第五話:温かい食卓と、崩れる常識
1. 光への違和感
案内された部屋は、東向きの大きな窓から朝陽が降り注ぎ、上質な木製家具が温かい光を反射していた。
フェリクスは入り口で立ち尽くし、まじまじと部屋を見渡す。
「……ここ、本当に僕の部屋? 地下室とか、窓のない離れじゃなくて?」
その言葉に、ドアノブを掴んでいたアレクセイの手が止まる。
(……一体、こいつは王家でどれだけひどい扱いをされていたんだ?)
公爵家の客間としては標準的な、明るく清潔な部屋。それを「驚きの対象」とする王子の過去に、アレクセイは軽い眩暈を覚えた。
「……一段落したら、小広間に来い。お前の分も朝食を準備している。迷うなよ」
ぶっきらぼうにそれだけ言い残し、アレクセイは足早に立ち去った。そうでもしないと、この「薄幸すぎる王子」に同情しすぎてしまいそうだったからだ。
2. 戦場ではない食卓
フェリクスが恐る恐る小広間の扉を開けると、そこには王宮の「毒見と沈黙」に支配された食事風景とは真逆の世界が広がっていた。
「あら、フェリクス殿下。おはようございます」
「おはよう、殿下。部屋の居心地はどうかね?」
そこには、公爵夫妻とベアトリス、そして不機嫌そうな顔(通常運転)のアレクセイが揃っていた。
王族の食事は、長いテーブルの両端に座り、会話も儀礼的なもの。
しかしここでは、家族が互いに手の届く距離に座り、公爵自身が夫人の皿に「これ、美味いぞ」とジャムを勧めている。
「エレオノーラ、昨夜は少し冷えたが、体調は大丈夫か? 辛ければ無理に座っていなくていいんだぞ」
「まあ、あなた。フェリクス殿下の前で過保護が過ぎますわ」
あの「鉄血公爵」と恐れられる当主が、Subである妻の前では、まるで忠誠を誓う大型犬のように甲斐甲斐しく世話を焼いている。
フェリクスは、パンを口に運ぶ手すら止まってしまった。
(……Domが、Subに、あんなに甘い声を出すなんて……)
「お父様、例の法案の件ですが、わたくしは反対ですわ。もっとSubの権利を保護すべきです」
「ほう、ベアトリスの意見を聞こうか。アレクセイはどう思う?」
朝食の席で、ごく自然に政治の話が混ざり、子供たちの意見を父が対等に聞いている。
そこに「支配」や「抑圧」はなく、ただ純粋な「信頼」があった。
3. フェリクスの戸惑い
ベアトリスが、呆然としているフェリクスの皿に、焼きたてのオムレツをひょいと乗せる。
「殿下、冷めてしまいますわよ。わたくしの家のコックは腕が良いのですから、しっかり召し上がって」
「……あ、うん。……ねえ、ベア。……なんか、ここ、すごく『うるさい』ね」
「あら、賑やかだと言ってくださいませ」
フェリクスは、喉の奥がツンとするのを感じた。
温かい食べ物。楽しげな会話。自分を「道具」としてではなく、「そこにいる一人」として扱う視線。
(……僕、本当にここにいていいの? こんなに明るい場所に、馴染んでもいいの?)
アレクセイは、横目でフェリクスの震える指先を見ながら、わざとらしく紅茶を啜った。
「……食ったら、庭の散歩にでも付き合え。……ベアトリスが『お前の体調を管理しろ』とうるさいからな」
4.ベアトリス争奪戦
フェリクスが居座り始めてから、ローゼンバーグ公爵邸の平穏は崩れ去った。
朝、ベアトリスが部屋を出ると、そこには既にアレクセイとフェリクスが待ち構えている。
「おはよう、ベア! 昨夜の夢に僕が出てきたかい?」
フェリクスが爽やかな朝日を受けて、でれでれと甘えてくる。
「朝から不審者が。ベアトリス、こいつの顔を見ると一日が台無しになる、俺とだけ話をしろ」
そこにアレクセイが割り込んで、ベアトリスを挟んで左右から火花を散らす二人だった。
夜に慣れば、なったで――
「ベアの次にお風呂に入るのは、婚約者の僕の権利だよ!」
謎理論で言い張るフェリクス。
「家主(の息子)である俺が優先だ。貴様のような野良犬は最後でいい」
アレクセイも同じように応戦する。
「……お二人とも、お湯はいくらでもありますわよ」
ベアトリスが呆れるところまでが三人のお約束になりつつあった。
5.策士、策に溺れる
その日、フェリクスは前触れなしにベアトリスの部屋を訪れた。
ちょっとした悪戯心が働いた……といったところだった。
しかし、――。
「あ、ベア、ちょっと相談が……って、わぁぁぁ!! ご、ごめん!!」
自室にいたベアトリスはちょうど着替えているところだった。
薄い下着姿に慌てて顔を真っ赤にしてフェリクスは背を向けた。
「……あら、殿下。何をそんなに慌てていらっしゃるの? 貴方はわたくしの婚約者でしょう。いずれ見るものに、今更驚く必要があって?」
一方、ベアトリスは全く動じていなかった。
表情も変えず、肩をすくめ、平然とガウンを羽織りながらフェリクスに近づく。
「それとも……わたくしの姿に、そこまで『中てられて』しまったのかしら?」
彼女の指先が、赤くなったフェリクスの耳に触れる。
策士であるはずのフェリクスが、彼女の圧倒的なDomの余裕の前に、ただの「初心な少年」になってしまうのだった。
6.Subの矜持
アレクセイとの小競り合いに疲れ、ベアトリスの「強さ」に圧倒されて少し自信を失いかけているフェリクスを、エレオノーラが茶会に誘う。
色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園の東屋で二人向かい合って座る。
侍女が紅茶をカップの注ぐ水音と野鳥の囀りが聞こえる静かで穏やかな時間が流れる。
「フェリクス殿下。……アレクセイやベアトリスと過ごすのは、体力が要るでしょう?」
「……あはは。二人とも、すごくパワフルですから」
エレオノーラは、静かに微笑んで、自身の首元に巻かれたシルクのスカーフを指でなぞる。
「私も最初は戸惑いましたわ。ローゼンバーグのDomは、愛が深すぎるあまり、時に嵐のようですもの。……でもね、殿下。私たちは『流されている』のではないのです」
「え……?」
「猛獣のような彼らが、唯一、牙を隠して喉を鳴らす場所。それが私たちSubの腕の中なの。……私たちは、彼らの『帰る場所』であり、暴走を止める『重石』。……世界を動かすのは彼らですが、彼らを動かすのは、私たちなのですよ?」
その言葉に、フェリクスは目を見開く。
支配されることへの恐怖が、「自分が彼女を支えている」という誇りに変わる瞬間となった。
7. 深夜のバイタルチェック:光が暴く「影」
初めて経験する「家族の団欒」に、胃も心も満たされてその日も終わろうとしていた。
公爵邸の客間、柔らかな月明かりが差し込む部屋で、フェリクスは一人、昼間の温かさを反芻していた。
そこへ、控えめなノックの音が響く。
「殿下、失礼いたしますわ」
現れたのは、ナイトウェアの上にガウンを羽織ったベアトリスだった。
「一日の終わりに、バイタル(Dom/Subの同調状態)を確認しておきたくて」と言う彼女は、当然のようにフェリクスのベッドサイドに腰を下ろす。
「……安定していますわね。少し、お疲れのようですが」
ベアトリスの白い手が、フェリクスの金髪にそっと触れる。
そのまま、幼子をあやすように、ゆっくりと「よしよし」と頭を撫で始めた。
(……あぁ、なんだこれ。……すごく、あったかい)
全身の力が抜けていくような幸福感。Subとして、最愛のDomに慈しまれる悦び。
だが、その温もりが深ければ深いほど、フェリクスの脳裏には、自分がこれまで浴びてきた「返り血」の記憶が鮮明に蘇る。
(……こんなに優しい手。でも、知られたら終わりだ。僕が王家の闇で、どれだけの人間を消してきた暗殺者か。ただの『王家のゴミ』だって知られたら……)
ベアトリスの瞳に映る自分が、あまりに不釣り合いに思えて、彼は反射的に「笑顔の仮面」を顔に貼り付けた。
「えへへ、ベアの手は温かいなぁ。もっと撫でて? 僕、もう一生ここから動きたくないよ!」
「…………」
「ねえ、ベア? どうしたの、そんなにじっと見つめて……」
わざとおどけて見せるフェリクスだったが、ベアトリスの手はピタリと止まっていた。
彼女の氷の瞳が、フェリクスの心の奥底にある「震え」を射抜く。
「……殿下。無理に笑わなくて結構ですよ」
「えっ」
「今は『Wait.(待て。)』の時間です。……ここはローゼンバーグ。誰も、貴方を傷つけません。貴方が自分自身を傷つけることも、わたくしが許しません」
「……あ……」
フェリクスは言葉を失った。
「待て」というコマンド。それは、これ以上無理をして自分を追い込むなという、彼女なりの「救済」の宣告だった。
彼はそのまま、ベアトリスの膝に顔を埋めた。溢れそうになる何かを、必死に堪えながら。
8. 社交界のドン、来襲
翌日の昼過ぎ。公爵邸に、一陣の鋭い風が吹き抜けた。
「ベア! 婚約者が転がり込んだって本当!? 面白いことになってるじゃない!」
扇子を優雅に揺らしながら現れたのは、ベアトリスの唯一無二の親友、シャルロットだった。
彼女は挨拶もそこそこに、ベアトリスの隣に座るフェリクスを、頭のてっぺんからつま先までスキャンするように見つめる。
「ごきげんよう、殿下。……あら、意外と毛並みはよろしいのね。もっとこう、薄汚れた駄犬のような方を想像していましたわ」
パチン、と扇子を閉じて微笑むロッティ。
その瞳には、一国の王子に対する畏怖など微塵もなく、ただ「親友のパートナーとして合格か否か」というシビアな判定のみが宿っていた。
(……うわ、ベアの友達も強そう。この人、Normalなのに威圧感がすごい……)
フェリクスが思わず身を引く中、ロッティはさっさと興味を切り替え、廊下で出くわしたアレクセイへと歩み寄った。
9. 最強の「害虫駆除」会議
「閣下、ちょうどよろしいところに」
「シャルロット嬢か。……また一段と騒がしいな」
アレクセイは眉をひそめるが、その視線はロッティを「対等な相手」として認めている。
二人は窓際へ移動し、声を潜めて「業務連絡」を開始した。
「あのミミとかいう男爵令嬢、最近また動きが怪しいですわ。裏で怪しげな薬師と接触しているという情報があります」
「ああ。学園の警備も強化したが、ベアに近づく前に根本から叩き潰す必要があるな」
「……ふふ。気が合いますわね、閣下。私の方で、彼女の実家の不正をいくつか掘り起こしておきましたわ。仕上げの『物理的な圧力』は、騎士団の方でお願いできます?」
「完璧な采配だ、シャルロット嬢。……君こそ、頼もしい限りだ」
二人の間に流れるのは、甘い空気ではなく、「効率的な殺意」を含んだ信頼関係。
バルコニーからその様子を見ていたフェリクスは、隣のベアトリスにそっと囁いた。
「ねえ、ベア……あっちの二人、すごくお似合いだね。……世界が滅びそうな雰囲気だけど」
「あら。平和を守るための、ただの相談ですわよ?」
ニッコリ笑うベアトリスの言葉に偽りはなかった。




