わたしのサンパギータがいってしまう
小さな島の上、誰かがポツンと夢を呟きました。
呟きが心の中で煌めくのを感じたのでしょう、その者は隣人へ向けても呟いてみました。
それを聞いた隣人の心の中で、違う色の光が煌めき、それは希望の言葉となって零れ落ちました。
二人は呟きを繋げてみました。
すると二人は、今までにない幸せな焦燥感を感じました。
繋がった呟きの続きを知りたくなったのです。
けれども、中々続きが思いつきません。
二人は三人目に繋げた呟きを聞かせました。
三人目は目を輝かせて、喜びを呟きました。
四人目は感謝を、五人目は優しさを、六人目は勇気を、と続きました。
何人目になった頃でしょうか、誰かがポツンと寂しさを呟きました。
その後に続く呟きは悲しみや怒りや、憎しみ、嫉妬でした。
意外な事に、皆そういった負の呟きに惹き付けられ、受け入れていました。
皆各々の好きな呟きを胸に大事に抱き、生きる指針にする者もいれば、心の慰めにする者もいました。
わたくしは、そんな彼らを「ああ、もう少しで物語になるわ」と、眺めていました。
するとある時、神様が仰いました。
さあ、彼らに物語を与え、話を聞いておやり。それを糧に島を護ってやるのだ。
わたくしは喜んで彼らの島へ降り、漠然としていた彼らの呟きを率いる最初の物語となりました。
丸裸の心を物語でくるむ発見を成そうとしている彼らへ、わたくしは呼びかけました。
子らよ、衣を与え合おう。一枚、二枚、三枚……。
*
子らは、物語を求めてわたくしが加護している島から旅立ちます。
外界から見えない、神様に選ばれた島は八つありますが、島から旅立とうとするのはわたくしの島の子らだけ。
それが誇らしい時もありますが、子らを自分の腕の中で護っておける他の島の女神を羨ましく思う時もあります。
旅立つ子らに出来る限りの加護を施しますが、それでも心配で、本当はついて行きたいくらい。
けれどわたくしは、島と彼らの物語から離れると力を失って、どんどん無力な姿になってしまいます。
それでも、子らを助けに行く事は何度もありました。
ある時は老婆、またある時は年配の女、またまたある時は妙齢の女、そして少女となって、わたくしの救済は語り継がれて来ましたが、まさか幼子になってしまう程、遠くに行く事があろうとは思ってもみませんでした。
仕方がありません。わたくしのお気に入りの娘の為でした。
「助けて欲しい」と乞われるまでは、子らの元へ行けないわたくしを、その娘は随分焦らしました。
ようやく助けを求められて彼女の元へ降り立てば、あらあら……わたくしは彼女がどうして長い間助けを求めなかったのか納得し、彼女と彼女の娘を保護しました。
しかし、今回はそれだけでは済まなかったのです。
その地へ降り立った時、何かとても素晴らしい予感の香りがしました。
それは今まで感じた事が無い予感でした。
島を司ってから初めての事が、これから始まろうとしている、と、わたくしは感じたのです。
くらくらするよな香りに引かれて、わたくしは香りの元を探し回りました。
そして、程なく見つけたのは、美しい湖上の宮殿。
ああ、ここだ。
わたくしは蜜に誘われる様に、宮殿へ向かいました。
ちょうどそこには、その主夫婦とみられる麗しい男女が湖面近くで睦まじく涼んでいました。
わたくしは実在の神を視た事の無い彼らを脅かさぬよう、彼らにとって出来るだけ好ましい降臨をし、ご挨拶をしました。
勿論、手土産も忘れませんでしたわ。
男性の方は喜んでわたくしを迎え入れてくれましたが、女性の方は、わたくしを怪しんでしまった様でした。
空想話を中々受け入れてくれない手強い聞き手の様に、彼女はわたくしを嫌いました。
どちらにしても、長居する気はありませんでした。
わたくしは彼女に、宮殿へやって来た用事を伝えました。
すると、彼女はみるみる顔色を変え、わたくしを襲って来たのです。
本来ならそよりともならぬ程度のものでしたが、力をほとんど失った幼子の姿では、為す術がありませんでした。
更に、彼女はわたくしの第二の心とも言える額の宝玉を奪ってしまいました。
わたくしは悪意と暴力に悲鳴を上げ、倒れました。
そしてそれからは、霞が掛かった様な時が過ぎました。
女神が女神と知られずに囚われてしまった。これは前代未聞の事でした。
こうなっては、わたくしへ宝玉を返してくださる善意を待つしかありません。
けれどわたくしは物語の島の女神。
島から離れ、物語を捧げられないと消滅してしまいます。
物語の島はどうなってしまうのだろう。
物語の島の子らはわたくしの事を何と思うでしょうか。
……いいえ、他の島にだって知れ渡る事でしょう。
人間に囚われてしまい消滅した女神!
なんという事でしょう、これはどういった運命なのかと、霞の中悲観に暮れました。
けれど、そんなわたくしの耳に、ある時声が聞こえます。
神様だろうかと思いましたが、違うようでした。
耳を澄ますと、それは物語でした。
細く頼りない声で、たどたどしく紡がれる物語に、わたくしの存在は救われました。
声は、わたくしに太陽や星、睡蓮、宮殿を照らすランタンの灯火を見るように促してくれました。
声は、わたくしを慈しみ、手を引いてくれました。
声は、わたくしを徐々に大人の姿へ戻してくれました。
そして声は、わたくしを女神でいさせてくれた。
ああ、そしてそして……声は、とうとう宝玉までわたくしの額に―――
「サンパギータ、わたしの女神へ捧げます」
どこの島の女神も、人間と深く関われない約束事があります。
甘く芳しい、あなたと二人だけの日々が終わる事が寂しくて、少し迷います。
けれどもわたくしはこうなるように導いて来た。
出来る限りの助けになりたかったのです。
その方が良いでしょう、ねぇ、あなた。
幾星霜の中呼んでくれた名前、誓いの言葉、「サンパギータ」と、あなただけに囁いてみたいけれど。
あなたが女神を望むなら。
わたくしに衣をくれたように、わたくしも。
わたくしはそっと瞳を開きました。
そこからなにか零れ落ちようとも。
*
サンパギータの美しい緑遊色の瞳が光を取り戻したのを見て、わたしは強く後悔をいたしました。
恥ずかしながら、この瞬間まで「まさかそんな」と思っていたのです。
けれども、こうも虹色に光り輝き、床から少し浮かび上がられては……もう見ぬフリは出来ません。
サンパギータは、わたしがそうと思っていた、わたしだけの女神ではなかったのです。
神々しさに、その場の皆がひれ伏しました。
「な、なんと言う事だ!! 女神よ! 私は……ふひゃん……」
ラアヒットヒャ様が大慌てで、何か釈明をしようと輝く彼女の前へ進み出ましたが、彼女が手をふいと上げると、くにゃりと倒れ眠り込んでしまいました。
わたしは無礼にも棒立ちとなって、サンパギータを見上げていました。
サンパギータは一粒涙のような光を瞳から零しました。
わたしの後悔が強くなります。
せめて同じ国にいられればいいと思っていましたが、世界が違ってしまうなんて酷すぎます。
サンパギータもそれを悲しんでいるのでしょう、また瞳から涙を零しました。
こんな事になるなんて!!
「いやよ、サンパギータ……」
わたしは首を振って、サンパギータへ両腕を伸ばしました。
サンパギータは涙を零しながら微笑み、首を横に振りました。
『物語の島へ行かねばなりません』
「サンパギータ……!」
泣き出したわたしに、ロキ様が言いました。
「ダミニ姫、申し訳ございません。俺たちには島の女神が必要なのです」
『ロキラタ、初めて満月の守をしたあの日から、随分成長しましたね。見事でした』
「とんでもございません……良かった……女神様を見つけた時、命に代えてもお救いしようと思いましたが、もしかしたらと思うと、皆の元へもう帰れないかと……」
う、と、ロキ様は嗚咽を漏らして床へ頭をつらけました。
飄々とされていましたが、随分大きな重圧を感じられていたのだと思うと、わたしは胸が詰まりました。
『ありがとう。その様な大変な時に、この姫に随分熱心でしたね。流石だこと。全部見ていましたからね。ふふふ』
「……うっ」
ロキ様は先ほどとは別の呻き声を上げ、少し青くなられていました。
反対に、わたしは赤くなって俯きました。
逢瀬を全て見られていたなんて……女神となったサンパギータが悪戯そうに笑うので、戸惑ってしまいます。
「し、しかし、何故この様な所に、あの様な状態でいらっしゃったのですか?」
ロキ様がその場を取り繕うように、お尋ねになられました。
サンパギータは微笑み、すーっとわたしの元へ降り立つと、言いました。
『この姫に会いに来たのです。素晴らしい語り部として、島へ迎えたいと』
ここに一人、娘が来ませんでしたか?
サンパギータはシヴァンシカ妃にそう尋ねたそうです。
ちょうど、シヴァンシカ妃がわたしを手中に収めた頃の事でした。
シヴァンシカ妃はどれだけゾッとなされた事でしょう。
それにしても、女神まで捕らえてしまうなんて。
呆然としているわたしの横で、ロキ様は別の事柄で目を見開いていらっしゃいました。
「……なんと。島の者たちの才能を感じたのですか」
『才能……? いいえ、言い知れぬ運命を感じました』
もしかしたら、と、サンパギータは言いました。
『魂の取り替えっこだったのかも知れませんね。あなたはきっと、アヴァンシカを生まれる前から好きだったのよ。なんとクルクルと忙しい姫だろう』
何を言っているのか、わたしには難しくて理解が出来ませんでしたが、気になっていた事を尋ねました。
「……お姉様とあの人は無事ですか?」
サンパギータはニッコリ微笑みました。
ニッコリ微笑むサンパギータの美しいことと言ったら……。
『そろそろ島へ帰りつく頃でしょう。……けれど、キタルファは放浪癖があるから……わたくしが島へ戻ってもまだ旅をしているかも……』
「キタルファ……」
ロキ様が、ため息の様に囁かれました。
わたしの胸が疼きます。
ロキ様は、追い求めた愛しい人の元へ、きっと行ってしまうのでしょう。
「無事で良かった……」
『キタルファはマハラジャの事を愛していましたよ』
「ええ、でなければ子を成す前に救いを求めたでしょうから」
ロキ様はキッパリと言って、「何故そんな事をわざわざ言うのです?」と反抗的に尋ねられました。
サンパギータは、惚けた表情をして『だって……貴方がちゃんとしてくれないと、わたくしの大切な人が悲しむから』と言って、鈴の音の様にコロコロ笑いました。
なんだかこんな風に生き生きとしたサンパギータを見るのが初めてで、わたしは気後れしてしまいます。
ロキ様は憮然とした表情になられて、咳払いをなさいました。
「これはこれは……お気遣いありがとうございます。しかし我らがクワンレレンタ様、ダミニ姫はマハラジャの娘。俺がいくら愛そうと、賜れない姫でございます……」
ロキ様がそんな事を仰ると、サンパギータは憤慨して髪を逆立てました。
『あら、駄目ですよ! なんとかしてくださいな、島へ連れて行きたいのです!』
「そう言われましても……彼女には栄光の人生が……」
悲しそうな顔をして、ロキ様がわたしを見ました。手に入らない宝物を前にした様な顔に、申し訳わけなさ半分、心地よさが半分。
―――わたし、あなた様を前にいつもそういう気持ちでした。
わたしは微笑みました。
「ロキ様、わたしがあれだけあなたについていけないと言っていた時は口説いてくださったのに、もう口説いてはくださらないのですか?」
「ダミニ姫……」
「ダミニではありません。あなたはわたしに名付けたではないですか。その名で呼んでください」
「……」
「サンパギータと囁いてくださったのは、気紛れでしたでしょうか」
『そうよ、あなた、わたくしの前であれだけこの子に……』
「ああもう! すみませんでした!! ……良いのですか、ラタ」
ロキ様が急いで立ち上がって、わたしの手をお取りになられました。
大きな、温かい、わたしを捕まえた手。
わたしはそっと、その手を握り返しました。
ロキ様が安堵の表情で微笑みました。
そして表情に野性味を付け足して、仰いました。
「俺はあなたを籠に入れてしまうかも」
「では、わたしに愛という名の鍵をください」
「あなたは自由というわけか。喜んで。では、謹んでマハラジャの元から攫わせていただきます」
寄り添うわたしたちの前で、サンパギータがその名の誓いのごとく、温かく微笑んでいました。
*
『それでは、島へ無事帰れる様に加護を与えます』
サンパギータはそう言って、わたしとロキ様の頭上にバラ色の光を振り散きました。
そして彼女がまだ水の残る湖の方へ両手を広げると、仄かに光る大鬼蓮の飛び橋が。
ロキ様がわたしの手を引きました。
わたしはそれに従いつつも、サンパギータを名残惜しく見つめます。
「もう会えないのですか?」
『どうして? わたくしの島へ来るのでしょう?』
「でも、お姿は見えないのでしょう?」
『ええ、人間とは深く交われないの。さあ……』
サンパギータは光を零しながら微笑んで、わたしの歩みを促しました。
わたしはいたわりの表情のロキ様に再び手を引かれ、ゆっくりと進み始めます。
その時、囁き声がしました。
『お行き、わたしの……』
「え?」
聞き取れなくて、わたしは振り返りました。
しかし、もうそこには輝くサンパギータの姿はありません。
代わりに、離れた所にへたり込むファティマ姫が、瞳を虚ろにしてこちらを見ていました。
わたしはロキ様と光る大鬼蓮から大鬼蓮へと、飛び跳ねて行きながら、あの姫はどんな物語を紡ぐのだろうと、そんな事を思っていました。
*
長い長い、蜜のような旅の果て、わたしとロキ様は持ち帰った茉莉花の種を島に二粒植えました。
島の気候と相性が良い様子で、種はすぐに芽吹き、スルスルと蔓をのばし蕾を付けて、白く可憐な花を咲かせました。
島の暮らしは心地よく、皆好奇心いっぱいでした。
ロキ様は彼らの好奇心から、わたしを隠すのに忙しそうにしていらっしゃいました。
楽しみにしていたアヴァンティカとの再会は、ありませんでした。
なんと、彼女はキタルファ様と供に島へ戻った後、愛する女と姫を二人ずつ失い消沈した父を救う為、腕の立つ若い護衛と供に宮殿へ帰ったのだそうです。
それを聞くと自分をとても恥ずかしく思いますが、ロキ様とキタルファ様は「長女に任せましょう」と気軽に笑うのでした。
きっと今頃は、立派な女マハラジャになって、領土を治めている事でしょう。
キタルファ様がたまにふらりと島から出ていかれるので、戻って来た時に彼女の話を聞いては、わたしは故郷に思いを馳せるのでした。
しかし、あまり目に見えてお姉様を懐かしがると、ロキ様がわたしを抱いて「帰らないでくださいよ」と念をお押しになられるので、コッソリとです……。
甘い年月が、わたしとロキ様を優しく抱いて過ぎていきます。
まるで物語のようです。
さて、そんな物語には、秘密が一つ。
夜空が良く晴れている夜、ロキ様が深い寝息を立てる頃に、そっと彼の腕の中からすり抜けて、わたしはこっそりと砂浜へ。
そしてまだ温かい砂の上に腰を下ろし、エメラルドの波を眺め、物語を語ります。
聞き手はおらず、温かい風が頬を撫でるだけ。
風よ聞いておくれ、星よ笑っておくれ、月よ、眠りの花よと呼びかけながら、本当は。
椰子の木が揺れています。その大らかな波間には、金色の月。
どこかで寝ぼけた小鳥の鳴き声が。
わたしもそっと鳴いてみます。
「ルルルルルル」
ルルルルルル……。
振り返っても、誰もいません。
けれど、咲き誇る茉莉花から囁き声が聞こえるのです。
『サンパギータ、サンパギータ……』
胸の中を芳しい香りでいっぱいにして、わたしは星空へ呼びかけます。
「今夜はどんなお話にしましょうか?」
いつでもここにおりますと、祈るように、心伝われと。
――――わたしの女神へ贈ります。
長くなってしまいましたが、お付き合いくださってありがとうございました。