第二話 川を戻す日
夜は、薄く雨を連れてきた。
雲が鳴らす低い鼓の音に紛れて、雨水槽の板を縄で締め、樋の角度を指で測る。
わずかな勾配で、雨は生き物のように流れはじめる。
初めの一滴が桶の底に落ちたとき、私は息をついた。
四日目の仮水まで、まだ遠い。けれど、町の耳に“水の音”を思い出させるには、十分だ。
明け方、火が白くなる頃に一度だけ眠り、短い夢を見た。
父の食卓。銀器の音。
――「凡庸だ」
目覚めると、寝床の藁が一筋、額に貼りついていた。
午前、川へ向かう。
公爵、アリア、そして男手十数名。
通りに出ると、昨夜の雨水槽の噂がもう広まっていたのか、家々の樋が空を向いている。
大人たちの顔はまだ硬いが、子どもは足を止めて水面を覗き込み、指で輪を作って遊んでいた。
「輪ができるのは、未来の癖です」
横に立ったアリアが、ぼそりと言った。
彼女の声は冷えているのに、言葉は温かった。
「どういう意味だ?」
「水がある場所では、人は集まって輪になる。
――あなたは輪の中心に立つ人ではない。輪の“幅”を測る人です」
私は苦笑した。
彼女の言葉は、時々、針の先に蜜を塗って刺す。
川は、門外の低地で曲がっていた。
曲がり角の外側に枯枝と流木がひっかかり、そこに古い堰の残骸が重なって、川の喉を詰まらせている。
水は痩せた喉で咳をするように泡立ち、緩やかに腐っていた。
「まず堰の梁を抜く。縄を回して、上流から引くな。下流側へ倒すと、流れが手伝う」
男たちが動き、縄が軋む。
濁った水が筋を変え、樹皮が鳴いた。
私も足場に乗り、梁の根元に手斧を入れる。
刃が木に沈む手応えが、骨を伝って腹に落ちる。
嫌いではない感覚だ。
均すことは、刈ることでもある。
「下がれ!」
公爵の声が飛び、次の瞬間、梁が音を立てて回転した。
下流側へ倒れ、溜まりの水がまとまって吐き出される。
くぐもっていた流れが、声帯を取り戻したみたいに吠えた。
誰かが歓声を上げた。
それはすぐ抑えられた。
期待は、扱いが難しい。
「よし。流木を割って薪にする班、護岸の崩れを埋める班、残りは堰の残骸を引き揚げろ。昼までに、ひとつ“形”を見せる」
私が号令を出す間、アリアの筆は止まらない。
余白に、また細い字が立った。
――“拍手の前に、仕事”。
しばらくして、私は、視界の端で小さな揺れを捉えた。
岸の茂み。
枝が、風とは違うタイミングで戻る。
昨夜の青年の声が、皮膚の裏でひそむ。
見張られている。
私は、あえて茂みに背を向け、護岸の崩れへ歩いた。
土嚢を積む男に、声をかける。
「土は湿り過ぎだ。乾いた土と混ぜろ。――そこ、半歩下がって」
男が半歩下がる。
次の瞬間、彼のいた位置の足場に、短い矢がふたつ、泥を跳ね上げて突き刺さった。
音は小さい。
子どもの投石ほどの軽さ。
けれど、刃先は新しい。
私は倒れたふりをして土嚢の影に身を沈め、反射で石を拾うと、矢の飛来角度へ投げた。
枝が、二度、違う戻り方をした。
小柄な影が飛び出し、斜面を駆け上がる。
「捕まえるな!」
私の叫びに、男たちが戸惑う。
追えば捕らえられたかもしれない。
だが、捕まえるより――逃がす方が、今はいい。
人は逃げると、帰る。
どこへ帰るかを、私は見たい。
輪の幅を測るために。
公爵がこちらへ歩いてくる。
私と土嚢、そして矢。
状況をひと目で読み、短く頷いた。
「狙いは、君か、私か?」
「どちらでもない。『ここに目がある』と知らせるための矢です。
狙いが本気なら、もっと浅い角度で、もっと近い足場を狙う」
「なるほど」
公爵の口元がわずかに笑った。
私の背中の汗が冷え、風がそこを撫でる。
緊張は、もう過ぎた。
仕事に戻る。
昼過ぎ。
堰の残骸が半分ほど引き揚げられると、流れの音が変わった。
腹に響く低い唸りから、胸に抜ける走りに。
水は、喉につかえた言葉を吐き終えたのだ。
「見ろ!」
少年たちが欄干にぶら下がって叫ぶ。
川面に、陽が細い刃を撒いて踊る。
女たちの声が少し高くなり、男たちの肩が半分だけ軽くなる。
リアナが息を飲み、手の甲で目尻を押さえた。
「まだ途中だ」
私は笑い、土の感触を確かめる。
水は戻りつつある。
――四日目の仮水は、もっと静かにやって来る。
静かな音で、町の内側を変える。
アリアが、私に紙を差し出した。
余白に、三つの短い線。
――“矢:警告。追跡せず。輪の帰路を待つ”。
――“水音:胸へ”。
――“あなたの声が、少し変わった”。
最後の行は、彼女らしくなかった。
目を上げると、アリアは顔を逸らした。
彼女の睫毛の影が、川面の光を切る。
「……監視官が、主観的な記述をするのか?」
「余白は、わたくしのものです」
それだけ言って、彼女は背を向ける。
肩に提げたケースの紐がすこし食い込み、黒髪が揺れた。
私は、その揺れの長さを、輪の幅に換算しそうになって、苦笑いで打ち消す。
午後遅く、作業を終えて戻る道すがら、茂みの先に昨夜の青年の影を見た。
こちらが追わないことに驚いたのだろう。
彼は決めかねる顔をして、結局、遠くからこちらを一度だけ見て、丘の裏へ消えた。
“帰路”は、やはり家の方角だった。
私の古い家。
父の政敵である公爵の領を、凡庸息子が立て直している――
それは、彼らにとって、消したはずの火が別の場所で燃えはじめた、という報せだ。
夕刻、町の広場で簡単な打ち合わせをした。
四日目の仮水に向けて、明日は井戸の試掘を継続。
同時に、雨水槽を各家の庭先へひとつずつ増やす。
日が暮れる前に、ふと、小さな騒ぎの気配が走った。
「リアナ!」
誰かが叫ぶ。
人混みが割れて、女が駆けてくる。
顔は蒼白で、肩で息をしている。
「穀倉が……!」
言葉は、それで十分だった。
私は公爵と目を合わせ、駆け出した。
穀倉は、町の北側。
井戸の近く。
つまり――町の胃袋と喉の並びだ。
角を三つ、土埃を蹴りつけ、穀倉が見える位置に出る。
火は、まだ上がっていない。
だが、扉に油が塗られ、開閉部に藁が詰められているのが、目に入った。
「火を点ける前だ! 藁を抜け!」
男たちが一斉に動く。
私は扉の蝶番に水をかけるよう叫び、近くの桶から雨水を掬って走った。
樋の先でたまったわずかな水が、すでに役に立つ。
藁が引き抜かれ、油に水がかかり、扉がきしみながら開いた。
中は暗い。
鼻腔に、穀物の甘い匂いと、誰かの汗の酸が混ざる。
「誰か、入っていたか?」
リアナが首を横に振る。
私は扉の外側に残る足跡の向きと深さを見た。
小さい。
昨夜の青年と同じ足の幅だ。
しかし、踏み方が違う。
あの青年は“消えたい者”の足。
これは、“見せたい者”の足。
「火をつける気はなかった。つけられることを『見せたい』だけだ。
町に“燃える未来”の幻を置いていった。――揺さぶりだ」
公爵が小さく唸った。
アリアが、余白に短い線を走らせる。
私は、息を整えた。
「今夜は、穀倉と井戸に交代で人を置く。
見張りは二人一組。『見える見張り』と『見えない見張り』。
見える方は火を持ち、見えない方は合図用の石を持つ。
合図は二回。――一回目は“誰か来た”。二回目は“来たのは風”。
風も、合図していい」
リアナが笑った。
緊張が、少し、ほどける。
公爵が、私の肩を軽く叩いた。
「輪の幅を、今日だけでよく測ったな」
「水の音が、輪を呼びます」
「今夜は輪を守れ。――明日は、井戸だ」
「はい」
夜。
私は、見えない見張りとして井戸の陰に立った。
見える見張りは、リアナの甥の若者。
私は石を二つ、掌で転がし、耳に流れる音をひとつひとつ聞いた。
風の音、穀倉の乾いた木の音、遠くの犬の吠える声、寝床へ帰る人の足音――
それらの平均の上に、違和の針がふと立つのを、待つ。
深夜。
違和が、来た。
風でも、犬でもない。
靴の底が砂利を噛む音。
軽すぎる。
私は石を指から離し、地面に二度落とした。
若者が火を掲げ、わざと足音を立てる。
音は止まり、しばし、夜の皮膚だけが息をした。
その“間”の形で、私はわかった。
昨夜の青年だ。
彼は、見られたことを知り、こちらの合図の意味を、もう学んでいる。
「出てこなくていい」
私は闇に向かって言った。
声は低く、火の芯に届くように。
「明日、川の上手の柳に、白い布を結べ。
帰り道で見よう。
――帰る場所が、君を殺さないうちに」
沈黙。
それから、ささやき声。
「……四日目に、本当に水は出ますか」
「出す。
出さなければ、五日目に、出す」
気配が薄れ、闇が本来の厚みに戻る。
私は息を吐き、石を拾った。
手のひらの温度が、石に移る。
背後で、別の気配が揺れた。
アリアだった。
いつからそこにいたのか、私の斜め後ろに立ち、紙を折りたたんでいる。
「見張りの記録?」
「いいえ。――私信です」
差し出された紙の余白に、また三行。
――“火は消えなかった”。
――“あなたは、輪の幅を測る手”。
――“四日目まで、わたくしも、火を守る”。
私は紙を受け取り、懐にしまった。
彼女の顔は、相変わらず感情を見せない。
ただ、息が白い。
「ありがとう、アリア」
「職務です」
「職務にしては、余白が多い」
「余白は、わたくしのものです」
同じやり取りを、二度目に交わして、ふたりして僅かに笑った。
笑いは夜に吸われ、井戸の口がその音を受け入れた。
明け方。
空が薄く白み、最初の鳥の声が布の向こうから滲んでくる。
私は井戸の縁に手を置いた。
土の湿りは、昨日より冷たく、指にまとわりつく。
遠くで、川が新しい声で鳴いた。
四日目まで、あと二日。
“凡庸の手”で、湯を守る。
火を上げない。
火を消さない。
そのあいだに、輪の幅を、もう少しだけ広げる。
東の空に、薄い金が差した。
私は立ち上がり、朝の荷車の音を待った。
今日も、町が動き始める。
そして、多分――柳には、白い布が結ばれる。
帰路の印だ。
輪の、帰ってくる道だ。




