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追放された凡庸息子、政敵公爵のもとで覚醒する ~没落領を再興したら、監視役の令嬢が先に惚れました~  作者: 妙原奇天


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第一話 凡庸の烙印を押された日

 断罪は、晩餐の最中に告げられた。

 銀の食器が触れ合う乾いた音のあと、父は葡萄酒の杯を半分だけ傾け、いつも通りの穏やかな声音で言った。


「――ルーク。お前は、凡庸だ」


 食卓にいた者たちは、誰ひとり驚かなかった。

 兄は皮肉げに口角を上げ、母は祈るように指を組む。

 側仕えの老執事は目を伏せ、壁際の従者たちは空気の一部になる。


 私だけが、胸の奥で小さく息を呑んだ。


 凡庸。

 この家に生まれた者にとって、それは「無能」より重い。

 剣の才でも、魔術の才でも、政務の才でも――突出するものが何ひとつないこと。

 平均の線を器用に歩くが、決して線を越えないこと。


「明日の日の出をもって、家を出よ。領の名を捨て、姓を名乗ることは許さぬ。路銀は、母の情けで三日分だ」


 父はそれだけ告げると、杯を戻した。

 会話は、なかったことのように再開される。上等な肉には香草が振られ、ソースの艶は完璧だ。

 けれど舌は何ひとつ味を拾わず、私はただ、皿の縁に映る自分の顔がやけに大人びて見えることに戸惑っていた。


 兄が、聞こえるように小さく笑った。


「よかったな、ルーク。やっと自分に見合った場所に行ける」


 母は、最後まで何も言わなかった。

 ただ、私の皿にナイフをそっと寄せた。

 切り分ける必要のない料理だったのに。


 夜が更ける。

 書斎に呼び出されると、老執事のゲイルが、きちんと畳まれた衣服と鞄を机に置いた。


「坊ちゃま」


 ゲイルは私を「坊ちゃま」と呼ぶ癖を、今夜だけは直そうとしなかった。


「路銀は三日分、冬用の外套、替えの靴。手紙を一通だけ忍ばせました。封はしておりません。ご覧になりますか?」


 私は首を振った。

 見れば、揺らぐ。


「……ありがとう、ゲイル」


「いいえ。これが、わたくしに許された最後の仕事でございます」


「最後?」


「明日、坊――ルーク様がお屋敷を出られましたら、わたくしは辞めます。凡庸を見抜けない家にお仕えする己の凡庸さを、どう処理すべきか、もう少し外の空気を吸って考えてみとうございます」


 彼はそう言って片目を瞑る。冗談めかしていたが、目の底は本気だった。

 胸の奥で、何かが微かに鳴った。


「ゲイル。凡庸って、そんなにいけないか?」


「いけなくはありません。ですが、ここでは『抜きんでること』が美徳なのです。

 ――ルーク様。凡庸とは、均すこと、調えること、合わせること。

 誰かの自慢話の影で、湯加減を調整している手のことです。

 ここでは湯の温度を上げる者だけが褒められる。湯を守る者は、湯そのものになって消える」


 湯気の向こうに、父の横顔が浮かんだ。

 私は、うなずけなかった。うなずきたくなかった。


「行く先は、決めましたか?」


「……辺境の市に、働き手の募集が多いと聞いた。道具運びでも、書字でも、なんでもする」


路目みちめに気をつけて。南門を出て二つ目の石標で東へ折れる道を使いなさい。検問が緩い」


「検問?」


「本家は、あなたを『出した』のではない。『消したい』のです」


 ゲイルは淡々と言い、私の手に革手袋を握らせた。


「それと。――泣くなら、歩きながらにしなさい。止まると、冷えます」


 夜明け前、私は屋敷を出た。

 門は静かに開き、静かに閉じる。

 吐いた息が白い。空気は薄く、世界はやけに広い。


 三日分の路銀は、思っていたより軽かった。

 軽いのは懐で、重いのは、背だ。

 背には、姓のない自分と、家に置いてきた名が貼りついていた。


 東へ折れる。ゲイルの言葉通り、検問は緩い。

 いや――見送りに出ていたのだろう。

 城壁の影に、誰かの気配がした。

 私は振り向かなかった。


 日が昇るころ、街道はひらけ、行商の荷車に追い越された。

 彼らは、私のような若者を見ると、値踏みするような目を向ける。

 働き手に欲しいのは腕力と忍耐。凡庸さではない。


 ひとつ、ふたつと街道の里程標を通り過ぎ、足裏の痛みが麻痺に変わりかけたころ、前方から騎馬の一団が近づいた。

 紺地に銀の縁取りの外套。見知らぬ紋章。

 行き交う荷車が道を譲る。誰の行列だろう。


 先頭の騎士が手綱を引いた。

 私の前で、馬の鼻息が白い輪を描く。


「名は?」


 低い声。私よりいくつか年上の男だ。

 私は答えた。


「ルーク。姓は……ありません」


 騎士は一瞬だけ眉を動かした。

 そして、振り返ることなく背後に声を飛ばす。


「閣下。名乗りました」


 馬車の扉が、内から二度、軽く叩かれた。

 絹の擦れる音。磨かれた革靴。

 出てきたのは、壮年の男だった。


 鋭い目をした、しかし笑うと頬に皺の寄る、奇妙に親しみのある顔。

 彼の外套の胸に縫い取られた紋章を、私は書物で見たことがある。


 ――カーネル公爵家。

 父の、政敵。


「ルーク、か」


 男は私の名を、確かめるように繰り返した。

 それから、荷車のながえに軽く手を置き、周囲の空気に目を走らせる。

 風向き、道の傾斜、荷車の車輪の傷――目に触れたものの情報を、瞬くうちに自分の中で秤にかけている。

 そういう人だ、と直感した。


「君は、どこへ行くつもりだった?」


「辺境の市へ。働き口を探します」


「君は、何ができる?」


 私は、嘘をつかなかった。


「何も、できません。――ただ、だいたいのことを、だいたいに」


 公爵は、声を立てずに笑った。

 その笑いは、嘲りではなく、面白がるでもなく、答えがぴたりと嵌る音を楽しむ職人の笑いに似ていた。


「よろしい」


 彼は扉の陰に視線をやった。

 暗がりから、小柄な影が降りる。

 淡い灰色の瞳、黒髪を後頭部で束ね、筆記用具を収めたケースを肩に提げた若い女。

 私より、二つ、三つ年下に見える。


「彼女はアリア。私の娘で、監察官だ。――正確には、『監視役』が任務だが、監察と書く方が耳に優しかろう?」


 女は、礼をした。

 乱れのない角度。ぴたりと止まる指先。

 彼女の気配は、洗練と冷たさを合わせた刃に似ていた。


「アリア。彼を記録に」


「はい、閣下」


 彼女は私に視線を向けた。

 何か、書き留めるように、ゆっくりと。


「姓は、なし。年齢二十。身長一七八。栄養状態は並。歩行と姿勢から、骨格に無理はなく、剣の初等訓練は受けているが、槍は苦手。――字は、書けますか?」


「はい」


「数字は?」


「……嫌いではない」


「よろしい」


 彼女は、淡々と私を紙に固定していく。

 そこに情はない。

 あるのは、任務の精密さだけだった。


「ルーク」


 公爵がもう一度、私の名を呼ぶ。

 冬の空の光は冷たいが、声は暖かかった。


「凡庸、と言われて出されたのだろう?」


 私はうなずいた。


「凡庸とは、全てを平均値に落としこめる力だ。

 剣と文字、土木と税と人心――異なる桁の数字を同じ表に並べて、最終的に街の体温を上げる『総合』の才。

 抜きん出た者は、たいてい自分の桁を大切にする。別の桁を見ない。

 ――君のような者が、私には必要だ」


 心臓が、強く打った。

 鼓動の反響が冷たい空気で研がれ、耳の内側で澄んだ音を立てる。


「私の領へ来い。没落した辺境だ。資源も人も希望もない。

 だが、君の『だいたい』が、あそこには効く」


 私は、じっと公爵の目を見た。

 彼は私の視線から逃げない。

 遠い山なみまで届くような真っ直ぐさで見つめ返してくる。


「……監視役が、必要ですか?」


 口に出してから、自分でも滑稽だと思った。

 監視なしに誘うほど、甘い話ではない。


「必要だとも。アリアは私の目だ。君を見張り、記録し、必要なら切る。

 それでも来るか?」


 息を吸う。

 吐く。


 家を出るとき、私はひとつのものだけを置いてきた。

 ――迷いだ。

 もう、迷いを温めておく家はない。


「お世話になります、閣下」


 そう言うと、公爵は満足げに頷いた。


「乗りなさい。アリア、席を譲ってやりなさい」


「わたくしは御側乗りで結構です」


 彼女は肩のケースを持ち直し、馬車の外側の小さな踏み板に立った。

 冷気がコートの裾を鳴らし、彼女の横顔に冬の光が落ちる。

 至近で見ると、睫毛が驚くほど長い。

 感情は、見えない。


 馬車が動き出す。

 車輪が凍てた土を踏み、規則正しい振動が背骨に伝わる。

 私は、座面の布の手触りを指先で確かめ、深く息を吸い込んだ。

 何度も嗅いだはずの革と木の匂いが、今日は違って聞こえる。

 家の匂いではなく、移動の匂いだ。


 昼ごろ、小さな驛で休息を取った。

 公爵は供を連れて別室に入り、私は外の水桶で顔を洗い、パンをかじる。

 アリアは距離を保って立ち、往来を観察し、時折短いメモを取っている。


「……監視、というより、観察だね」


 思わず口をついた言葉に、アリアの瞳がちらりとこちらを向いた。

 灰色の虹彩に、空の色が薄く映る。


「違います。監視です」


「厳しい」


「職務です。――あなたは、本当に凡庸ですか?」


「さあ」


 パンの屑を払う。

 彼女は一拍置いてから、淡々と続けた。


「凡庸な者は、他人の歩幅を測るのが早い。

 あなたはさっき、御者台の揺れに合わせて体重移動を覚えました。乗り物酔いへの適応が早い。

 目線の配り方も、動線と出入り口を優先する。護身術の本を読んだことが?」


「少しだけ」


「なら、読書量は平均より上。

 ――凡庸、というのは、便利な言葉です。

 人が見たいものを隠してしまう」


 彼女の声は、冷たいのに、どこか親切だった。

 私は笑ってしまいそうになるのをこらえ、小さくうなずいた。


「君の記録の紙は、どれくらい分厚い?」


「厚みは関係ありません。書くべきことは、いつも余白に残ります」


 彼女はそう言って、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

 笑ったのかもしれない。

 あるいは、冬の光がそう見せただけかもしれない。


 午後、馬車の窓から見える景色が変わった。

 麦畑の端が崩れ、土手は崩落し、川は浅く濁っている。

 風が一層冷たく、乾いて、頬を刺す。


「閣下の領は、この先?」


 御者に尋ねると、彼は顎で遠くを指した。

 低い丘の重なりに、黒い点のような屋根が見える。


 近づくにつれて、荒廃のディテールが鮮明になる。

 潰れた粉挽き、折れた柵、枯れた井戸。

 井戸の周りには桶が倒れたまま乾き、風に転がっていた。


 私は、窓枠に手をかけた。

 空気を、測る。

 鼻腔に入る匂いを区切って、並べる。

 土の匂い、水の匂い、腐葉の匂い、煙の匂い、人の匂い――

 それらが見せる“表”。

 初めの一枚目。


 公爵が窓の向こうを見据え、短く言った。


「見ての通りだ。

 この三年で人口は三割減、税収は半分、井戸は二つ枯れ、市場は週一から月一へ。

 職人は出て行き、残ったのは、諦めることに慣れた者たち」


 言葉は残酷だが、声は残酷ではない。

 状況を隠さず、正確に出す――その癖は、彼の誠実さだと感じた。


「ルーク。君が最初にすることは、何だ?」


 私は、答えを急がなかった。

 見えるものだけで判断するのは、抜きん出た者のやり方だ。

 凡庸の利は、見えるものの“平均”をとることにある。

 十を見、十のうちの八を採り、二を保留する。

 保留した二が、あとで八を救うことがある。


「……井戸の試し掘りを、二手に分けてやる。ひとつは古い井戸の北側で、もうひとつは、川筋から風下に三十歩離れた窪地。

 同時に、水運の障害を見て回る班を作る。流木の溜まりがどこかにあるはず。

 それから、廃屋のといを集めて雨水槽を作る。

 市場は月一から、間の日曜に『物々交換の日』を挟む。

 貨幣が回らないなら、まず物を動かす。

 ――人の足は、物が動けば動く」


 アリアの筆が、速くなる。

 公爵は、目を細めた。


「人手は?」


「子どもと老人を使える仕事に振ります。

 井戸の試掘は若い者。流木の除去は、怪我人に無理をさせない。

 怪我や病人を、発見したら名簿を作る。

 医術は?」


「町医者は出て行った。薬草採りの婆がひとり」


「なら、婆に弟子を付けます。

 ――最初の三日は、何も“成果”を見せません。

 でも、四日目に井戸の仮水が出るように組む。

 出なければ、別の穴を、同じ日に」


「なぜ四日目だ?」


「三日目までは『様子見』で人が集まる。四日目で成果がなければ、期待は失望に変わる。

 失望を“習慣”にしないために、四日目が必要です」


 アリアが、初めて私をじかに見た。

 灰色の瞳が、わずかに光る。


「――凡庸、とは」


 彼女は、呟きのように言いかけ、言葉を切った。

 代わりに羊皮紙の余白に、細い字で何かを書き入れる。

 私は見えないふりをした。


 城門というには低く、柵というには高い木戸をくぐると、ひとりの女が駆け寄ってきた。

 頬はこけているが眼は強い。

 公爵に気づくなり、膝をついた。


「閣下。戻ってくださったのですね」


「ただいま、リアナ」


 公爵は、女の肩に手を置き、立たせた。

 城下の長を務める女だと、あとで聞いた。


「今日は、井戸の北側に小さな水脈の音がしたと、子どもが言っておりますが」


「よく聞いている」


 公爵は頷き、私を見る。


「ルーク。君の最初の仕事ができたようだ」


 私は荷車から降り、リアナに頭を下げた。


「ルークです。今日から、お世話になります。

 ――水の音を聞いた子を、今、呼べますか?」


「呼べますとも」


 リアナが手を叩く。

 間もなく、泥だらけの靴で小さな少年が走ってきた。

 膝をつき、視線の高さを合わせる。


「どこで、どんな音がした?」


 少年は、頬を紅潮させて、両手を耳に当てた。


「こう。こういう音。地面の下で、しゅわしゅわって。

 あの枯れた木の、三つ目の枝の影の下」


 私は立ち上がり、枯れ木の影を測った。

 太陽の角度、枝の向き、地形の凹み。

 土を掬い、鼻に近づける。

 乾いている。

 けれど――乾いた土に、薄い冷たさがある。


「ここを、掘ろう」


 言葉にすると、周囲の空気が少しだけ動いた。

 人が集まる前に、道具を取りに走る者が出る。

 期待は扱いが難しい。

 だが今は、動かす時だ。


「アリア。記録を。

 今日、第一の試掘開始。

 子どもの観察を採用」


「はい」


 彼女は私の指示に従い、何も余計なことは言わない。

 ただ、余白にまた細い字を足した。

 ――“四日目の仮水、仮説採用”。


 私は、笑ってしまいそうになった。

 監視の記録は、きっとあとで読むと面白いだろう。


 夕刻、最初の穴は、まだ土の匂いしか返さなかった。

 体温が奪われ、指先の感覚が鈍くなる。

 穴の縁に座り、泥で汚れた手を膝に置く。


 公爵が、静かに近づいてきた。


「どう見る?」


「悪くありません。土が、息をしている。

 深さをあと腕二本分。

 今夜のうちに、樋を組んで雨を受ける準備をします。

 流木の調査班は?」


「戻った。川の曲がり角に、古い堰がひっかかっていた。明日、男手を集めて外す」


「よし」


 私は立ち上がる。

 体は疲れているのに、どこか軽かった。

 頭の中の表に、数字が並ぶ。

 穴の深さ、土の湿り、子どもの耳、老人の足、女の手――

 それらが、ひとつの平均に落ちていく感覚。

 均されて、調えられ、合わせられていく。


 ――凡庸。


 父が与えた烙印の言葉が、少しだけ形を変える。


 そのとき、アリアがこちらへ歩いてきた。

 冬の光が、彼女の黒髪に薄い銀を散らす。

 彼女は何も言わず、羊皮紙を一枚、私に差し出した。


 報告書ではない。

 “報告書の余白”だ。

 余白に、三行、細い字。


 ――凡庸は、誰も見ない角度で、全員を見る。

 ――四日目に水。わたくしは、信じない。

 ――けれど、明日も、あなたのそばに立つ。


 顔を上げると、アリアはすでに背を向けていた。

 彼女の肩越しに、沈む太陽が柵に赤を置く。

 冷たい風が、頬を撫でた。


 私は紙を折り、懐にしまった。


 明日、川が動き、土が喉を潤しはじめる。

 四日目の仮水は、まだ遠い。

 けれど、私は知っている。

 凡庸な手は、湯を守る手だ。

 湯加減を調える手だ。

 焦って火を上げることはしない。

 火を、消さない。


 ――初日の終わりに、そう思えたこと。

 それだけで、十分だった。


 夜、作業に使った樋の影で、誰かが咳をしていた。

 振り向くと、痩せた青年が背を丸めている。

 彼は私に気づき、咄嗟に顔をそむけた。

 袖口から覗いた手首に、見覚えのある紋章が刺繍されている。


 我が家の、古い紋。


 青年は、気づかれたと悟ると、口元に指を当てた。

 静かに――という合図。

 彼は囁く。


「……見張られている。あなたも、公爵も。

 明日、川へ行くとき、後ろを、よく見てください」


 言い終えるや、彼は闇に溶けるように去った。

 残された空気が、わずかにきな臭い。


 私は、樋に手を当てた。

 木は冷たい。

 けれど、内側に、微かな水音が通っている。

 遠くの、見えない水脈の音。

 少年が言っていた、しゅわしゅわという音に、よく似ていた。


 ――四日目に、仮水。

 その前に、いくつかの“邪魔”が入る。


 凡庸の利は、急がないことだ。

 しかし、準備は、急がなくてはならない。


 私は空を見上げる。

 星は少ない。

 雲が厚い。

 明日は、降る。

 ならば――雨水槽を、今夜のうちに。


 歩き出す私の背中に、誰かの視線が触れた気がした。

 振り向かない。

 振り向かない代わりに、足音の数を数える。

 一、二、三。

 ――三。

 この町で、余白に書くべき数字が、ひとつ増えた。


 夜番の火のそばで、公爵が座っていた。

 私を見ると、無言で隣を示す。

 腰を下ろすと、彼は焚き木を一本、火にくべた。


「ルーク。明日は川だ。

 流れを戻す。

 君の『四日目』のために」


「はい」


「――それと。さっき、妙な匂いがした。

 古い家の匂いだ。

 君の家の」


 私は、火の色を見つめた。

 橙の舌が木を舐め、黒い煤が浮かぶ。


「見張りがいるでしょう」


「いるだろうな」


 公爵は、微笑した。

 火の前では、誰の顔もやわらかく見える。

 けれど、そのやわらかさの奥に、鋼の線が一本通っているのを、私は見た。


「君の『だいたい』に、私は賭ける。

 明日も、明後日も」


 火の音が、ぱち、と弾けた。

 私はうなずき、立ち上がる。


「雨水槽を、今夜のうちに組みます」


「人手がいるか?」


「いりません。――凡庸は、ひとりでも動かせる仕事を、先に選ぶ術ですから」


 公爵は、短く笑った。


「頼もしい凡庸だ」


 私は、闇の中へ踏み出す。

 冷気が背を叩く。

 手には、明日のための樋と縄。

 耳には、見えない水の音。


 そして、背後には――

 灰色の瞳の監視官の、静かな視線。


 これが、私の一日目の終わり。

 凡庸の烙印を押された日。

 それは、火の温度で言えば――ぬるい。

 けれど、ぬるい湯こそ、長く人を癒やす。


 四日目まで、あと三夜。

 私は、凡庸に、火を守る。

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