第二話:初夜の攻防
1.沈黙の私室
王宮の奥深く、離宮にある第二王子の私室エリア。
華やかな舞踏会場とは打って変わり、そこは静まり返っていた。いや、正確には「人を寄せ付けない」異質な空気が漂っていた。
(……甘い匂い。これは、麝香?)
ベアトリスは廊下の角を曲がったところで足を止める。
鼻腔をくすぐる、重く湿度のある香り。
ロッティの言っていた「Subとしてのフェロモンが強すぎる」という噂は、あながち誇張ではないらしい。
普通の令嬢なら、この濃密な気配に当てられて頬を染めるか、恐怖で足がすくむところだ。
だが、ベアトリスは冷静に懐からハンカチを取り出し、口元を覆った。
(濃度が高いわね。換気が不十分だわ。……これでは「Subドロップ(欠乏症)」の前兆が出ている可能性が高い)
彼女は迷わず、重厚な扉の前まで進むと、コンコンとノックをした。
「失礼いたします。ベアトリス・フォン・ローゼンバーグです」
返事はない。代わりに、中から何かが崩れるような音と、荒い吐息が漏れ聞こえた。
「王太子殿下より、フェリクス殿下との婚約の命を受けました。ご挨拶と、契約内容の確認に参りました」
色気のない口上と共に、ベアトリスは許可を待たずに扉を開け放つ。
「……っ、誰だ……入ってくるなと言っただろう……!」
拒絶の叫び。しかしベアトリスは動じなかった。
(まだ叫ぶ元気があるなら、緊急搬送までは不要ね。現場処置で対応可能かもしれない)
彼女は冷静にトリアージを行うと、一歩足を踏み出した。
2.拒絶するフェリクス
闇に沈んだ部屋の奥。
天蓋付きのベッドの上で、一人の男がうずくまっていた。
乱れたシャツから覗く汗ばんだ胸元。
黒髪は乱れ、浅い呼吸を繰り返す彼の頬には、乾いた涙の跡が生々しい。
黄金の瞳だけが、居もしない敵を威嚇するようにギラついてた。
その姿は、噂通りの「放蕩王子」というよりは――傷つき、壊れかけた美しい獣だった。
(これは、確かに危険だわ……)
見るからにSubドロップ寸前の状態だった。支配階級にあるSubであるが故の不遇、そして、恐らくパートナー不在による本能の不満が、彼をここまで追い詰めているのだろう。
「……ジェラール兄上、からの、……手紙、……読んだ」
はぁはぁはぁ。
フェリクスは繰り返される浅い呼吸の合間に絞り出すように呟いた。
震えるその手元にくしゃくしゃになった書簡が見えた。
書簡でフェリクスに伝えたということは、婚約破棄はあの場で思いついた戯言ではなかったらしい。
(……用意周到ね。あの衝動的なジェラール殿下が、舞踏会の前にわざわざ弟への手紙を用意するなんて。まるで、『誰か』に入れ知恵された台本通りに進めているみたいだわ)
いつもの戯言とは違うのかもしれない。
しかし、今、優先すべきはそんなことではなかった。
ベアトリスは意を決して彼に近づいた。
「フェリクス殿下、ご気分が――」
彼女の声は、冷たく鋭い拒絶によって遮られた。
「来るなっ……! 見るな……」
フェリクスは弱々しいながらも、全身を震わせながら彼女から逃れようと後ずさる。
視線は定まらず、その瞳の奥には、見知らぬDomであるベアトリスへの純粋な恐怖が宿っていた。
ベアトリスは公爵令嬢としてDom/Subユニバースの知識を叩き込まれており、Subドロップが進行すれば取り返しのつかない事態になることを本能的に理解していた。
この状態のフェリクスと話し合う時間は残されていない。
真面目で責任感が強い彼女は、見ず知らずの相手とはいえ、目の前の苦しむSubを放っておけなかった。
(このままでは、彼は――)
ベアトリスは強く奥歯を噛み締めた。
通常、ソフトプレイであっても、DomとSubの間に信頼関係が十分に築かれてから行われるものだ。
しかし、今は非常事態。自身の立場や相手の拒絶を顧みている場合ではない。
彼女は震える手で、しかし、迷いのない眼差しでフェリクスを見据えた。
「フェリクス殿下。あなたのDomとして、命じます」
ベアトリスは大きく息を吸い込む。少女らしい可憐な姿からは想像もできないほど、深く、しかし澄み切った声が、静寂に包まれた私室に響き渡った。
「Stay.(動くな。)」
コマンドが発せられた瞬間、フェリクスの体がぴくりと揺れ、その動きが不自然なまでに硬直した。拒絶の言葉を紡ごうとしていた唇が閉ざされ、虚ろな瞳がベアトリスの一点を見つめる。DomのコマンドはSubの精神に強く影響を与える。彼の本能が、この見知らぬDomの言葉に従ってしまったのだ。
3.触れ合いと安らぎ
Domのコマンドによって動きを止めたフェリクスに、ベアトリスはゆっくりと近づいた。
震える指先を必死に抑え込み、ベアトリスはフェリクスの肩にそっと手を置いた。
拒絶の言葉はもう聞こえない。しかし、手のひらから伝わる彼の体の震えは、コマンドによって一時的に動きを封じられているだけで、内なる混乱は全く収まっていないことを物語っていた。
ベアトリスは意識して、ゆっくりと、優しく、その手をフェリクスの肩から背中へと滑らせる。
高熱を帯びた皮膚は、彼女の冷たい指先から伝わる温もりを吸い込むように受け入れた。
何度も、何度も、同じリズムで、まるでひび割れた器を修復するように、背中を撫で続けた。
そして、言葉を選ぶ。
浅く速い呼吸を繰り返すフェリクスの耳元へ、今度は先ほどよりもずっと柔らかく、しかし有無を言わせぬDomとしての確信を込めた声で、次のコマンドを紡いだ。
「Relax.(落ち着け。)」
◇◇◇
4.【フェリクス視点】安堵の波紋
「Relax.」のコマンドは、Domの手の温もりと相まって、フェリクスの心身に穏やかな波紋を広げた。撫でられる背中の硬直が少しずつ解け、全身を覆っていた目に見えない鎧が音もなく崩れていく。
浅く忙しなかった呼吸は、Domのリズムに合わせるようにゆっくりと深くなり、長く細い吐息がフェリクスの唇から漏れた。 Domの接触という本能的な安心感に、彼の身体は素直に反応していく。黄金の瞳に宿っていた狂気の色が薄れ、代わりに幼子のような、どこか心許ない光が灯った。
Dom/Subユニバースにおいて、DomのタッチはSubにとって保護と安らぎの象徴となる。この瞬間、ベアトリスの手が、フェリクスの世界で唯一の拠り所となっていた。王子の強すぎるSubの性質が、見ず知らずのDomであるベアトリスを、本能的に求めていく。
ベアトリスは、フェリクスの全身から力が抜けたのを感じ取ると、さらに深呼吸を促すように背中を撫で続けた。
5.【フェリクス視点】開放される五感
「Feel.(感じろ。)」
Domの声が、フェリクスの耳朶を優しく震わせる。その言葉は、彼の内側深くへと染み渡り、麻痺していた五感を少しずつ覚醒させていく。Domの指先が紡ぎ出す微細な動き、肌に伝わる確かな温もり、そして自身の心臓がゆっくりと穏やかなリズムを刻み始めていること。
フェリクスの意識は、外界の混乱から Domの手が与える純粋な感覚へと引き戻されていく。濁っていた視界は、Domの優しい手が織りなす微細な光のきらめきを捉え、彼の耳には、遠ざかっていた部屋の静寂の中に、 Domの澄んだ吐息だけが響くようになった。
彼は自身の身体の力が完全に抜け落ち、Domの腕の中に沈み込んでいくのを実感する。その感覚は、底なしの闇に落ちていくような恐怖ではなく、すべてを委ねられる圧倒的な解放感だった。拒絶することができない。そして、拒絶したくない。本能が、このDomのすべてを受け入れようと叫んでいる。
フェリクスはDomのコマンドを受け入れ、その五感のすべてを「Feel.」の言葉通り、Domの優しい触れ合いに委ねるのだった。




