第九話:究極のコマンドと、漆黒の死神の帰還
昼間だというのに、分厚い遮光カーテンによって光を完全に絶たれた客間。
その最も暗い部屋の隅で、フェリクスは膝を抱えてうずくまっていた。
「こ、ないで……。ちが、僕は……き、たない、から……っ」
扉を開けて入ってきた人影に怯え、彼は壁にすがりつくように後ずさる。
焦点の合わない黄金の瞳は、目の前にいるのが最愛のベアトリスであることすら認識できていない。ただ「自分の穢れを責め立てる何か」から逃れようと、ガタガタと激しく震えている。
(……ああ。こんなにも、冷え切って)
ベアトリスは、まだ薬の抜けきらない重い足を引きずり、ゆっくりと彼に近づいた。
彼の心は今、あの大惨事の地下室で止まったままだ。
自分の凄惨な『裏の顔』を見られ、ベアトリスに拒絶されたと思い込み、その絶望のあまり自ら精神の扉を固く閉ざしてしまっている。
「……汚いんだ……見ないで……ベアに、嫌われちゃう……」
うわ言のように繰り返すフェリクス。
その痛々しい姿に、ベアトリスの内側で、かつてないほど強烈なDomとしての本能が燃え上がった。
(わたくしのSubが、あんなちっぽけな絶望に囚われているなんて、許しませんわ)
ベアトリスはフェリクスの目の前、手が届く距離に真っ直ぐに立った。
そして、逃げようとする彼の肩越しに、深く、静かな決意を込めてその言葉を紡ぐ。
「――『Face me.(私に向き合え)』」
それは、ただの言葉ではない。
彼が隠そうとする裏の顔も、血に塗れた罪も、そのすべてをDomとして背負い、受け止めるという絶対的な「覚悟の証明」。
拒絶の殻を打ち破り、魂そのものを縛り上げる究極のコマンドだった。
「……ッ、ぁ……!?」
コマンドを受けた瞬間、フェリクスの体がビクンと大きく跳ねた。
本能が、最上位のDomからの命令に絶対服従を強いる。
嫌だ、見られたくない、化け物だと軽蔑されたくない。その恐怖から首を振って抗おうとするが、ギリギリと骨がきしむような痛みを伴いながら、彼の身体はゆっくりと、しかし確実にベアトリスの方へと向き直らされていく。
「やめ……見ない、で……っ」
苦痛と羞恥に顔を歪め、涙をボロボロとこぼしながら、フェリクスはついに顔を上げた。
そして、恐る恐る、目の前に立つベアトリスの瞳を見つめ返す。
(……え?)
フェリクスの呼吸が止まった。
見下ろしてくる彼女のアイスブルーの瞳には、彼が恐れていた『嫌悪』も『恐怖』も、微塵も存在していなかった。
そこにあるのは、ただひたすらに深く、揺るぎない『愛』と、彼を絶対に見捨てないという『Domとしての責任』だけ。
「……ベア、トリス……?」
「わたくしが、あの時『縛りなさい』と言ったはずです」
ベアトリスは静かに膝をつき、震えるフェリクスの両手――彼自身が最も汚いと思い込んでいるその手を、迷いなく強く握りしめた。
「貴方がどんな闇を持っていても、どれだけ血に塗れていても。それはすべて、わたくしの所有物です。勝手に汚いと決めつけて、わたくしから逃げることなど……絶対に、許しません」
その言葉が、強張っていたフェリクスの心の最奥に、温かい光となって一気に流れ込んでいく。
彼女は、全部見た上で、それでもなお「自分のものだ」と言ってくれているのだ。
氷のように冷え切っていた彼の手足に、ドクン、と熱い血が巡り始める。
「あ……ああ、あぁぁ……ベア……ッ!!」
フェリクスは弾かれたようにベアトリスにすがりつき、その細い腰に腕を回して、子供のように声を上げて泣き崩れた。
彼女の温もりが、匂いが、すべてが本物だと確かめるように。
ベアトリスは彼の漆黒の髪を、あの夜と同じように、優しく撫で続ける。
やがて、フェリクスの嗚咽が静かな寝息のような吐息へと変わり、ゆっくりと彼が顔を上げた時。
その黄金の瞳には、狂気でも怯えでもない、澄み切った確かな光が戻っていた。
「おかえりなさい、フェリクス」
微笑むベアトリスに、フェリクスはぽつりと、どこか幼さの残る素の表情で呟いた。
「……ただいま、ベア」
二人はぎこちなく笑い合い、引き寄せられるように、静かで優しい口づけを交わす。
触れ合うだけの、労るようなキス。
しかし、唇が離れた直後、フェリクスの瞳の奥で、ゾクッとするような熱い炎が揺らいだ。
「……ねぇ、ベア」
フェリクスは、頬を微かに赤らめながら、自身の首元――ベアトリスから贈られたアイスブルーのチョーカーを指でなぞり、彼女に甘えるようにすり寄った。
声は甘ったるく強請っているのに、その黄金の瞳は、完全に「飢えた捕食者」のそれだった。
「もっと、君を感じたい。……僕がここにいていいって、君のものだって……もっと深く、教えて……?」
その情熱的で危険な欲情のサインに、ベアトリスは一切怯むことなく、ふっと艶やかに微笑んだ。
「……ええ」
短く答えるが早いか、ベアトリスはフェリクスの襟元を強く掴み、自分から相手のすべてを奪い尽くすような、深く、熱いキスを仕掛けた。
暗闇の部屋に、甘い吐息と水音が響き渡る。
死神の闇は完全に払われ、二人は抗えない本能のままに、深く甘い夜の底へと堕ちていった――。




