なんらかの慕わしい権化
あなたが俺を見なくなり、手に触れなくなってとても寂しかった。
と、彼は仰いました。
その声は、いつも朗々と語る彼らしくなく、小さく掠れていらっしゃいました。
逞しい身体を屈め、少し項垂れて仰るご様子に、わたしは胸が痛みました。けれど何故か同時に嬉しくもあり、罪深い事に心地よい胸の痛みなのでした。
自分の拒絶が、この人をこんな風にさせてしまうなんて。
宮殿中を、雄々しい大輪の花のごとく魅了してみせるこの人を。
身体のどこか奥底が、甘くゾクリと震えます。
わたしは欲が出ました。
決して嫌ってそうしたのではないと、どうしても伝えたくなってしまったのです。
「わ、わたしは、あなた様に触れるには相応しくないのです。ですから……」
「それは俺が決めます」
彼はそう言って、わたしの手を取りました。
「それよりも、俺はあなたに相応しいですか」
その問いに、わたしは心が凍りそうになりました。
どうして、わたしからの相応しさなど求めるのでしょう。
わたしに相応しいものは、サンパギータへ投げられる暴言のおこぼれと、蔑みの視線と、暴力と、汚れた裸足の足と割れた爪、そして残飯と、水の底に沈んだ絨毯……。
そんなものとあなたを並べろと言うの?
そんなこと、とても出来やしません。
彼への侮辱を想像するだけで目から涙が零れだし、止まらなくなります。
恋慕の情では収まらない気持ちに、わたしは怖くなりました。
「……恐れ多いです。もうお許しください。あなたは、もうすぐ発ってしまわれるではないですか」
「そうです。ラタ、泣かないで……あの宝石を手に入れたら、あなたも連れて行きたいと思っているんです」
バルコニーを支える柱が崩れてしまったのだと思いました。
そのくらい床がぐらついた様に感じたのです。
「……え?」
「あなたも連れて行きたい。だから、ラタのしっかりした気持ちが知りたいのです。身体だけ攫っても意味はないので」
「……」
「俺と一緒に来てくれますか?」
「駄目です……サンパギータが……」
わたしがいなくなったらサンパギータのお世話は誰が?
そう考えるだけで、彼に誘われた喜びがドロドロと溶けていきました。
彼は少し困った様に微笑みました。
「サンパギータ様は大丈夫です。彼女はあの通り、語りの女神なのだから」
「た、確かに語りをしている時はそう見えるかもしれません。でも……サンパギータは普段赤子同然なのです」
サンパギータは、髪を梳き、着替えさせ、食べ物を口へ運んであげなくてはいけません。
それから、日向ぼっこをさせて、月や星が綺麗な夜は甲斐が無くても一緒に見上げてあげなくては。
たまにふらりと好きな方へ動くので、危なくないように気をつけてあげなくてはいけません。
もちろん……それは誰にでも出来る仕事かもしれません。
女神と崇められ、たくさんの賢く優しい娘にかしずかれる生活になれば、わたしがお世話をしている今より良いかもしれない。
けれど、鳥や獣の鳴き声を真似て鳴いても笑ったりせず、愛情を持って褒めてあげられる人間が、この宮殿に何人いるでしょうか。
その人は、誰よりも何よりもサンパギータだけを心の拠り所として、大切に思ってくれる?
なんて綺麗なんだろうと陶酔してくれる?
毎夜物語を語ってあげられる?
彼について行かなくても、取り上げられるのは分かっている。
それでも、わたしから離れていくことは出来ない!
別邸から追い払われ、遠く離れて泥にまみれようとも、サンパギータの噂だけでも耳に届く場所にいたい。
「ラタ、サンパギータは本物の女神です。ですから」
「いや!」
わたしは咄嗟にサッと彼から身を離しました。
彼の顔が青ざめたのを見て、やはり甘い痛みを感じるわたしは、なんと身勝手で恐ろしい人間でしょう。
罪悪感で今すぐ息の根が止まればいいと思いました。
「ごめんなさい。何処にも行けません。どうか心だけ持っていってください」
「俺以外に捧げてしまっている心を、どうやって持っていけばいいのです?」
「心は裂けます。一番柔らかい所を差し上げます。わたしはあなたの心を乞いませんから、それでお許しください」
「あなたは酷い。どうして私の手を受け入れてくださったのですか? どうして潤んだ瞳を向けてくださっていたのですか?」
「……!! ……あなただって。どうしてここへやって来たのですか? どうしてサンパギータを女神などにしようとなされるのですか? どうしてわたしからサンパギータを取り上げようと……」
わたしはハッとして言葉尻を下げました。
虹彩が夜闇に溶けて瞳孔しか見えない彼の目が、わたしを悲しそうに見つめていました。
「サンパギータ、サンパギータ……か。あなたの愛はそこにあるのですね」
彼はゾッとする笑顔を浮かべ、わたしに言いました。
「分かりました。遅かれ早かれ、私はあなたからサンパギータ様を奪います。彼女は女神になられるのだから。その時、もう一度あなたに心を尋ねましょう。そして請いましょう『愛してください』と」
「……やめて」
彼は静かに首を振り、湖へ続くバルコニーの階段を降りて行きます。
「ロキ様!」
思わず名をお呼びしました。
恐らく、わたしの持っている言葉の中で一番強い言葉だったからでしょう。
湖に降りて行こうとしていたロキ様は振り返られると、少年の様に無邪気に微笑えまれました。
彼は尾を振る犬の様に水から戻って来て、わたしの身体を引き寄せられました。
わたしは虚ろにされるがまま、身を委ねました。
「もう一度呼んでください」
「……ロキ様」
「ラタ、呼んでくれた。嬉しい」
彼の美しい瞳からキラキラ零れてくる愛情に、わたしは醜く縋りました。
「わたしからサンパギータを奪わないでください」
「ああ……ラタ……」
与えられた名が、失望と共に彼の唇から空しく零れました。
彼は酷く傷ついた顔で眉をしかめられ、息を啜った後、私の唇を強引に奪われました。
そしてわたしの顔を両手で包んで覗き込み、奥歯を噛みしめて仰いました。
「それは出来ません……語り比べの宴で会いましょう」
彼はそう仰って、湖の中へ消えていかれました。
わたしは水音が聞こえなくなるまでバルコニーで佇んだ後、踵を返して部屋へ戻りました。
そして、安らかな寝息を立てるサンパギータの枕元に座ると、ランタンの灯が絶えた暗闇の中、物語を語り始めたのでございます。
少しでも長くサンパギータといられるように。
そして、少しでも長く彼がここに留まるように。
*
かくして、語り比べ―――本当の勝負が始まりました。
再び蘇ったサンパギータに、猜疑の視線が向けられたのも束の間、すぐに皆の心を奪いました。
サンパギータは艶やかな声で語ります。
「『子らよ心に衣を与えましょう、一枚、二枚、三枚……』……遙か太古から、長い時を掛けてわたくしたちは獣から人になろうとしております。そしてようやくそれらしくなってまいりましたが、まだまだ過程ですので獣と人の中間が存在している様子でございます。獣でもない人でもないその者はどちらにも疎まれ、どちらにもなれず、人生を右往左往して死んでゆきます……ところが稀に、図々しくも人と恋に落ちる事があるようでした。これは、ある麗人がそんな人以下の獣娘を愛した際の話でございます……」
麗人に愛されても応えられずに死ぬ獣の悲譚は、水瓶いっぱいの涙を誘いました。
心がホロホロになっている大衆の中、ロキ様だけが湖面の様に静かにわたしを見つめています。
わたしも彼を見つめ返しました。
いいえ、不遜にも睨み返したのかもしれません。
美貌、才能、魅力を授かり、のどかであたたかな島に生まれ、物語を語ってお育ちになられたという。
その大らかさと自信と、時折見せる意外な野性味で、どれだけの娘達をときめかせ、ため息を吐かせたのでしょう。
そしてきっと、あなたはそれらからヒラリと身を躱して来られたのでしょう?
わたしにもそうすればいい。
―――ロキ様は、分かっておられません。笑顔一つでバラバラになりそうな憧れ、名を呼ぶだけで押し潰されそうな恋しさ。そして、心に慕わしい二神が宿った際の混沌。
負けてほしくない。
けれどもサンパギータの宝石は渡せない。
それならば、胸が張り裂けるまで語りましょう。
サンパギータもロキ様も、それまでそばにいてください。
それまででいいですから。