第八話: 氷の令嬢の目覚めと、閉ざされた扉
1. 氷の令嬢の目覚めと、微かなSOS
「……っ、」
重い瞼を押し上げると、見慣れた天蓋が目に入った。
薬の後遺症か、頭の奥がひどく鈍く痛み、身体は鉛のように重い。
「お嬢様……! ああ、よかった、お目覚めになられて……!」
ベッドの傍らで付き添っていた侍女が涙ぐむ声と同時に、バタン、と乱暴に扉が開いた。
「ベアトリス! 気がついたか!」
血走った目で駆け込んできたのは、おそらくこの二日間、ろくに眠りもせずに事後処理と妹の看病(とフェリクスの監視)に奔走していたであろうアレクセイだった。
その後ろには、主治医が控えている。
「……お兄様。ご心配をおかけしました。わたくしは、もう大丈夫ですわ」
掠れた声で告げながら、ベアトリスは自身の内側に意識を向けた。
薬のせいで麻痺していた感覚が、徐々に正常な輪郭を取り戻していく。それと同時に、彼女のDomとしての本能が、真っ先に「ある喪失感」に気づいて警鐘を鳴らした。
いつもなら、彼女が少しでも不調を感じれば、どこからともなく『ベア!』と飛んできて、大型犬のようにすり寄ってくるはずの気配がない。
それどころか、DomとSubを繋ぐ精神のリンクの先にあるフェリクスの存在が、恐ろしいほどに遠く、冷たく、小さく縮こまっていた。
「……フェリクス殿下は、どうなさいましたの?」
ベアトリスの問いに、アレクセイは苦渋に満ちた顔で視線を逸らした。
「……あの後、殿下の精神は完全に落ちた(ドロップした)。邸に連れ帰ってからも、一切の光と食事を拒絶し、ご自身の客間の隅で……ただ、ひたすらに震えている。……俺のDomとしての声かけにも、全く反応しない」
「……!」
「お前が目覚めるまで、誰もあの部屋に踏み込めなかった。無理に触れようとすれば、自傷しかねないほどの心神耗弱状態だ」
その言葉を聞いた瞬間、ベアトリスの胸の奥を、刃で抉られるような痛みが襲った。
リンクの先から微かに伝わってくるのは、絶望。そして、自分自身への激しい嫌悪と恐怖。
『汚い僕を見ないで』という強い拒絶の奥底で、たった一筋、『助けて、ベア』という泣き声にも似たSOSが微かに震えているのを感じ取った。
「……行かなくては」
ベアトリスは、重い布団を跳ね除けた。
主治医が慌てて制止に入る。
「いけません、ベアトリス様! 薬の成分がまだ抜けきっておらず、貴女のお身体は絶対安静――」
「退きなさい」
低く、しかし絶対的なDomの威圧を含んだ声に、主治医も侍女もビクンと肩を震わせて道を譲る。
ベアトリスは、まだ力が入らない足で床に立ち、ふらつきながらもアレクセイを見据えた。
「わたくしのSubが、暗闇で一人、泣いていますの。……寝ている場合ではありませんわ」
「ベアトリス……」
「お兄様。殿下の部屋へ」
アレクセイは小さく息を吐き、無言で頷くと、妹の腕を支えた。
2.閉ざされた扉と、震える背中
フェリクスに与えられた客間の前は、重苦しい静寂に包まれていた。
ベアトリスはアレクセイの支えから離れ、一人でその扉の前に立つ。
コン、コン。
「……殿下。入りますわよ」
ノックをしても、中からは何の応答もない。
ベアトリスは躊躇うことなく、ノブを回して扉を開けた。
部屋の中は、昼間だというのに厚い遮光カーテンが固く閉ざされ、冷たい闇に沈んでいた。
そして、部屋の一番奥の隅。
そこには、まるで世界から身を隠すように膝を抱え、小さくうずくまっているフェリクスの姿があった。
その姿は、かつて彼女が「暗闇から救い出した日の彼」を、痛いほどに彷彿とさせた。
ベアトリスが一歩、部屋に足を踏み入れる。
「……っ!!」
人の気配を感じ取ったフェリクスが、ビクッと大きく肩を跳ねさせ、顔を上げた。
暗闇に光る黄金の瞳は、焦点が合っておらず、ひどく怯えきっている。
彼はベアトリスを「最愛のDom」として認識できていない様子で、まるで恐ろしい化け物から逃れるように、壁際へとさらに身を縮め、ガタガタと激しく震え出した。
「こ、ないで……。ちが、僕は……き、たない、から……っ」
かすれ切った声で紡がれる、哀れな拒絶。
ベアトリスは、その痛ましい姿から絶対に目を逸らさなかった。
彼女の氷の瞳に宿っているのは、同情でも、悲しみでもない。
自分の半身を必ずこの泥沼から引きずり上げるという、Domとしての強烈な『愛と責任』の炎だった。




