第九話 針の誓約
夜が溶ける前、王都の西門を抜けた。
まだ街は眠っている。
屋根に霜が降り、路地の水桶には薄氷。
人の声がない世界で、ただ風だけが話していた。
その風に混ざって、低い笛の音が聞こえた。
誰かが、こちらを導いている。
北境が赤い。
その報せを受けてから、二日。
私とアリアは馬を駆り、王都を離れた。
公爵領から再び火が上がったという。
だが今回は、凡庸同盟の再興ではない。
――〈針の誓約〉。
王都の官僚、貴族、軍の中枢に潜り込んだ影の組織。
均衡の理念を“監視の秩序”に変え、すべての揺らぎを罰するという。
その象徴として、彼らは胸に銀の針を刺していた。
夜明け。
山間の街道に、凍った血の跡が残っていた。
馬蹄の形。
おそらく王都から派遣された軍監査官のもの。
アリアが手帳を開く。
指先で血をなぞり、鼻先で匂いを確かめた。
「……乾いていません。まだ昨日のもの」
「追うぞ」
丘を越えた先、霧の底に、廃教会が見えた。
鐘楼が崩れ、蔦が凍りついている。
その入り口に――銀の針が一本、突き立っていた。
“均衡を誓う者の標”。
私は近づき、針を抜いた。
根元に、小さな文字が刻まれている。
――〈No.13 = CARNEL〉。
息が止まった。
“カーネル”。
アリアの姓だ。
「……説明してもらおうか」
私の声に、アリアはゆっくり顔を上げた。
その灰色の瞳は、もう監察官のそれではなかった。
彼女はゆっくりと外套を外す。
首元――白い肌の下、鎖骨のすぐ下に、同じ銀の針。
「私も、かつて〈針の誓約〉に属していました」
「どういうことだ」
「“均衡”という言葉が、初めて使われたとき。
それは政治ではなく、“監視”の意味だったのです。
動かぬための秩序。
王都は針を植え、心を固定しようとした」
彼女の指が、針の先を掴む。
光がその金属に反射して、彼女の顔を切り裂くように照らした。
「私は、そこから逃げたのです。
あなたに出会う前に」
「針を刺したままか」
「抜くと、死ぬ設計でした」
淡々とした声。
その中に、絶望よりも冷静な諦めがあった。
「じゃあ――お前は監視のために俺の傍にいたのか?」
「最初は、そうでした」
アリアは目を閉じた。
「けれど、あなたが“凡庸”を語ったあの日。
井戸の水を均したその声を聞いたとき、
私は初めて、“針が震える”のを感じた」
「……震え?」
「ええ。
止まっていたはずの針が、ほんの少し、動いたんです」
アリアは笑った。
哀しくも、どこか救われたような笑みだった。
「だから、私はあなたの“凡庸”を記録した。
監視ではなく、証明として」
私はその針に手を伸ばした。
冷たい金属の先が指に触れ、痛みが走る。
「抜くことはできるのか」
「方法は一つだけ。
“誓約の言葉”を、上書きする」
「つまり――新しい針の誓いを、作るということだな」
「はい」
教会の奥に進むと、壁一面に古い祈祷文が刻まれていた。
その中央に、朽ちた祭壇。
アリアは膝をつき、筆を取る。
震える手で、紙の上に静かに文字を記していった。
凡庸とは、止まらぬ針。
揺らぐために在り、揺らぎを赦す者。
我はその震えを信ず。
そして、彼女は銀の針を自らの胸から引き抜いた。
金属が肉を裂く音が、やけに鮮やかだった。
血が一滴、祈祷文の上に落ちる。
「アリア!」
「大丈夫です。……痛みは、生きている証ですから」
針の代わりに、彼女の胸元から淡い光が漏れ出した。
血の色と混ざり合い、薄く、白く。
それはまるで、長く凍っていた針が溶けるように――。
夜。
教会の外で、彼女は星を見上げていた。
首元にはもう針の跡しかない。
「針の誓約は、終わりましたね」
「いや。新しい針が始まった。
もう誰の胸にも刺さらない、見えない針だ」
アリアが頷く。
「……均衡を守るために、私は記録し続けます。
でも次は、命令ではなく、自分の意思で」
私は微笑んだ。
「それが“凡庸の誓い”だ」
翌朝、北境の雪は音もなく溶け始めていた。
赤く染まっていた大地が、ゆっくりと白に戻る。
アリアは手帳の余白に、最後の一行を記した。
――“凡庸の針、自由に揺れる”。
第九話・終




