第一話 赤い錆のような記憶
時刻は夕方の四時を過ぎていた。
木更津行きの外房線が少し遅れて御宿駅に到着する。降りたのは牧野葵一人だけだった。
塩気を含んだ冷たい風が吹き抜け、葵は思わず身震いする。
マフラーをしっかりと巻き直し、コートのポケットに手を入れて、駅の裏手の道を急ぎ足で歩き始める。
駅前には民家が連なり、薬局や居酒屋などの店舗が点在していたが、駅から離れて海とは反対側に進んでいくと、建物は次第に数を減らしていく。
誰ともすれ違わなかった。十一月の御宿町は静まり返っている。
祭りのような夏の賑やかさはとっくに去り、海辺の田舎町だけが取り残されていた。
坂道を十分ほど登り、雑木林を抜けた先に小さな研究所があった。
明治時代の建物を思わせる、洋風の木造の小屋だ。外壁の木材は白く塗られていて、三角屋根は赤い。
扉の左側に貼り付けられた金属製の表札には『Chrono Laboratory』と刻まれている。
葵は扉を叩く。乾いた木の扉は軽い音を立てた。
数秒後に鍵が開く音がして、「どうぞ」と壮年の男の柔らかな声が帰ってきた。
葵は扉を開けて中に入る。
「遅くなってすみません。本日もよろしくお願いいたします」
「全然大丈夫ですよ。よろしくお願いします」
唯一の研究助手の乾独歩は、数分程度とはいえ遅刻を咎める様子は見せず優しく微笑みかける。
ジャーマンシェパードの犬獣人の彼は、ぬいぐるみみたいでいかにも無害そうな男だ。眼鏡の奥の瞳は、黒いビーズを思わせる。
葵は自身のために用意されたデスクにつき、パソコンを起動した。
文書編集ソフトを立ち上げ、デスクに置かれたメモ書きから言葉を拾い出しては、打ち込んでいく。
奥の部屋では真っ黒な馬獣人が、資料や本がうず高く積み上げられたデスクで、同じようにパソコンを操作している。
研究所の主の玄野創は、気難しそうな顔で自身が作り上げた資料を睨む。
頭を動かすと長いたてがみが揺れて、消毒液と日なたの牧草のような匂いが漂ってくる。
決して良い香りとは言えないが、あの日の鉄臭い教室の記憶を上書きするような、穏やかな匂いだった。
五ヶ月前。
上総学園で殺人事件が起きた。
その日は朝から薄暗くて、頭が重くなるような空気が漂っていた。
梅雨入りの湿度や低気圧のせいだけではなかったのだろう。
教師も生徒も誰もが事件のことなど知らなかったが、生物に備わる野生の勘が察知していたのか。
葵はいつも通りに登校し、自分の教室へと向かった。
突如、「キャー」という女子生徒の悲鳴で、沈黙が破られる。
同時に、ネコ科のしなやかな身体が教室から飛び出して、廊下を駆けていった。
「待て!」と男子生徒が怒鳴るが、それは振り返りもせずたちまち姿を消した。
葵はそのネコ科に見覚えがあった。一週間ほど前にチーターの獣人になった、親友の風見鈴だ。
葵は教室を覗く。数人の同級生に止められたが、親友が事件に巻き込まれているかもしれないのだ。目を逸らすことなどできない。
そこには想像を絶する光景があった。葵は息を詰まらせ、口元を押さえる。
生臭い鉄の臭いが立ち込めた教室で、人間の女子生徒が無惨な姿になっていた。
赤いペンキをぶちまけたように、床に血溜まりができている。
内臓を食い尽くされて、腹の中が空っぽになっている。食べ残しの腸の断片が、ちぎれたゴムチューブのように散らばっている。
手足はところどころが食いちぎられ、指も関節から何本か切断されている。
腕の咬傷面からは筋繊維や黄色い脂肪が溢れ、白い骨が覗いている。
喉を深く噛まれたのか、頭部はほぼ切断されたようになっており、首の後ろの皮でようやく繋がっている。
顔だけは無傷で、飛び散ったであろう血を拭い取った跡まであるのが、かえって気味が悪かった。
そして遺体の傍らには『幸せなまま終わらせたかったの』とだけ書かれたメモが落ちていた。
葵は思う。
数人の同級生は鈴を犯人だと決めつけているようだが、本当に鈴がやったのか。そんなはずはない。
鈴は、葵の幼稚園の頃からの親友だった。
煩わしい女子のグループやカーストなど一切関係なく、人懐こくて明るく、男子とも女子とも仲良くしていた。
新しい友達がいくら増えても、葵がクラスにあまり馴染めていなくても、葵のことを真っ先に気にかけていてくれた。
そして、獣人化を何よりも恐れていた。
小学三年生の夏休み。
空に立派な入道雲が湧き上がり、青と白の眩いコントラストを描いていた。
夏の空も照りつける日差しも満開のひまわりも、何もかもが鮮明すぎる一日だった。
あんなことがあったから、鮮やかに記憶に焼き付いているだけかもしれないが。
その日、鈴の兄が理性をなくした虎獣人に食い殺された。
鈴が学校のプールから帰ると、自宅の庭で惨劇が起きていたらしい。
既に事切れている兄を押さえつけて、虎獣人が肉を一心不乱に貪っていたという。
鈴は虎獣人に見つからないよう隠れ、近所のコンビニまで逃げて、警察を呼んでもらったそうだ。
次の犠牲者を出すこともなく虎獣人は逮捕されたが、鈴の心には大きな傷が残った。
茹だるような夏が過ぎ、木々が紅く色づいても、鈴は学校に戻ってこなかった。
葵は不登校になった鈴の家へ、よくお見舞いに行っていた。
一週間に一度は訪れる葵を、鈴の母親はジュースやお菓子を用意して歓迎してくれた。
息子を亡くした心の傷も癒えていないだろうに、「鈴を気にかけてくれてありがとう」と、いつも穏やかに笑っていた。
鈴の部屋で二人きりで、お菓子を食べながら話した。
「学校は警備がしっかりしてるから、何かあっても大丈夫。絶対守ってくれるよ」
安心させようとする葵に、鈴は「そうじゃないの」とかぶりを振る。
「あの虎の目、ブラックホールみたいに真っ暗で何にも映ってなかった。私も獣人化したら、あんな風になる。きっと、お母さんのこともお父さんのことも葵ちゃんのことも分からなくなっちゃうんだよ」
「鈴ちゃんはそんな風にならないよ」
「どうして?」
「鈴ちゃんはいつも優しいし、友達だってたくさんいるから。それに、そこまで心配してるなら大丈夫だよ」
「あの虎だって、いつも優しかったかもしれない」
葵はそれ以上、何も言えなかった。
直接、現場を目撃したわけではないのだ。鈴の恐怖を理解したつもりになって、おこがましい真似をしたと思った。
それからも葵は時々、鈴の家を訪れた。
クラスメイトの男子の悪ふざけがひどすぎるだとか、給食の何が美味しかったというような日常の話をした。
十二月の終わりには冬限定のお菓子を用意して、二人だけでちょっとしたクリスマスパーティーをした。
しかし「学校に来て」とは二度と言わなかった。
結局、鈴が登校できるようになったのは、冬休みが終わってから少し経った、二月の初め頃だった。
獣人化を恐れていた鈴が理性をなくして事件を起こすなんて、そんなことはあり得ないと思った。
だが、過去の事件の統計や、世間の捉え方は違う。
理性をなくした獣人が事件を起こす理由として、まず情緒不安定や強いストレスが挙げられる。
鈴のように、獣人化に対して不安やトラウマを抱いている者ほど、精神的に不安定になりやすい。
逃避行動の一種として、理性の喪失を起こしやすいのだ。
それに鈴が獣人化を恐れていたことを周囲に話せば、情緒不安定で事件を起こす可能性が高いと、余計に疑いが向く。
事件の数日前。鈴は美しいチーターの姿で登校して、皆の前で「これで今年の体育祭は勝ち確ね」と笑っていた。
「チーターは反則だろ」と笑う男子生徒や、人間の頃よりもいっそう良くなったスタイルを褒める女子生徒と、いつも通りの軽い冗談交じりの会話を交わしていた。
そして、事件の前日。掃除の時間に階段の踊り場で二人きりになったときに、鈴はわざわざ聞こえるように独り言を呟いた。
「私、いなくなったほうがいいのかな」
寂しげな瞳が揺らぎ、葵の方をちらりと見る。返事を求めているのは明らかだった。
葵はとても鈴の不安を受け止めきれず「そんなことない」と返すのが精一杯だった。
それから少しだけ他愛のない話をして別れ、翌日に事件が起きて鈴が逃走した。
鈴の行方は未だに分かっていない。葵は鈴はやっていないと信じていたが、実際のところはそんな根拠はないし、生死さえも不明だ。
放課後に、強引にでもカフェやカラオケに誘っていたら。
もっと話を聞いてあげていたら、何か違ったかもしれない。
葵は今でも後悔していた。
時は現在に戻る。
玄野の殴り書きのメモやファイルに入った資料から言葉を拾い出し、パソコンで打ち込みながら、有用な情報はないかと葵は目を光らせる。
ほとんどの情報は専門用語や数字や記号の羅列となっており、到底、高校生の葵が理解できるものではない。
それでも、獣人化に関する情報があるなら、一つでも多く知りたかった。
そして、少しでも多くの資料をデータ化するために、キーボードを叩き続ける。
この研究所でアルバイトを始めた理由は、研究データが何かの手がかりになるかもしれないというのもあるが、私立探偵に鈴を探してもらう依頼をするための金が必要だからだ。
結果を出して、もしも昇給すれば、それだけ早く依頼ができる。手遅れになる前に鈴を見つけなければいけない。
視線は資料とパソコン画面を行ったり来たりしつつ、手はキーボードから離さずに、カタカタと打ち込み続ける。
「お茶が入りましたよ。そんな根詰め過ぎると疲れちゃいますよ、二人とも」
乾の優しげな声がして、葵は頭を上げる。
奥の部屋では玄野が、乾の声など聞こえていないかのように資料をじっと睨み、何やら書き込んでいる。
「博士、そろそろ休憩しましょうよぉ」
乾が再び呼びかける。その声には飼い主を慕って鳴く犬のような甘い響きが含まれており、葵は思わず頬をほころばせる。
可愛らしい大人の男だと思った。実年齢は四十近いのだろうが、人懐こそうな声と、仔犬のぬいぐるみのような風貌からはとてもそうは見えない。
しばらくして、ため息をつきながら玄野がやってくる。
背筋を伸ばして立ち上がった玄野は、相変わらずスタイルが良い。
背丈は乾よりも頭一つ分大きく、少なく見積もっても百八十五はあるだろう。
整った額の流星もさらさらのたてがみも美しく、まるで芸術家が作り出した理想の馬のようだ。
「博士、博士って。全くそうやって、僕の研究の邪魔ばかりする。駄犬が」
叱責された乾が、耳を伏せる。
しかし玄野は本当に怒っているわけではないらしく、乾に「Sit(お座り)」と命令してから、自分もお茶のテーブルに着いた。
テーブルにはブラックコーヒーが三つと、クッキーとシフォンケーキの入った皿が置かれている。
「牧野さんも、ブラックでしたよね」
「はい。私の分まで、ありがとうございます」
乾が「どういたしまして」と微笑む。
ふと時計を見ると、五時半を過ぎていた。高校で昼を食べてからは、何も食べていない。
お腹にたまるものが食べたくなり、クッキーよりはボリュームがありそうなシフォンケーキを手に取る。
「チョコバナナで良かったんだっけ」
玄野は厳しげな面持ちのまま言う。しかし葵に向けている目は優しく、声色には作り出したような不器用な親しみが込められていた。
「一番好きなんですよ。覚えていてくださったんですね。……ありがとうございます」
葵はシフォンケーキの封を開けて、手で半分に割って食べ始める。
砂糖が大量に使われているであろうシフォンケーキは、凄惨な事件のことも今だけは忘れられそうな甘い味がした。




