないでいられただけ」
「……そっか」
前よりも、自然な笑い方だった。
息をするのが、楽になったみたいに。
余計なことをしたのかもしれない。
それでもいいと、初めて思えた。




