第三話:悪魔の契約勧誘
1. 陥落の瞬間
「――Kneel.(跪きなさい。)」
その一言は、慈悲深い雨のように、乾ききったフェリクスの魂へと降り注いだ。
王子の意思とは無関係に、両膝が音もなく床を打つ。
屈辱? いや、違う。
頭を垂れ、彼女の足元に平伏した瞬間に押し寄せたのは、脳髄が痺れるほどの圧倒的な快楽と安堵だった。
(あ……あぁ、凄い……)
体中の痛みが消える。焦燥感が溶ける。
空っぽだった器が、彼女の「命令」で満たされていく。
これまで、どんな高名なDomのコマンドも弾いてきた自分の本能が、この見知らぬ令嬢の前では歓喜の声を上げて尻尾を振っている。
フェリクスは震える息を吐き出し、潤んだ瞳でベアトリスを見上げた。
月光を背負い、冷徹な瞳で自分を見下ろす彼女は、彼にとって女神そのものだった。
(見つけた。……俺の、運命)
その瞬間、フェリクスの本能がカチリと音を立てて切り替わった。
「もう、この人なしじゃ生きていけない」と。
2. 塩対応 vs 激重ワンコ
「……バイタル安定。瞳孔の収縮も正常値へ戻りましたね」
ベアトリスは懐中時計を確認し、パチンと閉じた。
目の前で男が一人、人生観が変わるほどの衝撃を受けているというのに、彼女の態度は「仕事終わりの医者」そのものだった。
「緊急処置は完了です。では、夜も遅いのでわたくしはこれに――」
「待って!!」
帰ろうと踵を返したベアトリスのドレスの裾が、ガシッと掴まれた。
見れば、先ほどまで瀕死だったフェリクスが、とろんとした甘い笑顔でしがみついている。
「行かないでよ。……ねえ、もっと」
「これ以上のコマンドは過剰摂取になります。用法用量を守ってください」
「そんなのどうでもいいよ。……ねえ、結婚して?」
ベアトリスは眉をひそめた。
Subドロップの影響で脳に障害が出たのだろうか?
「……殿下。先ほど申し上げましたが、わたくしたちは既に婚約しております」
「うん、知ってる。兄上のお下がりとしての『政略結婚』でしょ? 紙切れ一枚の話じゃん」
フェリクスは立ち上がり、ベアトリスの手を取る。
その黄金の瞳は、無邪気な子供のようにキラキラと輝いているが――奥底には、決して獲物を逃さない「執着」の闇が渦巻いていた。
3. 悪魔の勧誘
フェリクスは、ベアトリスの指先に頬をすり寄せ、うっとりと囁く。
「僕が欲しいのは、そんな薄っぺらいものじゃないんだ」
「では、何を?」
「魂の繋がりだよ」
彼はにっこりと微笑んだ。
その笑顔は、どこかの物語に出てくる『願いを叶える代わりに魂を奪う白い獣』のように、無垢で、残酷なほどに魅力的だった。
「ねえベアトリス。僕と契約して、僕の『ご主人様』になってよ!」
(……は?)
ベアトリスは数秒間フリーズした。
彼女の認識では「Dom/Sub」は「治療者と患者」。
しかし、目の前の王子が求めているのは、明らかに「一生飼い殺してくれ」という重すぎる契約だった。
「お断りします。わたくしは公爵令嬢であり、ペットシッターではありません」
「えーっ!? なんで!? 俺、顔もいいし血筋もいいし、君の命令なら『死ね』って言われても喜んで死ぬよ!? こんな優良物件ないよ!?」
「その思考回路が『不良物件』なのです」
ベアトリスは冷たく手を振りほどこうとするが、フェリクスは離さない。
こうして、「事務的に管理したい女」と「魂レベルで飼われたい男」の、終わらない攻防が幕を開けたのだった。




