第三話 白い布の知らせ
朝いちばん、川上の柳に白い布は結ばれていた。
露を飲んで重くなった布が、風に遅れて揺れる。その結びは不器用で、ほどけないように余分に固く、しかし焦りの痕はない。
――帰路は、こちら側だ。
私は枝から布を外し、糸の撚り目を指でなぞった。
指先に、粉のようなざらつき。灰と、油の僅かな匂い。
昨夜、穀倉の蝶番に塗られていたものと同じ配合だ。
「読めますか?」
背にアリアの声。彼女は布を光にかざす。
目を細めた灰色の虹彩が、織りの隙間を追う。
「……織り目が、不規則に飛んでいる。意図している。
縦横の乱れが、文字の素のように見える」
「合図文か」
「はい。――“あす みず でる”。
稚拙ですが、急ごしらえの『書状』です。子どもの手でしょう」
私は、喉の奥で短く笑った。
あくまで告げ口ではない。彼は自分の身を守りながら、こちらの輪の幅へ“自分の端”を差し出してきた。
凡庸の計算は、こういう歩幅の一致を、静かに増やしていく。
「四日目、じゃないのか?」
「“あす”は、彼にとっての“明日”かもしれません。
――彼の『家』が、明日、何かを仕掛けるのです」
アリアは余白に短く線を引き、布の結び目を小さく切り取った。
記録のためだ。
私は頷き、布を胸元に収める。
「今日は井戸の“深さ”を決めに行こう。三本の穴のうち、北の一本はもう腕三本分。残りの二本は、土の匂いが軽い」
「北。――昨夜、あなたが少年の“耳”を採用した場所」
「ああ。彼の耳は良い。あの耳に、最初の音を聞かせたい」
アリアの睫毛が一度だけ、ゆっくりと降りた。
彼女が感情を隠すときの、いつもの速度だ。
午前、作業を割り振る。
流木の薪割り班、護岸班、雨水槽拡張班。
薬草の婆に弟子を三人つけ、怪我人と病人の名簿を作らせる。
名簿は“輪の数”だ。
誰が今、どの幅にいるかを、紙で見えるようにする。
北の穴へ降りると、湿り気が昨日より深い位置まで上がっていた。
土に手を入れると、爪の下で冷たさが強くなる。
私は樋を外して、穴の壁に耳を当てた。
土の奥に、細い糸のような音。
しゅわしゅわ。
少年が言った、水の音。
「あと半身分、掘る。樋の角度をすこし変えろ。
――土の崩れに備えて、縄をふた巻き、穴の縁に巡らせ」
男たちが動き、アリアの筆が走る。
私は縄の結び目を確かめ、穴の底に足を下ろした。
土の圧力がふくらはぎを抱く。
肩越しに見える空は狭く、しかし光はきれいだ。
手斧で硬い層を割る。
乾いた音が三度、湿った音が二度。
斧の歯が鈍くなりはじめたころ、地面が微かに呼吸した。
「止まれ」
私は上を見上げ、掌を上に向けた。
静止の合図。
土の下で、糸が一本、ほどける。
音の方角を耳で探る。
壁の奥、右下。
そこへ斧ではなく、手で、指で、土を崩す。
湿りの膜が、指先にまとわり、冷が骨を撫でる。
次の瞬間、わずかな、ほんとうにわずかな、水が、指の隙を抜けた。
――来た。
「桶!」
穴の縁から桶が降り、私は樋の口を開く。
指先の小さな水は、他の水を呼ぶ。
土が柔らかくなり、糸が二本、三本とほどける。
樋を伝う冷たい筋が、底の砂を走り、桶の縁を濡らした。
見張り台の少年が、はっと息を呑む音が聞こえた。
穴の上の空気が揺れる。
集まってきた人々の喉が、同じタイミングで鳴った。
「まだ、仮水だ」
私は声を低くした。
期待を“習慣”にしないために。
彼らの胸の鼓動を下げ、歩幅を整えるように。
「ここからが勝負だ。水は、出る前がいちばん逃げやすい。
壁を荒らすな。土の“筋”を残せ。
――アリア、記録」
「はい」
彼女は余白を開き、三行を書く。
――“仮水、三日目”。
――“少年の耳、証明”。
――“あなたの指が震えた(初めて)”。
最後の行を見て、私は目を瞬かせた。
穴の上で、アリアは視線を逸らさなかった。
灰色の虹彩に、はっきりとした温度が宿っている。
監視官の目が、記録だけでなく“見届け”を選ぶときの目だ。
「震えるさ。――凡庸でも」
「凡庸だから、でしょう」
彼女は言って、紙を閉じた。
私は笑い、樋の口を布で押さえ、流れを細く均す。
均すこと。
凡庸の仕事。
仮水の音が町を柔らかくした午後、私はリアナと公爵を連れて、南側の小さな広場に立った。
明日の“邪魔”は、必ず来る。
来ると分かっている邪魔は、半分は防げる。
「『見える見張り』をもう一組増やす。
子どもと女は灯を。男は影を。
火の位置は高くしない。目を潰す。
石の合図は二回まで。三回目は“来たのは刃”。そのときは走らず、しゃがめ」
笑いを混ぜない説明は、恐怖を育てる。
私はそこで、わざと一度、息を抜いた。
「……それと、今夜は粥を炊く。
薄い粥だが、全員、同じ味にする。
四日目に、甘いものをひと匙入れられるように、今日は薄い」
ざわめきが、笑いに変わる。
輪の幅が、半歩だけ広がった。
「甘いものは?」
誰かが聞いた。
私は、アリアのケースを指さした。
彼女は片眉を上げ、ケースの底から小瓶を取り出した。
黄色い蜂蜜が、光を抱いている。
「監視官は、甘さも監視します」
「余白は?」
「わたくしのものです」
彼女は蜂蜜を掲げ、子どもたちの前で一滴だけ、示すように垂らした。
歓声が上がる。
粥は薄くても、明日の甘さは濃い。
期待の置き方を、町が学びはじめている。
夕刻、私はもう一度、柳の根もとへ出た。
布の結び目を切り取った跡に、新しい足跡。
浅い、軽い、ためらいの癖のある踏み方。
彼だ。
傍らの石に、煤で線が一本、引かれていた。
人差し指の先で書いた、ぎこちない直線。
――“一本”。
合図だ。
“誰か来た”。
私は川面を渡る風の匂いを嗅いだ。
油の酸、馬の汗、硬い皮の軋み。
新しい紋章の一団が、町へ向かっている。
丘の向こうから、旗が現れた。
色は濃い青。縁取りは白。
公爵領のものに似ているが、違う。
中央の紋が、ひとつ星を多く持つ――王都の印。
馬車から降りたのは、若い役人だった。
言葉は丁寧で、動作は硬い。
彼の背後に、鎖で繋いだ木箱が見えた。
鎖は錆びていない。
――中身は、紙だ。
広がる音が、そう言っていた。
「王都より通達。――公爵領における非常監査を実施する。
領内に“無認可の市政改革”を進めている者がいるとの報。
該当者と、その協力者を、召喚する」
広場に、ざわめきがひとつ、大きく立った。
公爵は、前に出て、役人の手から通達を受け取る。
目を走らせ、口角だけで笑った。
「読むまでもない紙だ。言葉はきれいだが、意図が汚い」
役人がわずかに顔を強張らせる。
私は、木箱の鎖の“癖”を見ていた。
右側の輪だけが磨り減っている。
箱は、右から開けられる癖を持つ。
つまり、運ぶに値するほど“繰り返された命令書”だ。
「召喚は、明日、王都にて」
役人が言う。
“明日”。
柳の布。
――“あす みず でる”。
彼の“明日”は、監査の“明日”でもあったのだ。
「応じます」
公爵が答える前に、私は口を開いていた。
周囲の視線が一瞬、私に刺さる。
公爵は私を見、すぐに頷いた。
「応じよう。ただし、井戸の仮水を止めるわけにはいかない。
監査は、ここで受ける」
役人は目を瞬いた。
王都という単語が、ここで“場所”から“手続き”へ変換されたとき、人は簡単に足を止める。
足の止まった人に、次の一歩を渡すのが凡庸の仕事だ。
「仮水?」
役人が繰り返す。
リアナが前に出た。
「明日、井戸から水が出る。
領民は、あなたの紙より、喉の都合で動く」
役人は言葉をなくし、やがて妥協のため息をついた。
「……午前の監査は、ここで」
「午後は井戸だ」
私が言うと、アリアが余白に三行。
――“監査、午前”。
――“仮水、午後”。
――“明日、輪が試される”。
その夜、粥は薄かったが、湯気は濃かった。
火のそばに座った子どもが、蜂蜜を一滴もらって舌に乗せ、信じられない、という顔をした。
笑いが広がり、輪は広がる。
私は井戸の縁にもう一度手を置き、土の温度を測る。
冷たさは、昨日より“柔らかい”。
水の筋が、土の中で太りつつある。
夜半、見張りが石を二度落とした。
風が来た。
風は、何も持たず、何も置かずに行った。
私は息を吐き、空を見上げる。
雲は薄く、星が増えている。
――四日目。
“あす みず でる”。
凡庸の手は、湯を守る。
明日は、火を上げない。
火を消さない。
そのあいだに、水を、出す。
背で気配が止まり、アリアが静かに言う。
「あなたの“だいたい”に、賭けます」
「監視官が、賭け事を?」
「余白は、わたくしのものです」
彼女は紙を畳み、焚き火の光の中で、ほんのわずかに――ほんのわずかに、笑った。
私は頷き、井戸の闇に耳を傾ける。
しゅわしゅわ。
糸の音が、確かに太っていた。




