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第三話 南の海から天才少女来たる

時刻は夜の十時を過ぎていた。

与那覇真凛は勝浦の安アパートの一室で、欠片ほどの興味もない海洋学の資料を読み漁る。

既に知識は飽和しかけていた。国内の資料だけでは物足りなくなり、英文で書かれた資料を取り寄せた。

母国語とは違う言葉で書かれた資料を難なく読み上げて、真凛は一人呟く。

「天才少女なんて肩書き、別にいらないけどなー。創様の側にいられれば、それで十分なのに」

創様。その名前を呟いただけで、胸の奥に火が灯るような気がした。暖かいような、苦痛を伴う熱さのような感覚だった。

大量の英語やロシア語の専門書が積み上げられた部屋で、真凛は呆れたように笑いながら寝転がる。

そして枕元にあった三線を手に取り、掻き鳴らす。

「さーきみは……のなかの、いばらのはなかー……さーよいよい……」

声は決して玄野には届かない。同じ空の下で、房総の星空の下で、玄野は今どうしているだろう。

三線を引く手が震えリズムが乱れる。真凛の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。


時は七年前に遡る。

那覇で殺人事件が起きた。

土曜日の早朝、アーケード街の出口で遺体が発見された。

被害者は四十代の人間の男性で、とある飲み屋の常連だった。

遺体は太ももから臀部にかけて食い荒らされて、左足の太ももはほとんど骨しか残っていないような状態だったという。

喉に深く噛まれた跡があり、肉食獣人に襲われたのだろうと思われる。死因は窒息か失血死ということだった。

飲み屋のオーナーいわく、この男は酒が入ると朗らかに笑う人気者で、恨みを買うような性格ではないらしい。

男の職場の同僚や上司にも話を聞いたが、手がかりになるような情報はなかった。

遺体の状態からも、怨恨などの感情的な動機よりは、腹を空かせたからとりあえず襲って食ったのではないかと見られていた。

「肉食獣人で、獣人化して日が浅い者だろう」

「まさに狩りという感じの殺され方だ」

「芽生えた狩猟本能を抑えられなかったのだろうな」

そのような噂が飛び交った。

そして運悪く、真凛は事件の三日ほど前に獣人化していた。

さらに運の悪いことに種族はライオンだ。

十歳の少女といえど、ライオン獣人なら人間の大人を噛み殺すことなど容易い。

真凛の家族はアーケード内で飲み屋を経営しており、二階に住居がある。

深夜にちょっと狩りに行って、被害者を殺してから自宅に戻ってシャワーを浴びるのも簡単だろう。

証拠などは何もなかったが、真凛に疑いが向くのは状況的に必然ともいえた。

月曜日に登校したときのクラスメイトは、どこかよそよそしかった。

「お前が殺したんだろう」と直接言う者はいなかったが、誰も自分の目を見て会話をしない。

仲良しのクラスメイトに、担任の教師に、いつものように「おはよう」と声をかけられる。

それすらも、急に態度を変えたら刺激してしまうことになるから、とりあえず今まで通りに挨拶しておこうという意図が嫌でも理解できた。

その日、真凛はクラスメイトといつも通りに会話を交わしたが、一緒に下校する者はいなかった。

母親は「正直に言って、施設で保護してもらおう」と勧めてきた。

狩猟本能を抑えきれず事件を起こしてしまった肉食獣人も、専用の施設で更生プログラムを受ければ社会復帰は可能だ。

未成年の真凛には少年法が適用されるし、幼くて本能を抑えられなかったということで世間の目も多少は甘くなる。

真凛のためを思って言っているのが理解できたからこそ辛かった。

火曜日も水曜日も、真凛は一人で下校した。

当然だ。人を殺したかもしれないライオン獣人と、教師の目も届かないところで一緒にいたい者などいない。

「本当にやってないのに、でも」

真凛は、容疑を認めて更生プログラムを受けて戻ってきたほうがいいかもしれないと思い始めていた。

犯罪者扱いされても、どうにでもなれとすら思った。

容疑を否認し続けても、疑いが晴れる様子はない。クラスメイトとの距離が、日に日に遠くなっていく。

「君、ちょっといいかな」

裏道を通って一人で帰宅していた真凛に、真っ黒で背の高い馬獣人の男が声をかけた。

「なんですか」

真凛はわざとぶっきらぼうに答えた。

濡れ衣を着せられて苛ついていたし、愛想良く振る舞ったところで、自分を見る周囲の目は変わらない。

それに、いざとなればライオンの自分のほうが強い。

相手が大人だろうと、ニコニコと答えてやる必要もないと思ったのだ。

「疑われて悔しいのか」

馬の男は真凛の態度に気を悪くしたような様子はなかった。

真凛の状況について何か知っているのだろうか。言い方からすると、自分を無実だと信じているようだが。

「あなたに関係ないです」

しかし真凛は不機嫌そうな態度を崩さず返す。

事件の疑いをかけられることもない草食獣人のお前に何が分かると言わんばかりだった。

「このまま逮捕されても構わないと思っている?」

「うん」

真凛はため息混じりに言う。既に自暴自棄になっていた。

家族にも犯人だと決めつけられ、これからもずっとクラスメイトにも避けられたままだろうと思うと、逮捕されて更生施設に送られることなど何でもなかった。

「君が犯人で確定したら、捜査が打ち切られる。そうなったら真犯人は野放しになるよ」

「別に、何人殺されたって構わない」

「本当に、そう思ってるのかな」

「……うん」

生まれ持った善性か、家族や教師や友人に愛されてきた記憶からか、少し躊躇ってから目を逸らして真凛は答える。

いくら疑われようと、社会に自分の居場所がなかろうと、何の罪もない人が殺されることは受け入れがたかった。

何か考え込むように少しだけ間を置いてから、馬の男が話し出す。

「君が濡れ衣を晴らす気なら、僕も協力できるけど」

「……あなた、誰なんですか?」

この男はまだ信用できない。名前も仕事も、自分を助けようとしている目的も、何もかもが不明なままだ。

しかし、「私に関わらないで」と完全に拒絶する気にもならなかった。

変質者の類ではなさそうだし、十歳の少女といえど必要以上に子供扱いしない誠実さが伝わってきて、どこか心地良さのようなものを感じ始めていた。

この男は何者なのだろう。一体何を知っているのか、どのような協力をしてくれるというのか。

馬の男は、黒地にデイゴの花をあしらったシャツの胸ポケットから、名刺を一枚取り出した。

そして、真凛に渡す。

『Chrono Laboratory 研究所長

玄野 創』

飾り気のない白一色の名刺には、そう書かれていた。

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