彷徨う視線の先に光るエメラルド
視線が合ってすぐに、語り部は静かに瞳を見開かれました。
わたしは急いで彼の次の視線から目を逸らし、自分の汚れた裸足を見つめました。親指の爪が割れているのを見つけて、あちらからは見えはしないというのに、とても恥ずかしい気持ちです。
ファティマ姫達の、香油を塗って艶めく足首と宝石を散りばめた金のアンクレット、赤く染めた爪をこんなに羨ましいと思った事はありませんでした。
美姫とご令嬢が集まり煌びやかに着飾っている中で、ぼろ布を身体に巻いたわたしの姿はどれほど見窄らしく見える事でしょうか。
クスクス笑う彼女たちの笑い声が、残酷な答えなのでしょう。
「何をしておる、サンパギータこちらへ来なさい」
ラアヒットヒャ様が、中々動かないサンパギータを、皆のくつろいでいる絨毯の上へお招きくださいました。
しかし、シヴァンシカ妃とファティマ様が口々に非難の声を上げて眉をつり上げました。
「まぁ、あの様な者を家族の絨毯の上へなど、ご冗談でございましょう?」
「お父様、サンパギータとその下僕を側になど置きたくありません。ロキラタ様にも失礼だわ」
「そうか……しかし、ロキラタは珍しいものを所望なのだ」
愛する妃と姫に抗議されて、ラアヒットヒャ様はタジタジです。
しかし、ラアヒットヒャ様はサンパギータを神から授かったと未だ微かに思っていらっしゃるご様子で、妃と姫の様に表立って邪険にはしませんでした。
この中途半端な信仰とほとんど無関心な上辺だけの慈悲が、サンパギータの首を繋ぎ止め、同時に真綿で絞めてもいるのです。
一度は姫と決めた者を「珍しいもの」と口にするその無神経さは、彼に仕える者達――とくにシヴァンシカ妃にとって心を冒す微量の毒となっているに違いありません。
姿を良く見せろと言われたり側へ寄るなと言われたりして戸惑っていると、語り部がスッと立ち上がりました。
「わたしが側へ行きましょう」
「ロキラタ様!」
語り部にしなだれかかる様にしていたファティマ姫が、彼の手を取って止めました。
しかし語り部は彼女の手をそっと離すと、わたしとサンパギータの方へと歩まれました。
途中、絨毯に幾つも置かれたクッションをひょいひょいと二つ拾われます。
皆、どんな事が起こるのだろう、これからどんなお話が聞けるのだろうと語り部の行動を見守っています。
語り部は立ち尽くしているサンパギータの側に片膝をつき、お辞儀をなさりました。
柔らかな亜麻色の髪の束が肩から滑り落ちていく滑らかさといったら。わたしはサンパギータの影でこっそりと釘付けになっていました。
彼は瞳を輝かせてサンパギータを下から見上げ、朗々とした声で仰りました。
「やっとお会いできて嬉しいです。わたしはロキラタという名の語り部です」
わたしは内心慌てました。
サンパギータは例のごとく虚空を見つめ、返事をしないからです。
少しだけ宴の間がシンと気まずく静まりました。
「木偶なのよ」
と、ファティマ姫が静寂を破ります。
「醜い傷を持った空しい器」
ホホホ、と、シヴァンシカ妃。
女達が妃の嘲り笑いに合わせて一斉にクスクス笑いました。
それに釣られて男達も。
語り部は涼しい顔でそれらを無視して立ち上がり、サンパギータの手をお取りになられました。
そして、持ってきたクッションの上に宝物の様に座らせてくださったのです。
そのご様子は、彼女しか見えていないとばかりなのでした。
サンパギータの美しさに魅了されてしまったのだ、と、わたしは思いました。
もしかしたらその時、わたしはファティマ姫と同じ表情をしていたかもしれません……。
語り部はサンパギータをクッションの上に座らせた後、再度平伏されました。
そして皆が呆気にとられる中、顔を上げられると、ラアヒットヒャ様にお尋ねになられました。
「王様、お話では彼女の額には宝石が付いていたそうですが、この傷は一体何故でしょうか」
シヴァンシカ妃が、真っ赤な唇の隙間から水たばこの煙をくゆらせ、あらぬ方へ目を細めました。
ラアヒットヒャ様は苦くお笑いになり、顎髭を指先で弄ばれました。
「幼い頃は宝石がそこについていたのだが、……取れてしまったのだ」
「では、宝石が付いていたのは嘘ではないのですね?」
ラアヒットヒャ様は憤慨なさって、身を乗り出されました。
「余は嘘など吐かぬぞ。確かに着いておった。それとも何か? 余に、そなた程不思議な体験など出来ぬと言うのか。それは確かに神から授かった申し子であるぞ」
「しかし、無関心に扱われているご様子」
「木偶になった故、神性は削がれた。しかし空虚な身体だけはある。崇めるには宮殿内で徳が足りず、打ち捨てるには罰が当たりそう―――そういう者を懐に入れている余の気分などそなたに分かるまい」
おまけに、妃と姫にはこれをネタにネチネチ嫌味を言われるし……と、ラアヒットヒャ様。
当の妃と姫は、ラアヒットヒャ様へ恐ろしい程優雅に微笑みかけています。
「それは大変失礼を……ところで、その宝石はどうなさったのでしょう?」
「余の宝物庫に保管してある。いつかマハラジャの兄が尋ねて来られたら贈ろうと思っているのだ」
「そうでしたか。いずれマハラジャの宝となる尊い宝石を、わたしにも拝見させて頂けないでしょうか」
ラアヒットヒャ様は尊大に頷かれ、召使いへ片手をひらりと上げられました。
壁に張り付くようにして控えていた召使いの内の一人が、サッと礼して宴の間から出て行きました。
良く気の付く厨房の召使い達が、場つなぎの為に高価で珍しいお茶と伝統の菓子、蝶や鳥を見立ててカットしたフルーツ盛りを運んできます。
「素晴らしい。故郷に帰ったらこの技を故郷の人々に伝えたいと思います」
語り部はそう仰ってサンパギータへフルーツを差し出されましたが、サンパギータは相変わらずです。
語り部はどこか悲しげに薄く微笑えまれた後、わたしへ「貴女もどうぞ」とフルーツを勧めてくださいました。
「ロキラタ様……! その者は奴隷よりも卑しい女です!」
総毛立って腰を浮かすファティマ姫を、ラアヒットヒャ様がお宥めになられました。
「さっきロキラタは、身分を問わず説法を聴かせるシャーマンの話をしたではないか。きっとその話を模しているのだ。姫よ、少し静かにして彼の好きにさせるのだ」
ファティマ姫は父に宥められ、不満げな顔をしました。
彼女は音を立てて羽扇を開くと、羽と羽の僅かな隙間からわたしを睨み付けていました。
わたしは慌てて床に直接、膝と頭を着けました。
「美しい人、顔を上げてください。膝が痛くないですか?」
あたたかな声がわたしに尋ねてくださいました。
わたしを気遣ってくださっているのです。
サンパギータのお披露目が済むまで、こうして頭を上げずにいよう。そう決めたので、頭を伏せたまま小さく頷きました。
本当は、美しいなどと言われて顔を上げられずにいたのでした。
召使いが宝石を持って来て、ラアヒットヒャ様へ差し出しました。
サンパギータの瞳と同じ緑遊色を踊らす宝石は、ヒバリの卵ほどの大きさをしていました。
皆がその美しい宝物に目を見開きます。
「美しいであろう」
ラアヒットヒャ様は得意気に語り部へ宝石を差し出されました。
語り部は頷き、「言葉に出来ない程でございます」と囁かれました。
「ほう、そなたでも言葉に出来ぬ事があるのか」
「はい。その宝石を手に入れられるなら、死んでもいいとすら思ってしまいそうです」
「それほどか」
どんな経緯で手に入れた物であれ、自分の持っている物を崇められラアヒットヒャ様は久しく覚えの無い高揚を感じられたご様子です。
「どうだ、それでは取引をしないか」
と、こんな事を仰られました。
「取引とは?」
「余はそなたの話を、その頭にしまっている分だけ全て聞きたいと思っている。しかしそなたは流浪の者。いずれふらりと気紛れに何処かへ行ってしまうのだろう?」
「お察しの通りでございます。私にとって伝える事はもちろん、集める事も重要ですので」
「では、この宝石をやると言ったらどうだ?」
語り部を纏う空気がスッと変わったのが、伏しているわたしにも伝わってきました。
飄々とされている彼の心を遂に掴んだと、ラアヒットヒャ様はさぞやお喜びになられた事でしょう。
語り部が深い声でお返事をされました。
「お望みとあらば……」
「うむ。いやしかし、待たれよ。そなたは持っている分より少なく『これで仕舞いだ』と言うかもしれぬ」
「そんな事は……」
「いやいや、そなたは異国を渡り歩いておるのだ。抜け目が無いのは分かっておるぞ。そこでだ」
ラアヒットヒャ様がどんな条件を出されるのか、皆が胸躍らせて待っています。
わたしも思わず顔を上げてしまいましたが、誰も気づかず咎める者はいませんでした。
熱帯の湿地に閉じ込められる様にして暮らす人々は、こんなに胸躍る瞬間は久しぶりでした。
マハラジャへ贈られる予定だった宝石が、別の誰かのものになるなんて!
「語り比べをしようじゃないか。そなたと対戦者が交互に語るのだ。誰も語る物語がなくなり、それでも最後に語った者にこの宝石を与えよう」
「まぁお父様、宮殿には何百と人がいますのよ。それではロキラタ様に不利ではございませんか」
計算の出来ないファティマ姫が口を挟みました。
ラアヒットヒャ様は姫に微笑みました。
愚かでもやはり可愛い姫なのでしょう。
もしかすると、愚かなところが可愛いのかもしれません。自分より下の者を見て喜ぶ人は、たくさんいるのですから。
ラアヒットヒャ様は、初めから宝石を渡すおつもりなどないのです。
おそらく最後に語るのは、語り部にはならないでしょう。
語りをした事がない者たちばかりでしたが、宮殿には何百と人がいるのですから。
流石に語り部も、物語を何百も持ってはいらっしゃらないでしょう。
語り部を打ち負かしたその者からは、宮殿の権威を振りかざして宝石を取り上げてしまえばいいのです。
それに、この勝負は他にも良いところがあります。
流浪の語り部を、少しでも長く宮殿に繋ぎ止めて置く事が出来るからです。
「強制では無いから安心するがいい。それに勝負に敗れたとて、ロキラタは何かを失う訳ではないからな。ファティマ姫は優しい姫であるな。きっとシヴァンシカの育て方がよいのだな」
シヴァンシカ妃は夫の間接的な賛辞に眉を潜めました。
娘の出来の悪さを擦り付ける自分への嫌味と取られたのでしょう。
そんな些細な亀裂が起こる中、語り部はラアヒットヒャ様に跪かれました。
「お受けいたしましょう。さぁ、一番最初のお相手は?」
どことなく語り部は可笑しそうに笑って、その場の皆にお尋ねになられました。
しかし、誰も手を上げず、立ち上がりません。
語り部は可笑しそうに唇を震わせています。
それもそのはず、彼に勝つためには最後の方に進み出た方が有利だからです。
似たもの親子とはこの事、わたしも慌てて顔を床へと伏せました。
ラアヒットヒャ様はそれに気づかず、皆を鼓舞しました。
「どうしたどうした。多少下手でも構わぬぞ。ロキラタの前では皆同じようなものであろう」
「では、まず私から語りましょう。その間に皆様どなたかご準備を……」
見かねられたのでしょう、語り部がそう仰って語り始めました。
「物語ではありませんが、私の故郷のお話をしましょう。では、口上を……『島の女神に贈ります』……私の故郷はエメラルド色の海に浮かぶ小さな島です。美しい砂浜を優しい波が撫で、風は甘く、背の高い椰子が生い茂り、子供達がまるまるとしています」
初めて聞く彼の語りに、わたしは夢中で耳をそばだてました。
まさか、語りどころか彼の故郷の話を聞けるなんて。それにやはりうっとりする様な美しい低い声なのです。
語り部は生き生きと自分の故郷だという島の話をしています。
ここと同じように熱帯で、椰子を初めとした植物が生い茂っているそうです。
わたしは海を見た事がありませんが、彼の声がキラキラと輝くエメラルド色の波を見せてくれるのでした。
話を聞く者皆、何処か遠い目線をして、そこに彼の故郷の美しい空や海や背の高い椰子、群生しているというジャカランタの花が広がって見えているかの様でした。
カタカタと鳴く大きな鳥のモノマネを彼がすると皆楽しそうに笑い、わたしもこっそりと笑ってしまいました。語り部は、本当に語りがお上手でいらっしゃいました。
サンパギータも喜んでいる事でしょう。
そう思って彼女の方を見て、わたしは息を飲みました。
サンパギータが意志のある視線を持って、語り部を見つめていました。
更に唇の両端に小さな笑窪をつくっていたのです。
語り部はそれに気づいている様子でした。
ちらほらと他の者もサンパギータの変化に気づき、小さな声を漏らす者もいました。
「……その美しく楽しい島が、私の故郷です。その島は、語り部の島と呼ばれています」
語り部はサンパギータへ語りかけるように、語りを閉じました。
わたしは何か胸騒ぎを覚えながらサンパギータを盗み見ました。
サンパギータは話が終わった途端、表情を無くし視線を何処か遠くへ彷徨わせ、いつもの通りとなってしまいました。
「うむ、素晴らしい故郷を持っているようだ。いつか訪れてみたい」
「ありがとうございます。いつかご案内いたしましょう」
「うむうむ! ささ、誰か挑戦者はおらぬか! 勝てばこの世にも稀な宝石を授けるぞ!!」
皆がソロソロと目線を這わせ敗北を押しつけ合う中、わたしの傍らでふわりと衣の擦れる音がしました。
「あっ」と声を上げて慌てても、もう間に合いませんでした。
クッションに座らされていたサンパギータが立ち上がり、いつもの調子であらぬ方を見つつも、語り部の方へ身体を向けていたのでございます。