剥離していく熱いルビィ
暴力シーンがあります。
あの人の手を引き、夜明け前の廻廊へ出ると全てが静かな青蛍石の中の様だった。
大理石の柵の向こうでは、街と川を越えた遠くの地平と空の境界線が細く紅く燃え始めていた。
とても綺麗だったので思わず二人で足を止め、景色に見入った。
目を覚ました小鳥がどこかで飛び立つ音で、ハッとして再び駆け出したわ。
あの人との二人きりの美しい思い出は、この一瞬だけ。
耳を澄ます余裕があったなら、朝霧が立ち上る中から神秘的なコーラスが聞こえたのではないかと、今でも信じている。
けれど、私達はそれを掻き分けて駆けた。
宮殿と街を隔てる大門の付近では、お姉様を連れて行く隊列が、出立せんばかりだった。
その隊列の横に、もう一回り大がかりな隊列があった。
それは別の場所へ発つお父様の隊だった。
お父様は片膝をついて、輿のカーテンから顔を出したお姉様の額に、祝福の口づけをされていた。
麗しいお父様と、美しいお姉様の、同じアメシスト色の瞳が見つめ合っている姿は、絵画の様だった。
私は用心深くあの人を荷の影に待たせ、その神聖な儀式へ駆け寄った。
お父様はすぐに気がついて、勢い余って飛びつく私を抱き留めてくださった。
「姫よ! 昨夜見送りの挨拶は済んだというのに、早起きをしたのだな。ありがとう、いい子だ。しかし、こんな所まで来てはならぬ。象に踏まれてしまうぞ」
「お父様、お願いします。私もついて行かせてください」
「しかし、お前のお姉様は病気なのだ。休ませてやらねばならぬ。そなたがいたら、離宮の少ない召使い達が看病に集中出来ぬだろう。それにそなたは、フフ、お転婆ゆえ騒がしくするだろう?」
「離宮についてお姉様の居心地が良いか確かめたら、隊と一緒にすぐ引き返します。ですから、お願い。お母様も良いと仰っていました」
自分の領土内を娘が移動する事を、お父様は特に問題に思わなかった。行き先も離宮。家紋の旗を掲げた隊列に、誰も仇なす者などいないはず。だからお父様は私に甘く微笑んだ。
「姉思いの良い姫だ。では、気をつけて行って参れ」
「ありがとうございます。お父様も、お気をつけて」
お父様は頷いて、威風堂々とした隊列を率いて出立された。
私はホッとしていた。
傍へやって来た離宮隊の隊長に「よろしく」とご挨拶をして、荷の影に隠れていたあの人を手招きした。
あの人はヴェールで固く顔を隠して、しずしずと寄って来た。
「姫、この女性は?」
「私のお気に入りの侍女です。道中お姉様と私にお話をしてくれるの。輿は四人乗りだし、三人一緒に乗っても構わないわよね?」
「勿論です。輿の人数を増やしましょう」
輿の追加用意をしなくてよくなった隊長は、安堵した表情で微笑み頷いた。
私も安堵した。
「ありがとう。さあ、乗りなさい」
「はい」
輿のカーテンを捲って私達二人が中を覗いた時の、お姉様の顔ときたら……。
こうして、私とあの人はまんまとお姉様の輿に乗り込んだのよ。
*
紺碧の空の頂点にお日様が輝く頃、宮殿と離宮の中間の街に到着した。
街には小さな河川港があって賑わっていた。
私は少し気分が悪いと嘘をつき、お姉様とあの人を連れ立って河の方へ向かった。
ここの河川港は岸の方が浅く、沖に留まる大型船へ荷を運ぶ為、小舟がびっしりとひしめいていた。
私は、行き交う小舟の間を縫うように要領よく商売をしている少年の小舟に目をつけ、破格で買った。
奴隷だという少年は驚きつつも、すぐさま雇い主にお金を叩きつけて「お礼にお供をしたい」と舞い戻ってきた。
これは渡りに船だったわ。女子供だけじゃ、危ないものね。
そんなやりとりをしつつ、私はお姉様へ、金に宝石がたくさん添えられた装飾品と、見事な刺繍のサリーを与えた。
「どこかで売れば、お屋敷を買えるわ。さぁ、これも……」
懐に隠せるだけ持ってきた宝石を手渡して、お姉様の銀の装飾品と着古したサリーを身につけた。
「上手く逃げてね、お姉様。うんと遠くに行くのよ」
「ありがとう……これを……」
お姉様は私に、あの小さな刺繍靴を手渡した。
「もう、必要ないから」
「わかったわ……」
手を握ったり、抱き合ったりしなかった。
離したくなくなりそうだったから。
けれど、最後にお顔が見たかった。
お姉様は、ヴェールを取って泣き顔を見せてくれた。
小舟の上で私達を眺めていた元奴隷の少年が、息を飲むのが聞こえた。
こんな時だというのに、随分誇らしく思ったわ。
彼はきっと、この美しいお姉様に忠誠を誓うに違いないと安心もした。
「幸せになってね」
「祝福を」
あの人が私にかかみこんだ。
私はヴェールを少しずらして額を差し出し、祝福の口づけを許した。
「さようなら。お姉様をよろしくお願いいたします」
「仰せの通りに」
小舟は岸を離れ、たくさんの船影にスルリと入り込み見えなくなった。
私はそこで初めて泣き出して、しゃくり上げて踵を返した。
街を一人で歩くのは初めてで、ストールと涙で視界も狭かった。そのせいで少し迷ってしまったけれど、押し寄せる心細さは迷子になったからではなかった。
私はお姉様のストールで顔を隠し、お姉様になりきって嘘を吐く練習を口の中で繰り返していた。
『妹は気分が悪くなって宮殿を恋しがり、宮殿へ行く商船に侍女と乗っていってしまった』
バレたら、隊員達は、すぐさまお姉様と侍女を捜索するだろう。
それは駄目。
まだそう遠くへ行けていない筈だから、もっと時間を稼がなければ。
上手くいくかしら?
『宮殿へ帰って行く妹を見たら、自分も帰りたくなってしまった』
きっと聞き入れられない。
けれど、なんとしても予定を狂わさないと、隊員達だって危ない目に遭ってしまう。
『自分も調子が悪いと、この街に何泊かして奇襲の予定を狂わす。通る路を変えてしまうとか……』
ようやく正しい路を見つけたらしく、遠くに待機する隊が見えてきた。
隊員が私に気づいて、駆け寄ってくるのを見てホッとした矢先、私は何者かに横様に身体を抱えられた。
そこからはあっという間。
悲鳴を上げる間もなく口を塞がれ、視界に入った地面が進行方向とは逆にもの凄い早さで遠ざかって行った。私を抱えた者は、建物の角を何度も曲がり、壁によじ登って、何かに飛び移って……私は、追いかけてくる隊員の怒声を命綱の様に聞いていたけれど、とうとう聞こえなくなってしまった。
何者かは私を担いだまま馬に乗り、風のように駆けた。
その後を、同じく馬に乗った十数名の男達がついて来ていた。
私はようやく悟った。
お母様の用意したならず者達は、隊の後をずっと付けて来ていたか、あの街が待機場所だったのだと。
そこへ私が一人でふらふらと現れて、舌なめずりしたに違いない。
彼らは送迎の一隊と争うよりも、ずっと容易く私をさらってしまったのよ。
「待ちなさい! 私はお姉様じゃないわ!!」
そう叫んでも、誰も相手にしてくれなかった。
彼らは私の顔もお姉様の顔も、知らなかったから。
腕が丸太の様に太い男が、ガハハと唾を飛ばしてがなったわ。
「送迎隊の奴らが姫君の名前を叫んでいたではないか!」
そうして笑われながら、彼らが落ち着く場所まで移動すると、サリーと装飾品を奪われた。
逃げようと必死で抵抗する視界の端に、痩せた女の子が黒髪を掴まれ引きずられて来て……私は恐ろしい事柄に飛び込んでしまったとようやく気づいたけれど、もうあとの祭りだった。
長い間縛られたまま荷車に揺られ、お母様の妹君―――叔母様が嫁がれたという外国へ連れていかれた。
私は、そこで叔母様に手違いを伝えれば保護してもらえると思っていた。お母様はきっと私を探しているはず。まず思い付くのは、ここに違いないと思っていたのよ。
だから過酷な状況でも取り乱さずに、叔母様へ引き渡される時を待った。
そしてその時が来た。そこは自分が暮らしていた宮殿よりも、とても小さ―――こじんまりとしていた。私は、ようやく助かるとホッとした。
けれど、連れていかれた小部屋で初めて会う叔母様は、訴える私に対し、冷笑しか与えてくれなかった。
叔母さまは部屋から人を払い、持っていた扇子を空いている手の平に打ち付け音を立てて、言った。
「ホホホ、私を騙そうと言うのか。まだ幼いのに、とびきり卑しい血を引いているだけあるな」
私は驚いて、抗議しました。
「お父様もお母様もクシャトリアよ!」
「なにを言う! お前の母は階級外の流れ者ではないか! その子となれば、もはや人以下。姉上様はそんな娘を、よくもまぁ、ここまで育てたものだ」
「え……? ど、どういう事です?」
戸惑う私に、さも楽しそうに叔母様は微笑みました。
「おや、知らぬのか。お前が母と思っていたお方は、最初の娘を死産されたのよ……」
「そんな筈……」
お姉様は生きて、成長していた。
そう訴えようとする私に、叔母様は被すように言った。
「同じ時期に、夫の拾ってきた妾も娘を産んだ。万が一地位を奪われては敵わないと、死んだ赤子と健康な赤子を無理矢理取り替え、自分の娘だと偽っていたのさ。それがお前だよ」
叔母様は呆然とする私を、「そうか、知らなかったのか」と、さも面白そうに見て笑った。
「ああ可笑しい。すぐに次の姫をご出産された事だし、お前は随分疎まれただろうねぇ、ククク……」
叔母様の笑い声と一緒に、お母様の声が私の頭の中で響き渡った。
『お父様は苦労してその鳥を捕まえたの』
『お姉様には秘密』
*
刺繍靴。
冷たい態度。
姉妹差別。
私への甘い言葉と、お姉さまへの棘の言葉。
幻の様な美貌。
真鍮の鍵。
鳥かご。
私のお姉さま。
『あの人は、どうして鍵があるのに逃げないの?』
『わたしと離れたくないと……』
*
私は稲妻に打たれた様に全てを理解し、膝から崩れ落ちた。
「そんな……」
「ホホホ、人以下風情が、今まで夢を見れてよかったではないこと? しかし、夢は終わりだ。これからはこの宮殿内で卑しく穢らわしい仕事をさせてやろう。……それにしても姉上様は、随分な面倒を押し付けてきたものだ。ああ、忌まわしい」
「ま、待ってください!! 本当に私は末の姫です!! ダミニ……キャッ!!」
縋りつこうとする私の頬を、扇子の芯が打ちすえ、皮膚を切り裂いた。
ツと血の伝う感覚に恐怖を感じたわ。
「卑しいものが高貴な姫の名を口にするんじゃない!! ああっ、本当に面倒な娘を押し付けられた。―――そうだ。これから宮殿の周りは水に覆われ退屈になる事だし、その間じっくりと躾てやろう」
「本当なの!! 間違って攫われたの!! お母様に確かめてください!!」
叔母様は叫ぶ私を再び扇子で打ち、倒れた私を置いて小部屋の扉を閉めてしまった。
それからは、恐ろしい日々だった。
叔母様は私がいつまでも「違う」と訴えるので、毎日私を懲らしめに来た。
否定と蔑みと体罰は、私をどんどん蝕んでいった。
「私は人以下です」と、復唱を強要された。それを言わせる為に、叔母様は何でもした。
どうしても言わない私の小指を甲側に曲げて、それでも言わないと、踏みつけて潰してしまった。
私は絶叫して床を転げまわり、薬指に手をかけられるとすぐに屈してしまった。
「もうやめて!! 私は人以下です!」
「『やめてください』でしょう? 本当になんの躾もされなかったのね」
「やめてください、お願いします。もう……お願いします」
自分の中に輝いていたものがどんどん剝がされて、その度に心から温度が奪われていく様だった。
自分が何者か分からなくなってきて、それでも度々繰り返した。「私はお姉さまではない」……。
ある日、叔母様は屈強な男を小部屋に連れ込んで、「お前は何者だ」と、可笑しそうに尋ねた。
私は、自分の中に残っていた最後の輝きを―――自分の名を―――答えようとした。
その瞬間、男の持っていた鞭がうなった。鞭は大きな音を立てて床板を撃ち、撃たれた箇所は抉れてささくれだった。
叔母様は男に私の背後へ回るように命令し、ニヤリと笑った。
「ひ……」
「さぁ、答えよ。お前は?」
「……わ、私は……ダミ……」
その瞬間、炎の様に熱い衝撃が背を駆け抜けた。
声も出せずに床に伏す私に、声が叩きつけてくる。
「お前は名がない人以下の娘だ!」
ヒュッと、恐ろしい音が聞こえて再び炎の様に熱い衝撃。先に受けた痛みと重なって、目の前がチカチカと光った。
私は思わず「お母様助けて!!」と叫び、叔母様の不興を買って三度目の激痛を撃ち付けられた。
恐ろしくて目を閉じる事が出来ず、自分の血が飛び散るのを目の端に見た。
そして、私の中で何かが剥がれ落ちた。
固く蹲って、欠落していく心の中で必死に繰り返した。
―――私はお姉様。あの人の子供。
―――お姉さまは優しい。あの人はお話が上手。
大人しくなった私に、お妃様は満足気に仰いました。
「さぁ、お前は誰だ」
「……」
答えられませんでした。
自分が誰か答えようとすると、必死でそれを止める誰かが喉を塞ぐのです。
朦朧とする私の顔を掴み、お妃様は私の目を覗き込みました。
お妃様のお顔は誰か懐かしい方にそっくりで、とても恋しいのに思い出せず、涙が零れました。
「おお、イライラする。薄汚くて卑しくて、醜い。傲慢な女の娘。奴隷以下、人以下の娘」
「……その通りでございます……」
私はとうとう、素直に毒を飲み込みました。
私はその毒で死にました。
これこのように、物語の中でしかもう語る事が出来ません。