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寒緋桜

作者: 沙華やや子
掲載日:2026/03/03

 

 亜季乃(あきの)哲也(てつや)と骨の髄まで愛し合っている。


(奥さんなんか目じゃないわよ。だって、だってあたしは……女神(じょしん)だから)


 それでも風に揺れる寒緋桜のように、鮮やかに染まりながら揺れている亜季乃は、妻子ある哲也の家族ごと包み込んでいる。嫉妬と博愛に裂かれつつ。


 幾度も伸ばされる哲也のゴツゴツとした手は、亜季乃を求める。亜季乃のろ過された上澄みを。淀みを。余すところなく欲し、抱きしめる。


 亜季乃もまた、5年の歳月の中を裸足で駈け廻り、哲也というそよ風に運ばれここまで歩いて来れた。


(居なくなれば良いのに、奥さんなんて)


 その鬼の声に、一度たりとも耳を塞がぬ亜季乃。

 そして、それが本音であろうとも、哲也の前で嗚咽は曝け出さぬ。

 しかし自由に憎み、哲也の子が本気で可愛いと感じているのにもかかわらず、本妻の死を願う。



「今夜はもう行くよ、亜季乃? また来るからね」


「はい」


 長い、長い口づけのあと……命よりも大事な愛おしい人がドアの向こうへ去って行った。今宵も。


 さあ、顔の皮膚を剥ごう。

 女神(じょしん)のお面を外そう。

 やっと存分に泣ける。

 肉のような赤いネイルを塗った爪を顔に突き立て、厚み3cmの1枚、引き剝がした。


 先に重しを付けた糸が垂れて行くかのように下へ、下へと引っ張られる涙。

 その涙を零しているのが亜季乃の本当の肌。


 真白い般若。


「うぇっ、うっうっぐ――――ッ」

 映画やドラマのように美しい声はしない。

 これが人間を棄てた女。人間から脱皮した女。神から進化した鬼。


 世界中の皆が気持ち悪がっても、哲也だけが狂ったように亜季乃を欲しがるから良い。


 ピンポーン……。


 玄関チャイムが鳴った。


(忘れ物をしたのかしら、哲也?)


 いっそのこと離れて行けば良いと、素顔(般若)のまま鼻汁を垂らしてドアを開けた。


「亜季乃……。亜季乃? 知っていたよ」


「え」


 真白い般若が俯き、ツノが哲也の顔に向いている。


「ニセモノなんかじゃないさ、どちらも。今の亜季乃もオレは好きだ」


 初めて素顔(般若)が、愛人の前で泣き崩れた。


「げぐ、うぐぐぐぐぅ、ぐぇ」

 穢い声だ。

 ――――一般的な美意識が決定するのなら、穢い。


 その日から哲也と亜季乃は行方をくらました。


 

 ピッタリ寄りそった黒い鬼と白い鬼が森に出ると、マスコミが騒ぎ始めた。

 いつかのツチノコ騒動のように、未確認生物は賞金首にかけられている。


 人を愛したら、生きちゃいけないのか。首を掴まえられるのか。


 人間たちを尻目に、2匹は永遠の蜜月を手に入れた。




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