第五話 均衡の戦端
井戸の水音が町の心臓になった。
朝ごとに響く、しゅわしゅわという呼吸。
その音を聞けば、誰もが一日を始められた。
水がある町は、生きている。
四日目の奇跡から三日。
笑い声が増え、屋根が葺き替えられ、広場の石畳が乾いた。
だが、その裏で、別の音も生まれていた。
――蹄の音。鉄と命令の音。
昼下がり、丘の向こうに軍旗が見えた。
王都の紋章。
あの監査官たちよりも濃く、重く、冷たい影。
鎧の隙間に刻まれた金色の線が、陽に鈍く光る。
町の入口で、兵が槍を構える。
その前に立ったのは、私ではなく公爵だった。
白髪を後ろで結び、長い外套の裾が風に揺れる。
いつものように、無駄のない笑いを口の端に乗せている。
「――陛下の勅命を携えた」
先頭の将が声を張った。
「辺境にて公爵殿下が独断の開発を行い、王都に報告を怠った件、
および追放された元伯爵家の次男が不当な影響力を得ている件、
これを是正するため、臨時徴発を命ずる!」
“是正”――それはつまり、“奪う”という意味だ。
私は背後で拳を握った。
水を出したのは我々だ。
井戸の音も、川の再生も、この町の子どもたちの笑いも。
それを、数字の報告書ひとつで奪いに来るというのか。
公爵が短く息を吐く。
「――王都の言葉は、いつも綺麗だな。
だが、ここは土が喋る」
その言葉に、兵の一部が僅かに動揺した。
私たちの後ろに、町の人々が集まり始めていた。
子ども、老人、女、皆が桶や鍬を手に。
戦える力ではない。けれど、声はある。
アリアが私の横に立った。
外套の下、記録のための羊皮紙を抱えている。
その筆は、もう“監視”のためではなく、“証言”のためにある。
「――ルーク。これから起こることを、記録します」
「記録ではなく、証明してくれ。
俺たちは奪われに来たんじゃない。
守るために、凡庸を使う」
彼女が頷き、余白を開いた。
午後、王都軍が前進を始める。
正式な“戦”ではない。
けれど、彼らの槍先は光を孕み、威圧の矢となってこちらを刺す。
私は公爵に言った。
「ここで正面からぶつかれば、町が壊れます」
「分かっている。――策はあるか?」
私は地面を指さした。
井戸の下、掘り残した古い水脈。
あれを、使う。
「水を流します。
道を変える。兵の足元を“均す”んです」
公爵の目が光った。
「凡庸の策、か。……いい、やってみろ」
私は数人の若者を呼び、井戸の底へ縄を降ろす。
樋を外し、側壁に溝を刻む。
公爵の軍技師たちが見守る中、私は簡単な指示を出す。
「北から水を流す。合図で板を抜け。三つ数えたら全員離れろ」
土の奥から、水の匂いが蘇る。
湿りが厚くなり、井戸が微かに震える。
私は手のひらで壁を撫で、タイミングを測った。
「――今だ!」
板が抜ける。
濁った水が、一気に通路を走る。
井戸から噴き出した水が、広場を越え、街道へ流れ出た。
兵たちの馬が驚いて嘶き、隊列が崩れる。
泥が足元を掴み、槍が地面に突き刺さる。
――均衡が、動いた。
アリアが報告書の余白に走り書きする。
――“水流による防衛”。
――“戦闘ではなく、調整”。
――“凡庸の定義、再構築中”。
私は彼女を見た。
「均すっていうのは、争いを避けることじゃない。
偏りを正すことだ。力と力の釣り合いを取り戻す。
――それが、俺の“戦い方”だ」
公爵が笑う。
「まるで政治家だな」
「いえ。凡庸です」
そのとき、王都の将が叫んだ。
「止まれ! 全軍、撤退! これ以上進めば泥に沈む!」
彼の背後で、監査官の白旗が翻る。
判断は速かった。
王都の軍勢は、次々と馬首を返し、泥を跳ね上げながら丘の向こうへ消えていく。
町に、風が戻った。
風の音が、拍手のように聞こえた。
夕暮れ。
私と公爵、そしてアリアが井戸の縁に立った。
水面に映る空は、赤と灰のあいだ。
血のような夕日を、静かに受け止めている。
「ルーク。……これは勝利ではない。均衡だ」
「はい。勝ち負けじゃない。
“輪”を守っただけです」
アリアが筆を止め、余白に一文を記した。
――“凡庸の戦、ここに始まる”。
公爵が、私の肩に手を置く。
「君の凡庸は、もう一国を支えられる。
だが、覚えておけ。均す者は、常に両側から挟まれる」
「わかっています」
「ならいい。……アリア、彼を頼む」
「はい、閣下」
アリアの声はいつになく静かだった。
その灰色の瞳が、井戸の水に映る星を見つめている。
彼女の筆先が震え、紙に最後の行を刻んだ。
――“明日、輪が広がる。
けれど、その外側には、影もまた広がる”。
夜、私は屋敷の灯の下で、父の手紙を読んだ。
封を切ると、古い香油の匂いが立ち上る。
筆跡は変わらない。
ただ、言葉が少しだけ短くなっていた。
「……凡庸という言葉を、わたしは間違えていた。
平均ではなく、均衡だ。
そして均衡を取る者こそ、真の強者だ」
手紙の末尾に、王都の印章が押されていた。
封の内側に、細い行。
「――公爵を救え」
私は静かに手紙を折り、灯を消した。
窓の外、井戸の水が月を映す。
均衡は、まだ揺れている。
戦は、始まったばかりだ。




