刺繍靴が告げた残酷な嘘
涙雨が降り出していました。
冷たく冷えていく床に、聴衆達は居心地が悪そうにしています。
「―――これが、毒に犯された娘の物語でございます。……皆様、そんな悲しいお顔をなさらないでください。この先の希望は、ご存じでございますね。別の娘と成り果てても、お姫様と出会えたので娘は幸せでございました」
そう結んで、私はラアヒットヒャ様を見上げました。
ラアヒットヒャ様とファティマ姫は、親子であらせられるだけあってどことなく似ていらっしゃいます。
特に、言動の割に目の力をそれほどお持ちではない所がそっくり。
宴の間にいる全員を、片手で御する事はできましょう。
不愉快だとわたしの首を落とす事も。
けれども、この領土をお離れになられたらどうでしょうか。
他所に君臨する鷹の様な目、虎の様な目を前にしたら、借りてきた猫の様になられるに違いありません―――わたしの目の前でそうしているように。
今、親子二人は青ざめてわたしを見ていました。
その視線に、怯えた疑念が湧くのをみとめればみとめる程、わたしは申し訳なく思いました。
わたしは物語る事によって、怒りたいわけでも、泣きたいわけでもありませんでした。
もちろん、責めるつもりもありません。
今更ながらとても恥ずかしくて辛いので、出来れば忘れて頂きたいと思っています。
けれど、語り比べの数に入れる為、始めてしまった物語を約束の結びまで語らねばなりませんでした。
誰も得をしない空しい語りでしたが、それでも。
ラアヒットヒャ様は、顎髭をせわしなく弄り傍に控える召使いに命じました。
「シヴァンシカを連れて参れ」
「お妃様をでございますか? しかし、ご機嫌が―――」
「構わぬ、私の命令だと言って連れて参れ!!」
「か、かしこまりました」
ラアヒットヒャ様の剣幕に、召使いは急いでシヴァンシカ妃を連れて戻って来ました。
シヴァンシカ妃は、召使いからわたしの物語をかいつまんでお聞きになられたのでしょう、不機嫌な顔をして宴の間へとやって来ました。
「我が妃よ。私は今、恐ろしい物語をそこの娘から聞いた」
シヴァンシカ妃は目を細め、尖った顎を上げてお返事をなさいました。
「そうですか。あなた様は何事も素直に信じやすいお方。一体何を聞かされた事やら」
「そなたには得意の物語があったな? 富豪での不愉快な取り替え子の話だ。私は今、それに近い物語を聞いたぞ。だが筋書きが随分違っていた。シヴァンシカ、この娘は―――」
ホホホ、とシヴァンシカ妃。
宴の間の空気は張り詰め、凍り付いておりました。
「物語ではございませんか。そこな卑しい娘の語ったものはどうせ、私の物語を都合良く弄った物語でございましょう?」
「なるほど。ところでシヴァンシカ、そなたは私の兄の宮殿の配色を知っておるか?」
「……姉上様のご結婚の宴で一度訪れた事があります。とても壮大な宮殿で……確か、白と、青と、桃色の配色でございます」
宴の間はシーンとしていましたが、人々の目は騒がしくしていました。見開いたり、見合わせたり、閉じたり開いたり……。
「そうだ。荘厳で偉大な宮殿である。して、宮殿の外はどんな地理であったかな?」
何をそんな簡単な事を、といった具合にシヴァンシカ妃は鼻を鳴らされました。
「側を大河が流れておりましたね。河川港に商業船が行き交い、とても賑やかだったと思います」
「……うむ。我が兄、偉大なるマハラジャの領土、宮殿である。そこにはかつて、美しい姉妹がいた。語り部の娘よ。姉妹に名前を付けてみよ」
ラアヒットヒャ様はわたしにそう仰いました。
わたしはすぐに答えました。
「上の姫はアヴァンティカ姫、お妃様のお国の系統の名です。下の姫は―――」
もの凄い形相で、シヴァンシカ妃がわたしを睨んでいます。
わたしは恐ろしくなりましたが、震える声でその名を呼びました。
「ダミニ姫でございます。マハラジャ様が特に厚く信仰する雷の女神の名を与えられました」
「ああ……そうだ。それぞれその名で、私からも出生祝いをお贈りした。アヴァンティカ姫は療養の為離宮へ行く途中で惨殺され、ダミニ姫は同行した妾が攫ったと言われておる。惨殺された遺体は、顔が潰されていたものの、アヴァンティカ姫のサリーと装飾品を身につけていたからな。しかし、義姉上はあまりの事に心が混乱されたのであろう、惨殺された娘の方がダミニ姫だと騒ぎ、発狂してご自害されてしまわれたそうだ。どうにも不可解な事件であると感じていたが……まさか……こんな話を聞かされるとは……」
ラアヒットヒャ様は震える肩を落とし、深いため息を吐き出されました。そのお顔は、急速に老けて見えます。
わたしは唇をギュッと結び、目を閉じました。
お姉様にとっては悪魔の様なお方でしたが、わたしにとっては恋しい母でした。
今はどんな霞の中にいらっしゃる事でしょうか。
ロキ様が、わたしへ気遣うように寄り添い背を撫でながら、ラアヒットヒャ様に尋ねました。
「マハラジャから捜索の遣いは来なかったのですか?」
「私には来なかった。兄の領土とここは随分離れておるからな。事後報告だけである」
「ふぅむ……お妃同士の秘め事である故、まさか遠い外国に姫が連れられているとは思わなかったという事でしょうか……しかしお妃様からは極秘でシヴァンシカ妃へ、万が一を賭けて確認が来ているのでは?」
ラアヒットヒャ様は頷いて、シヴァンシカ妃に尋ねました。
その瞳は、早々に愛を失っておられるご様子でした。
まだ結論の出る前からこれでは、シヴァンシカ妃が気の毒に思います。
「シヴァンシカ、正直に申せ。そなたの姉上から尋ねられなかったのか?」
「……馬鹿馬鹿しい。作り話でございましょう?」
「シヴァンシカよ、マハラジャの元で拷問を受けたいのか?」
シヴァンシカ妃の顔色が変わりました。
「そこの娘を信じると仰るのですか……。人以下の娘ですよ……」
「人以下の娘が、どうしてこの様な物語を語れるのか。初めから語って頂こうか? お前の惨い仕打ちも―――マハラジャへ知れたら間違いとて温情を計れぬぞ。背がすり切れ肉が裂けるまで鞭打たれたいのか? 義姉上の頼みを忠実に守っただけなのであろう? 入れ違いが起こっていたと、知らなかったのであろう?」
わたしも、お母様がどうして手違いを疑わなかったのか気になっていましたので、お二方の会話を食い入る様に聞きました。
シヴァンシカ妃は、異国で拷問を受けたくなかったのでしょう。そして、もう逃げ場はないと観念なさったご様子で、急に薄ら笑いを浮かべ始めました。
「姉上様から、極秘で伝達は来ました。私の元へ連れて来られたのはダミニ姫の方ではないかと」
「やはり……お前はどうして確認をしなかったのだ」
「ククク……! 確認の伝達が来る前から、私はダミニ姫だと分かっておりました!!」
「なんだと!?」
この告白には、誰もが驚きました。
ラアヒットヒャ様は姫違いであったという―――どちらにしても許される事ではありませんが―――最後の糸を切られて、蒼白になっておられました。
「姉上様が追いやりたかったアヴァンティカ姫は、貴方様の兄上様と同じアメシスト色の瞳だと、ようく知っていましたから。そしてダミニ姫は姉上様に似た黒い瞳だという事も……」
「し、知っていて送還を願う母元へ返してやらなかったと言うのか……!!」
「ええ。姉上様に苦しんで欲しかった。姉上様はいつも、私の欲しいものを持っていた。姉上様がいなければ、マハラジャの妃になっていたのは私だったのだと今でも恨んでおりますの!」
そう叫んだシヴァンシカ妃の迫力は、凄まじいものでした。
誰もが目を見開き、圧倒されてしまいました。
わたしも、寄り添ってくださるロキ様の衣を思わずギュッと握り、醜い豹変に唾を飲みました。
シヴァンシカ妃は今が絶頂とばかりに、心地よさそうに暴露を続けました。
「当時は、子宝に恵まれている事にも腹を立てておりましたし、そんな頃に妾の子とはいえマハラジャの血を引く姫を送りつけようとする無神経も気に入らなかった。まさかまさかと思っている間に、間違いが起こったと分かった時、私は腹の底から笑いましたの。アハハハ、あの取り乱した筆跡の文書!! なんて素敵な贈り物でしょう。姉上様の溺愛するダミニ姫……しかし誰の加護もなく、無防備な、姉上様と同じ顔の……ハハハ、ハハハハハッ!!」
「シ、シヴァンシカ……!!」
狼狽するラアヒットヒャ様とは真逆に、氷の様な冷静さでロキ様がお尋ねになりました。
「しかし、マハラジャのお妃様をどのようにしてご納得させたのですか」
「姉の物だと言い張って離さない刺繍靴を、姉上様へアヴァンティカ姫だという証拠として送ってみたのさ。さすればホホホ、面白いくらい効果があったものだ」
わたしはそれを聞いて、目眩を覚えました。
ロキ様が傍にいなければ、後ろに倒れていたかもしれません。
まさか、あの刺繍靴がこれほどの事を成してしまうとは。
深い因縁を感じずにはいられませんでした。
そして、お母様は、一目でお姉様の物だと分かる程、その刺繍靴の事を覚えていらっしゃった……。
自分の縫った小さな刺繍が手元に送られて来た時、何を思われたのでしょう。
それよりも、証拠品ではなくひとまず姫を返してと、どうして仰ってくれなかったのでしょう!
「……自ら用意するよう手配した偽物の遺体を、ダミニ姫の遺体だと思い込んだのは、悪い方に考えるのを止められなかったからだろうか」
「知らぬ。さて、私をマハラジャの元へ送りますか?」
「シヴァンシカ……本当に何という事をしでかしたのか」
「あら、悔いはございません。夢のような日々でございました」
シヴァンシカ妃は、うっとりとした微笑みを浮かべて仰いました。
いつもはどことなく虚ろで退屈そうな印象の瞳に、たっぷりとした満足感を湛えていらっしゃいました。
「―――外の水が引くまで自室へ幽閉しておけ」
ラアヒットヒャ様は怒りを露わに召使いへ命令し、シヴァンシカ妃を睨み付けました。
「我が偉大なる兄上様に、何という事をしてくれたのだ」
「フン、貴方様はここへ追いやった兄上様を恨んでおられない。嫉妬した事はないのですか」
「……皆それを上手く抑え隠して生きているのだ」
「左様でございますか……。では目の前に憂さを晴らす機会があったら、如何なさいますの? コッソリと執着の対象を繋ぎ止めておけるとしたら?」
「……」
ホホホホ、と、シヴァンシカ妃は高らかに笑いました。
「誰も我慢など出来やしないわ!! するわけがない!! 偉大なマハラジャでさえ!! ホホホホホ!!」
「連れて行け!! 連れて行くのだ!!」
「お母様! いや! お母様を連れて行かないで! 全部アイツの嘘なのよ!!」
「ファティマ姫! 大人しくするのだ!!」
あまりの醜態でございましたので、皆その場面を見ては為らぬと伏せていました。
皆がそろそろと顔を上げたのは、シヴァンシカ妃の笑い声が遠くなり聞こえなくなった頃。
しかし、その笑い声はいつまでも私達を試す事でしょう。
*
それから、ラアヒットヒャ様はわたしに仰いました。
「取り返しのつかぬ事をしてしまった様だ。早急に兄上の元へお返しさせて頂きたい。そしてどうか、我々の非礼を許して欲しい。姫に何でも差し上げよう。温情を―――」
わたしは寒々しい気分で、それでもラアヒットヒャ様へ頭を下げました。
「ラアヒットヒャ様、わたしは……語りのご褒美を頂きたく思います」
「お、おお。勿論である。ロキラタ。そなたはまだ物語を持っているかもしれないが、すまぬが……」
ロキ様はため息を吐いて、わたしを見下ろしました。
透明な青い瞳が、諦めた様にわたしを見つめていました。
「はい。私めも、苦境を強いられた姫君へ贈り物をしたいと思います故、お譲りいたします」
「ロキ様……」
「参りました、ダミニ姫」
ロキ様は微笑んで、ツとわたしの背をラアヒットヒャ様の方へ押しました。
目前には、ラアヒットヒャ様が酷く疲れたお顔をして、サンパギータの宝石を差し出していらっしゃいました。
わたしは安堵で泣き出しそうになりながら、宝石へと手を伸ばしました。
こうしてわたしは、ようやく、サンパギータの宝石を手に入れたので、ございます。