蛇と虎へ、半分の名前
サンパギータは、物語を聞かせないと語らない。
そう気づいたわたしは、試しに宴前に物語を聞かせてみました。
愚かな小猿たちの乗るお船が沈没しそうになる喜劇です。
すると、サンパギータは予想通り、語りを再び披露したのです。
ラアヒットヒャ様はお喜びになられ、宴の間もおあずけされた分だけ可笑しな喜劇に沸きました。
しかし、シヴァンシカ妃とファティマ姫は顔を盛大に歪められていました。
特にファティマ姫は、宴の間に入って来た時の悠々とした表情を無くして、お顔を赤く染め震えています。しかし、自身に対する侮辱に関しては口を閉ざしていました。
きっと、召使いの暮らす部屋など訪ねた事を父に知られると、叱られると思ったのでしょう。
安堵から叩き落とされれば、ああなってしまうのは致し方ありません。
わたしはこうなる事を昼の内から予想して、少し意地悪い気持ちで楽しみにしていました。
しかし、ちっとも胸が晴れません。
それどころか、何故なのでしょうか。無性に嫌な気持ちになるのです。
おかしな事に、わたしは、ファティマ姫の気持ちに寄り添ってしまいそうになるのでした。
語り比べが終わり部屋に戻ると、部屋に再び贈り物が届きました。
わたしは、サンパギータが初めて温かい食事と、美しい衣服をいただいた夜の気持ちを思い出します。
サンパギータにとって、きっと素晴らしい出発の夜。
けれど、わたしにとっては、自分の鎖を自覚した夜でした。
サンパギータに代わって、贈り物の包みを開けていくと、その中に小指程のガラス小瓶を見つけました。唐草を模した青銅が、瓶を覆っている繊細な物です。
その可憐な瓶の中には、液体がほんの少しだけ揺れていました。
わたしはしげしげとそれを眺めました。
小瓶を傾けると、ふわりと芳しい香りがします。
そこでようやく、香油の瓶だと気づきました。
物語の中でしか触れた事がない貴重な品に、わたしは魅了されました。
青銅の唐草も、その内側でランタンの光を反射する瓶も、キラキラしています。
そして、それ自体に身を捧げたくなるような香り。
花に違いありませんが、わたしはこの香りのする花を知りません。
遠くの国の、貴重な花に違いない、と、思いました。
一体、どんな花の香りなんでしょう。
それにしても、と、わたしの胸が嫌な風にざわめきます。
この量は「お裾分け」ではないかしら?
誰かがサンパギータと、貴重な、素晴らしい物を分かち合いたがっている。
香りという個人的なものを共有してもいい、もしくは、したい、と……。
そう思い至ると、知らず奥歯を噛みました。
真夜中だというのに、何処かの水面で水鳥が飛び立つ音がしました。
わたしはその音を気にせず香油瓶の小さな蓋を開け、指先に香油を盗み、自らの額につけました。
濃厚な花の香りから、もう逃れられません。
そのまま、何処かを見つめているサンパギータの額の傷跡に、自分の額をつけました。大丈夫、サンパギータは痛がりません。
額どうしが滑って香油が練られ、香りを強くします。
わたしはその夜、サンパギータに寝物語を語りませんでした。
心蕩かすような良い香りが部屋中を漂っているのですから、いいではありませんか?
*
再び物語らなくなったサンパギータに、誰もが落胆した様子です。
「どうしたのだサンパギータ。もう語るものが無いか」
ラアヒットヒャ様は、見るからに詰まらなそうでいらっしゃいました。
周りには不遜にもからかっているのではないかと疑われ、陰口を囁かれる機会が戻って来ましたが、陰口など木偶のサンパギータには堪えません。
「語らないならば、もう宴の間に連れてくる意味は、ないのではなくて?」
「お母様の仰る通りですわ。仕事をしないのなら、その場にいるだけで不愉快よ」
シヴァンシカ妃とファティマ姫が喜んで、蔑みの言葉を吐いています。
しかし、サンパギータの何処に傷つく心があるのでしょう?
彼女たちは物言わぬ壁に向かって毒を吐き、自身の徳を削っているようなものです。
召使いの長をはじめとする召使い達、奴隷達は、今まで以上にサンパギータを嫌悪しました。
サンパギータが存在する事で慰められていた自尊心を奪われ、蔑まれる立場に転落し、一時期頭まで下げてしまった事が、彼らには許せないのでした。
彼らのそれは、高貴な方々とは思い入れの強さと方向性が全く違いまして、睨む目の奥に呪いを含ませる類いのものでした。
彼らは、語らなくなってまだ日の浅いサンパギータの周りを用心深くまわり、虎の様に様子見しているのでした。
無関心と蔑みに、敵意と恐れが付着して戻ってこようとしていました。
わたしは、あろう事かそういった全てに心が安らぐのでした。
わたしは、あの召使い達や奴隷達と同じ。
どうしようもない程、さもしい女です。
それに気づいた今、煌々と輝く蝋燭の光に照らされた大きな手に、触れる事は出来ません。
慕わしい声が、美しい女性に恋する旅人の物語を甘く語っても、遠い天国の出来事のように思えます。
喜びも悲しみも、憧れも、愛すら、このさもしい心の安らぎには敵わないのでしょう。
きっとそうでございます。
*
サンパギータが語らなくなり、ある者は憤り、ある者は落胆し、ある者は泣きたくなるほど安堵しております。
湖の水が引き始め、宮殿の支柱が見えてくる頃になっても、ラアヒットヒャ様はサンパギータを宴へ呼び続けました。
わたしはその事に、焦りと不安を感じていました。
何故なら、全く語らなくなったサンパギータに対しラアヒットヒャ様だけが、余裕のあるお顔をされていらっしゃるのです。
ラアヒットヒャ様は、親心がついたのでしょうか?
何も披露せず宴の間に存在するだけのサンパギータ。それが当たり前となってくると、人々は君主のサンパギータに対するお墨付きを見いだし始めました。
ラアヒットヒャ様のお心は、お変わりにならない。
―――何故?
祀り上げ語らせる際は、新しい物語である必要が無いからでしょうか。
サンパギータの価値は、美貌と語りの巧さです。それは揺るがす事が出来ない事実でした。
そして、当たり前の事なのですが、物語を語れる者がいなくなってきて、語り比べがお開きとなりそうになってきました。
宮殿側の挑戦者は、ラアヒットヒャ様に睨まれて、しどろもどろにデタラメな物語を語りその場をしのいでいるだけでしたから。
これ以上の勝負は無粋なだけ。
語り部の勝利は目に見えています。
サンパギータの宝石を手に入れたら、語り部はすぐに宮殿から立ち去ってしまうだろうか。
ラアヒットヒャ様が「もう少しだけ」とお引き留めになられないだろうか。
わたしは、自分がサンパギータへ物語を与えないでいるというのに、彼を惜しんでいるのでした。
自分は最も彼に相応しくないと自覚し、視線すら交わさなくなったというのに、心の中は猥雑を極めていました。
どうしたら自分を見限る事が出来るのでしょう。
どうしようもなく、わたしはわたしが嫌で嫌で仕方がありません。
切り離して、打ちのめして、否定して、蔑んでやりたい。
―――それでも立っていそうで、嫌いです。
*
何度目かの語り部頼りの宴がお開きとなり、いつものようにサンパギータを寝かせると、わたしはバルコニーへ出て宮殿の残り灯を眺めました。
眠れない夜に、ランタンの明かりがポツポツと全て消えて暗闇になるのを見守ると、心が落ち着くのです。
宮殿の辺りを満たす水は大分引きました。
もう底に足が付くかも知れません。
ぼんやり宮殿を眺めていると、そちらの方から湖を滑ってくる影が見えました。
滑らかな動きだったので、水鳥だろうかとぼんやり眺めていると、影が手を振りました。
明らかに水鳥ではありません。
影は器用に水に潜ると、あっという間にバルコニーへ近づいて、乾期に地面へ降りる為の階段をジャブジャブと登って来ました。
わたしは驚いてしまって、部屋へ逃げ入る事すら出来ませんでした。
小さなランタンの灯の下で微笑んだのは、語り部でした。
「こんばんは」
彼は豊かな髪から水を滴らせてバルコニーに腰掛け、挨拶をくださいました。
わたしは震えて跪きました。
「こんな風に訪問してすみません。別邸へ通してもらえなかったので、以前ファティマ姫に教えてもらった道で来ました」
そう言いながら、彼は濡れた上着を脱いでバルコニーの柵に掛けられました。
露わになった逞しい上半身が水に濡れて艶めいておられて、わたしは顔を上げる事が出来ません。
「あなたに、会いたくて来ました」
「わたしに……?」
小さく問い返すと、語り部は片眉を上げてニヤリとしました。
「他に誰が?」
「さ、サンパギータが」
語り部がわたしの言葉を遮る様に、喉で笑い声を立て、仰いました。
「俺が幾夜も人目を忍んで手を重ねたのは、サンパギータ姫じゃない。あなただ。名前を教えてください」
「……」
「この宮殿の誰もあなたの名前を教えてくれなかった。あなたも初めて出逢った時に、教えてくれなかった」
「身分が無いので、名乗る名前が無いのです!」
わたしは思わぬ鋭さで出た声を、ハッと手で押さえました。
名乗れない事は、たくさんの知られたくない事の中で一番嫌なものでした。
ランタンや寝台、絨毯にだって名前があるのに、わたしは名乗れないのです。
俯いていると、ひたひたと足音が近づいて、大きな足が視界に入りました。
「……あっ」
慌てて後退ろうとするわたしの肩を、語り部は素早く捕らえました。
「名前がない?」
美しく真剣な瞳で見下ろされ、わたしは息が浅くなります。
怒らせてしまったのだと、思いました。
「申し訳ありません、本当に……ないのです」
次に何を言われるのだろう、と、目を瞑り身を固くしていると、意外な言葉が降ってきました。
「では、俺の名を半分差し上げます」
「……え?」
「お嫌でなければですが……今から俺はロキ。あなたはラタです。如何でしょう?」
「め、滅相もございません、そんな勿体ない事をして頂いたら罰せられてしまいます!!」
アハハ、と、語り部は軽快に笑われました。
今夜のこの方は、宴の間での印象より少し明るく感じられます。
「秘密にすればいいよ、俺だけがあなたの名を呼びます。ラタ」
「……」
「ラタ、声が出せるなら俺の名も呼んでください」
わたしは……声がつかえて出せませんでした。
胸が苦しく、身体が震えて仕方がなかったのです。
その代わりに、いつの間にか頬に添えられていた彼の大きな手を取って、両手でぎゅっと包みました。
甘いため息が降ってきます。
「……語り比べの宴が終わるまで、毎夜通ってもいいでしょうか」
そんな事をして頂く資格は無いのに、世界で最もこの人に相応しくないのに。
わたしは小さく頷いてしまったのでございます。
語り比べの宴が終わるまで。
宴はいつ、終わってしまうのでしょう。