第六話 監察官の誓い
夜の帳が下りると、辺境の空は静かに明滅した。
火を焚く音、水が滴る音、遠くの鐘の音――そのすべてが均されたように、穏やかな輪を描いていた。
けれど、均衡は脆い。
一度傾けば、どちらにも倒れる。
それを知っているのは、凡庸を生きてきた者だけだ。
翌朝。
公爵の執務室に、密使が訪れた。
王都の印章を押した封書。
宛先には、公爵の名ではなく――私の名が記されていた。
ルーク・無姓。
それは、皮肉にも「この国の誰でもない者」だからこそ届いた召喚状だった。
「王都議会、臨時召集――」
公爵が小声で読み上げる。
「議題は、“辺境再生計画の是非”か。……もう手が早い」
「つまり、“功績の奪取”ですね」
アリアが言う。
その声は氷のように冷静だったが、瞳は燃えていた。
「はい。彼らは『再生の奇跡』を数字で再現しようとする。
水の音を、報告書の一行に変える気だ」
私は深く息を吐いた。
「――行きましょう。止める必要があります」
公爵は一瞬だけ目を閉じ、頷いた。
「行くがいい。だが王都は、均衡を壊す場所だ。
君の“凡庸”を、試してくる」
翌日。
王都は光に覆われていた。
高い塔、金の屋根、舗装された道。
だが、その下には見えない溝が走っている。
力と欲の境目。
議会の扉を押すと、目の前に広がるのは長い円卓だった。
その中心に座すのは、王。
かつての父の隣にいた人――国の均衡を握る者。
王はゆっくりと私を見た。
「お前が、凡庸の息子か」
「はい。凡庸であることを、恥じたことはありません」
円卓の周りでざわめきが起こる。
王の表情は動かない。
その目の奥に、かつて父が持っていたものと同じ“秤の影”を見た。
「辺境を立て直した。水を呼び、民を救った。
だが、それは命令を受けずに行った“越権”でもある」
「越権――でしょう。
ですが、命令が届かない場所だからこそ、動くしかなかった」
王は静かに息を吐き、玉座の肘掛けを指で叩く。
「凡庸な者ほど、危うい。
誰の味方にもなれる者は、誰の敵にもなれる」
その瞬間、扉が開き、アリアが入ってきた。
監査官の制服。
だがその胸には、公爵の紋章が光っていた。
ざわめきが広がる。
アリアは一歩前へ出て、淡々と告げた。
「――証言いたします。
辺境の再生は、不正ではなく“制度”でした。
凡庸の才を活かした、“均衡の設計”です」
彼女は羊皮紙を開き、筆を走らせた。
――“水流による防衛”、
――“権力と民意の均衡”、
――“凡庸による調整”。
そして、その余白に一行を添える。
『監察官アリア・カーネル、証明において誓う。
我は凡庸の理念に与する。』
その言葉は、議場の空気を裂いた。
王の目が見開かれる。
周囲の貴族たちがざわつく。
それは、ただの発言ではなく――“宣誓”だった。
王は立ち上がった。
白い外套がひるがえり、床の影が伸びる。
「……カーネル公爵の娘か。
監察官が王命を越えて、理念を掲げるか」
「はい」
アリアの声は震えていなかった。
「制度は、王に仕えるためでなく、国を生かすためにあります。
それが、凡庸という秤の本質です」
王の口元がわずかに笑った。
「ならば見せてみろ。凡庸の均衡とやらを」
私は一歩前に出る。
井戸で見た光景を、言葉に置き換えるように。
「――凡庸とは、平均ではありません。
剣と筆、民と貴族、理想と現実。
そのすべてを同じ天秤に載せて、沈み過ぎた側に手を添えることです。
王が秤の片側にあるなら、我々は、もう一方の指になる」
沈黙が落ちた。
長い沈黙。
その後、王はゆっくりと頷いた。
「……均衡の戦。
面白い。続けてみよ」
議会が終わると、王都の空が群青に沈んでいた。
私は広場でアリアと並び立ち、塔の影を見上げた。
「これで一歩、前に出ましたね」
「一歩だけ。だが、その一歩が“均衡”を動かす」
アリアが微笑む。
その笑みは初めて見たときよりも柔らかく、そして強かった。
「ルーク。
あなたが教えてくれたことがあります。
凡庸とは、ただ平均を取ることではない。
誰かの痛みと誰かの幸福を、同じ重さで見る勇気のことだと」
私は彼女の言葉に返す言葉を見つけられず、ただ頷いた。
井戸の水音が耳に蘇る。
あの小さな“しゅわしゅわ”が、今は王都の鼓動のように聞こえる。
その夜。
公爵から密書が届いた。
短い文。
けれど、その一行に、次の均衡の戦が書かれていた。
「――北境、動く。
均衡を奪いに来る」
火の明かりが揺れる。
アリアがその文を読み、静かに筆を取った。
余白に、たった一行。
――“均衡の誓い、未だ終わらず”。




