表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された凡庸息子、政敵公爵のもとで覚醒する ~没落領を再興したら、監視役の令嬢が先に惚れました~  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/9

第三話 白い布の知らせ

 朝いちばん、川上の柳に白い布は結ばれていた。

 露を飲んで重くなった布が、風に遅れて揺れる。その結びは不器用で、ほどけないように余分に固く、しかし焦りの痕はない。

 ――帰路は、こちら側だ。


 私は枝から布を外し、糸の撚り目を指でなぞった。

 指先に、粉のようなざらつき。灰と、油の僅かな匂い。

 昨夜、穀倉の蝶番に塗られていたものと同じ配合だ。


「読めますか?」


 背にアリアの声。彼女は布を光にかざす。

 目を細めた灰色の虹彩が、織りの隙間を追う。


「……織り目が、不規則に飛んでいる。意図している。

 縦横の乱れが、文字の素のように見える」


「合図文か」


「はい。――“あす みず でる”。

 稚拙ですが、急ごしらえの『書状』です。子どもの手でしょう」


 私は、喉の奥で短く笑った。

 あくまで告げ口ではない。彼は自分の身を守りながら、こちらの輪の幅へ“自分の端”を差し出してきた。

 凡庸の計算は、こういう歩幅の一致を、静かに増やしていく。


「四日目、じゃないのか?」


「“あす”は、彼にとっての“明日”かもしれません。

 ――彼の『家』が、明日、何かを仕掛けるのです」


 アリアは余白に短く線を引き、布の結び目を小さく切り取った。

 記録のためだ。

 私は頷き、布を胸元に収める。


「今日は井戸の“深さ”を決めに行こう。三本の穴のうち、北の一本はもう腕三本分。残りの二本は、土の匂いが軽い」


「北。――昨夜、あなたが少年の“耳”を採用した場所」


「ああ。彼の耳は良い。あの耳に、最初の音を聞かせたい」


 アリアの睫毛が一度だけ、ゆっくりと降りた。

 彼女が感情を隠すときの、いつもの速度だ。


 午前、作業を割り振る。

 流木の薪割り班、護岸班、雨水槽拡張班。

 薬草の婆に弟子を三人つけ、怪我人と病人の名簿を作らせる。

 名簿は“輪の数”だ。

 誰が今、どの幅にいるかを、紙で見えるようにする。


 北の穴へ降りると、湿り気が昨日より深い位置まで上がっていた。

 土に手を入れると、爪の下で冷たさが強くなる。

 私は樋を外して、穴の壁に耳を当てた。

 土の奥に、細い糸のような音。

 しゅわしゅわ。

 少年が言った、水の音。


「あと半身分、掘る。樋の角度をすこし変えろ。

 ――土の崩れに備えて、縄をふた巻き、穴の縁に巡らせ」


 男たちが動き、アリアの筆が走る。

 私は縄の結び目を確かめ、穴の底に足を下ろした。

 土の圧力がふくらはぎを抱く。

 肩越しに見える空は狭く、しかし光はきれいだ。


 手斧で硬い層を割る。

 乾いた音が三度、湿った音が二度。

 斧の歯が鈍くなりはじめたころ、地面が微かに呼吸した。


「止まれ」


 私は上を見上げ、掌を上に向けた。

 静止の合図。

 土の下で、糸が一本、ほどける。

 音の方角を耳で探る。

 壁の奥、右下。

 そこへ斧ではなく、手で、指で、土を崩す。


 湿りの膜が、指先にまとわり、冷が骨を撫でる。

 次の瞬間、わずかな、ほんとうにわずかな、水が、指の隙を抜けた。


 ――来た。


「桶!」


 穴の縁から桶が降り、私は樋の口を開く。

 指先の小さな水は、他の水を呼ぶ。

 土が柔らかくなり、糸が二本、三本とほどける。

 樋を伝う冷たい筋が、底の砂を走り、桶の縁を濡らした。


 見張り台の少年が、はっと息を呑む音が聞こえた。

 穴の上の空気が揺れる。

 集まってきた人々の喉が、同じタイミングで鳴った。


「まだ、仮水だ」


 私は声を低くした。

 期待を“習慣”にしないために。

 彼らの胸の鼓動を下げ、歩幅を整えるように。


「ここからが勝負だ。水は、出る前がいちばん逃げやすい。

 壁を荒らすな。土の“筋”を残せ。

 ――アリア、記録」


「はい」


 彼女は余白を開き、三行を書く。


 ――“仮水、三日目”。

 ――“少年の耳、証明”。

 ――“あなたの指が震えた(初めて)”。


 最後の行を見て、私は目を瞬かせた。

 穴の上で、アリアは視線を逸らさなかった。

 灰色の虹彩に、はっきりとした温度が宿っている。

 監視官の目が、記録だけでなく“見届け”を選ぶときの目だ。


「震えるさ。――凡庸でも」


「凡庸だから、でしょう」


 彼女は言って、紙を閉じた。

 私は笑い、樋の口を布で押さえ、流れを細く均す。

 均すこと。

 凡庸の仕事。


 仮水の音が町を柔らかくした午後、私はリアナと公爵を連れて、南側の小さな広場に立った。

 明日の“邪魔”は、必ず来る。

 来ると分かっている邪魔は、半分は防げる。


「『見える見張り』をもう一組増やす。

 子どもと女は灯を。男は影を。

 火の位置は高くしない。目を潰す。

 石の合図は二回まで。三回目は“来たのは刃”。そのときは走らず、しゃがめ」


 笑いを混ぜない説明は、恐怖を育てる。

 私はそこで、わざと一度、息を抜いた。


「……それと、今夜は粥を炊く。

 薄い粥だが、全員、同じ味にする。

 四日目に、甘いものをひと匙入れられるように、今日は薄い」


 ざわめきが、笑いに変わる。

 輪の幅が、半歩だけ広がった。


「甘いものは?」


 誰かが聞いた。

 私は、アリアのケースを指さした。

 彼女は片眉を上げ、ケースの底から小瓶を取り出した。

 黄色い蜂蜜が、光を抱いている。


「監視官は、甘さも監視します」


「余白は?」


「わたくしのものです」


 彼女は蜂蜜を掲げ、子どもたちの前で一滴だけ、示すように垂らした。

 歓声が上がる。

 粥は薄くても、明日の甘さは濃い。

 期待の置き方を、町が学びはじめている。


 夕刻、私はもう一度、柳の根もとへ出た。

 布の結び目を切り取った跡に、新しい足跡。

 浅い、軽い、ためらいの癖のある踏み方。

 彼だ。

 傍らの石に、煤で線が一本、引かれていた。

 人差し指の先で書いた、ぎこちない直線。

 ――“一本”。

 合図だ。

 “誰か来た”。


 私は川面を渡る風の匂いを嗅いだ。

 油の酸、馬の汗、硬い皮の軋み。

 新しい紋章の一団が、町へ向かっている。


 丘の向こうから、旗が現れた。

 色は濃い青。縁取りは白。

 公爵領のものに似ているが、違う。

 中央の紋が、ひとつ星を多く持つ――王都の印。


 馬車から降りたのは、若い役人だった。

 言葉は丁寧で、動作は硬い。

 彼の背後に、鎖で繋いだ木箱が見えた。

 鎖は錆びていない。

――中身は、紙だ。

 広がる音が、そう言っていた。


「王都より通達。――公爵領における非常監査を実施する。

 領内に“無認可の市政改革”を進めている者がいるとの報。

 該当者と、その協力者を、召喚する」


 広場に、ざわめきがひとつ、大きく立った。

 公爵は、前に出て、役人の手から通達を受け取る。

 目を走らせ、口角だけで笑った。


「読むまでもない紙だ。言葉はきれいだが、意図が汚い」


 役人がわずかに顔を強張らせる。

 私は、木箱の鎖の“癖”を見ていた。

 右側の輪だけが磨り減っている。

 箱は、右から開けられる癖を持つ。

 つまり、運ぶに値するほど“繰り返された命令書”だ。


「召喚は、明日、王都にて」


 役人が言う。

 “明日”。

 柳の布。

 ――“あす みず でる”。

 彼の“明日”は、監査の“明日”でもあったのだ。


「応じます」


 公爵が答える前に、私は口を開いていた。

 周囲の視線が一瞬、私に刺さる。

 公爵は私を見、すぐに頷いた。


「応じよう。ただし、井戸の仮水を止めるわけにはいかない。

 監査は、ここで受ける」


 役人は目を瞬いた。

 王都という単語が、ここで“場所”から“手続き”へ変換されたとき、人は簡単に足を止める。

 足の止まった人に、次の一歩を渡すのが凡庸の仕事だ。


「仮水?」


 役人が繰り返す。

 リアナが前に出た。


「明日、井戸から水が出る。

 領民は、あなたの紙より、喉の都合で動く」


 役人は言葉をなくし、やがて妥協のため息をついた。


「……午前の監査は、ここで」


「午後は井戸だ」


 私が言うと、アリアが余白に三行。


 ――“監査、午前”。

 ――“仮水、午後”。

 ――“明日、輪が試される”。


 その夜、粥は薄かったが、湯気は濃かった。

 火のそばに座った子どもが、蜂蜜を一滴もらって舌に乗せ、信じられない、という顔をした。

 笑いが広がり、輪は広がる。

 私は井戸の縁にもう一度手を置き、土の温度を測る。

 冷たさは、昨日より“柔らかい”。

 水の筋が、土の中で太りつつある。


 夜半、見張りが石を二度落とした。

 風が来た。

 風は、何も持たず、何も置かずに行った。

 私は息を吐き、空を見上げる。

 雲は薄く、星が増えている。


 ――四日目。

 “あす みず でる”。


 凡庸の手は、湯を守る。

 明日は、火を上げない。

 火を消さない。

 そのあいだに、水を、出す。


 背で気配が止まり、アリアが静かに言う。


「あなたの“だいたい”に、賭けます」


「監視官が、賭け事を?」


「余白は、わたくしのものです」


 彼女は紙を畳み、焚き火の光の中で、ほんのわずかに――ほんのわずかに、笑った。

 私は頷き、井戸の闇に耳を傾ける。


 しゅわしゅわ。

 糸の音が、確かに太っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ