宝物に宝物を隠して
お姉様と一緒の寝台で寝ると言うと、侍女達は顔を見合わせていた。
母の病気に不安げな小さな姫のおねだりに逆らえない母性と、愛されていない為にお見舞いすら出来ない姫への同情に、侍女達は顔を見合わせ、最後は優しく微笑んでくれた。
「まあ……仲がよろしいこと」
「お母様には内緒にしてね?」
「わかりました。お二人ともご不安でしょうが、私どもに任せてごゆっくりお休みくださいませ」
「ありがとう、ビラマ。眠る前に、お茶とお菓子を届けてくれる?」
「かしこまりました」
私は小さく歓声を上げて侍女のビラマに抱きついて、彼女のヴェールに口づけを落とし彼女を喜ばせてあげた。
それからお姉様の細い手を引いて、寝台へ引っ張りこみ、クスクス笑う。
お姉様も、シーツの中でようやく笑顔を見せてくれて、嬉しかった。
すぐに用意されたお茶とお菓子を布団の上で分けて、「朝まで二人にしてね」とお願いをした。
侍女達がほっこり笑って頷き、お母様の看護の為に部屋を出て行ってから、お姉様と二人でお喋りをした。
いつもお姉様と仲良くすると、お母様が気難しくなられたり私と比べて酷い言葉をかけたりして、こうして喋る事が出来なかったから、有頂天だった。
お姉様も嬉しそうで、頬を少し染めて健康な少女みたいになっていた。
「あなたにまだ嫌われていなくて嬉しいわ」
「まあ、どうして私がお姉様を嫌うの?」
「だって……」
お姉様の言いたい事は、すぐに分かった。
だから、お姉様の手を取って気持ちを伝えた。
「私はお姉様を嫌ったりしない。お姉様は優しくて、勉強もうんと出来て、それからそれから、とっても綺麗。私の自慢よ。お姉様こそ、私を嫌いになっていなあい?」
私はお姉様の胸元にすり寄って甘えた。
お姉様は、鳥肉やマトンを食べさせてもらえないから、穢れの無い良い匂いがする。
「いいえ、好きよ。たった一人の妹だもの。それに」
お姉様は乱れた私の前髪を、そっと指で撫でつけ微笑んだ。
蝋燭の灯りでキラキラと潤むアメシストに、褒められる事を疑わない自信に満ちた自分の顔が映っていた。
「こんなに可愛い……」
「ありがとう、お姉様」
「大好きよ……。もう外は真っ暗ね。わたしがいて寝台が狭くない?」
「全然」
「じゃあ、おやすみなさい」
「駄目よ、寝ては駄目」
大人が五人は寝転がれる寝台の上で場所の遠慮をしながら眠ろうとするお姉様を慌てて揺り起こし、私は寝台からぴょんと飛び降りた。
「良いところに連れて行ってあげるって言ったでしょう?」
「……ここではなく?」
私はお腹の奥がくすぐったくなって笑いました。
私と眠る寝台を「良いところ」と思ってくれるなんて、いぢらしいお姉様。
「そうよ。さ、来て……」
「大丈夫なの?」
お姉様は、よく細かな礼儀作法で罰を受けていた。
私はその光景を見て礼儀作法を覚えた様なものだった。
「ねぇ、本当に大丈夫なの?」
もう一度、お姉様が聞いた。罰を恐れて。
「大丈夫よ」
私は、罰を受けた事がなかった。だから頷いた。
お姉様はどうしてこんなにビクビクしているのだろうと、思いながら。
* * * * *
恐ろしげな母の本性にまだ気づかぬ小さな姫が、その母との約束を今にも破ろうとしているところを、見守るしか出来ない歯がゆさに、聴衆も私も為す術も無く、幼子となって語る彼女を見つめていました。
しかし、その緊張感を、彼女は不思議な間で緩める時がありました。
即興で語っているからでしょうか、それとも不慣れだからでしょうか、定かではありませんが、時折目を瞑り次の発声を迷わせるのです。
何かを思い出しながら、という風にも見えましたが……私はそうと思いたくはありませんでした。
ほら、また不思議な間を作った。
そしてすぐに再び、声色と拍子を決めてじわじわと私達を締め付けていきます。
「宮殿の中は果てがあるのか心配になる程大きな建物だったから、住んでいても行った事のない場所が多くあった。私達は手を繋いで、薄暗い石床の廊下をひたひたと歩いた。誰も使われない廊下に灯の明かりはなく、窓から差し込む月明かりだけが頼りだった。ひた、ひた、ひた……」
月明かりの中薄暗い迷宮を息を殺して進む情景を彼女が語る時、彼女の横にもう一人の美しい少女の幻が見えてきました。
幸せに包まれた姫と、影を纏った姫が手を繋いで悪夢の中を歩いて行きます。
せめてその娘が足を止めてくれればと願わずにいられませんでした。
更に恐ろしい事に、私にはその幻の少女が何故かキタルファに見えるのです。
私が知っている、まだ少女のキタルファでした。
何故なら、私もキタルファの事を、金の幹の黒百合のようだと思っていたからです。
思わず立ち上がり、「待ちなさい」と声を掛けてしまいたくなる衝動に、密かに唇を歪めました。
「『鳥かごさん、お久しぶり。ねぇ、今日はお姉様と来たのよ。いつもみたいにお話を聞かせてちょうだい』私は無邪気にそう言って、鳥かごの中の人に駆け寄りました。お姉様はその人の美しさに呆然として、扉の傍で立ち尽くしていた。『どうしたのよ、お姉様。もっとこちらへ来てこの人を見て。とっても綺麗な人でしょう?』」
その時、姉の姫は囚人がどう見えたのでしょうか。
彼女の語りの中に、姉の心情は一切語られませんでした。
そういう手法ではなく、幼い姫は本当に分からなかったのでしょう。
「お姉様が恐る恐る鳥かごへ寄ると、鳥かごの中の人もこちらへ寄ってきた。私はその行動に違和感を感じた。だって、今まで私が訪ねても彼女が自ら寄ってくる事はなかったから。怖いお母様がいないからかしら、と、その時は思ったものよ―――お姉様は特別に綺麗な子供だから、同じ美しい人の興味を引けたのだと思うと、得意でもあり、詰まらなくもあった。更に鳥かごの中の人は、自分を見上げるお姉様を食い入る様に見つめ、名を尋ねた。名以外にも、色々尋ねた。楽しく暮らしているかだとか、何か困っている事はないかとか……彼女がお姉様に何かしてあげられるわけではないのに……私は驚いてしまって、お姉様と鳥かごの人を交互に見比べた。私の存在は二人にとって無になっていた。普段の私とお姉様が逆転してしまったかの様だった。むくれた私に気づいたお姉様が、鳥かごの人に言ってくれた。『お話を、して頂けるのでしょうか』」
ふ、と、彼女が小さくため息を漏らしました。
酷く影の濃いため息でした。
「鳥かごの中の人は、光が零れる様に微笑み頷いた。黒金剛石の様な瞳には、お姉様しか映っていなかった。私とお母様を見て、お姉様はいつもこんな気持ちだったのだろうかと、初めて気づいた。そして、鳥かごの中の人がいつもお話の前に唱える口上を……」
そう言って、彼女は長い間を取りました。
しかし、それは間ではなく、先に申し上げた発声の迷いや戸惑いのようでした。
彼女は震え出し、私の顔を見ました。
「いつもの、口上を……口上……が、唱えられました……」
彼女は恐れを孕んだ涙を瞳いっぱいに溜めて、吐き出しました。
「『神々が告げよと仰りますゆえ、広めましょう』」
私は、血が凍るかと思いました。
彼女は顔を覆ってすすり泣き始め、聴衆がざわめき、視線が私と彼女を行き来しました。
私は青ざめて、身動きすら出来ませんでした。
泣いている彼女に、手を差し伸べる余裕がなかったのです。この不甲斐なさを、私は一生悔やみます……。
「――――どうした、鳥かごの囚人はロキラタの物語の語り部だったのか、どうなのだ。もしも思いつきで話にその女を出したのならば、ロキラタに対し、なんと思いやりのない事か。その涙はそれを恥じているのか、それとも、その女の涙の演技なのか」
ラアヒットヒャ様が問い詰めました。
私の「ロキの物語」を甚くお気に召してくださって、あろうことか今のタイミングで琴線に触れてしまったご様子。ここまで来ると、彼はむしろ狂言回しの役ではないかと疑ってしまいます。
しかし、彼の顔は青ざめており、何かを恐れているようにも見えました。
「顔を上げよ!」
「……」
彼女はずぶ濡れのネズミの様に震えて、涙に濡れた顔を上げました。
その打ちひしがれた姿を見ると、この人がわざと人を不快にしようとしたなどとは全く思えませんでした。
私事になりますが、私にはご存じの通り、受け止めてもらえずに心に彷徨う愛があります。
本気で誰かを愛そうとも、その分はきっと使う事がないだろうと思っていた愛です。
しかし今、心がその愛を使え、と、泣き笑いをしている様な気がしました。
耐えがたい内容だが余所を向かず、彼女に語らせてやるのだ、と。
「なんなのだ、何がしたかったのだ。語りの途中で泣き出すなど――――甚く興ざめである」
「ラアヒットヒャ様」
私は声を上げました。
主の為に立ち上り語り始めた彼女の、十分の一の勇気も要りません。
「結末まで聞かねば分からぬ事があります。鳥かごの中の人は、解放されるかも知れない。それとも、同じ口上を使う別人かも知れない。心の中でそうして楽しむのも、物語の醍醐味ではありませんか」
「……そなたがそう言うなら……しかし……」
ラアヒットヒャ様は何か他に引っかかる所がある様子だ、と、私はようやく勘づきました。
そうなると、「その話は誰の話なのか」と聞いた不可解さも不可解ではなくなりそうです。
ラアヒットヒャ様は、私と同じ心持ちなのかも知れない。
――――本当は先を聞きたくない。けれど、確かめずにはいられない。
申し訳ないが、と思いながら、私は彼の返事を待ちませんでした。
自分の心の安寧の為に耳を塞ぐまい。
彼女のなんらかの目的の為に、私は聞こう。
愚かにも、未だ捨てきれずにいた過去の愛を解いて、衣にして贈ろう。一枚、二枚、三枚……。いくらでも。
心から白い花びらが剥がれる様だ。
発する事も聞いてもらう事も出来なかった、小さな声が消えていく。
(サンパギータ、サンパギータ)
この時の為の声だったのだと、気づきながら。
私は彼女を真っ直ぐ見て伝えました。
「あなたの話が聞きたいです」
「……でも……」
「彼女の口上を反芻なさい、語り部は意味を捉えず言葉を放ってはいけない。鳥かごの中の女性はなんと仰っていましたか?」
「……神々が……告げよと仰りますゆえ……」
彼女が震える息を吸いました。
私は頷いて先を促し、彼女の震える声に自分の声を添わせました。
「広めましょう」
――――聞いて。
何処かでキタルファの声が聞こえた気がしました。
*
彼女は再び語り始めます。
「その夜、鳥かごの中の人は殊更素晴らしい物語を語ってくれた。それは離ればなれの親子の再会の物語だった。私とお姉様は泣きながら寄り添ってそれを聞いた。それからというもの、お姉様はボンヤリとするようになった。少ない食事の半分も喉に通らなくなった様子で、元々痩せていた身体がもっと痩せていった。お母様はそれを醜いと言って、あざ笑っていた。私には原因が分かっていた。お姉様は、鳥かごの中の人に私以上に心を奪われてしまったのだ。けれど、私はお姉様を決して鳥かごの部屋へ誘わなかった。お姉様を連れて行けば、鳥かごの中の人はお姉様しか見ないだろうと分かっていたから。愛情と関心を欲しいままにしてきた私には、堪えられなかった。私は、天まで届き豊穣の大地を横断する大宮殿で誰よりも愛されている姫であるのに! そうと扱わない者と、それ邪魔をする者が存在する事に、心から驚き、傷つき、怒り―――自己嫌悪して、その先で激しく嫉妬をした。あらゆる贈り物が意味を持たず、あらゆる珍味が味を持たず、あらゆる楽しみが楽しみでなくなった。ただひたすら、鳥かごの中の人の関心と、お姉様の関心、両方が欲しくて欲しくて仕方が無くなった。もはやもはやもはや、私の心は、同じ事ばかり叫んでいた! ああ、どうしたら! 何を与えればいい? それとも――――何を奪えば? それはどちらから? どちらにどうしたら、私はあの二人の前に君臨できるのだろうか!!」
外から湿気を含んだ風が入り込んで来ました。
乾期と聞いていたのですが、含み笑いの様な雷の前兆が聞こえてきて、皆首を伸ばし外を見、そして語る彼女を恐ろしげに見ました。
皆こう思いました――――この娘は天気を操ったのだろうか?
皆の表情に浮かんでいたのは、サンパギータ様へ対するような信仰的な畏怖ではありません。
彼らが感じているものは、肉食獣に怯える草食動物の様な直感的・本能的な恐れでした。
恐らくそれは血統からくる覇気です。野生の虎と対峙した気分です。
虎は今まで子猫の為りをして、愛らしい声で語っていたのです。
「私は与え、奪う事に決めた。鳥かごの中の人には自由を。そして、お姉様にはその人との別離を……」
宮殿を追い出されるかもしれないという恐れよりも、その考えに取り付かれていた。
* * * * * *
鍵を探し出すのに、一年かかった。
お母様にそれとなく聞いても、鍵の在処を知らなかった
お母様は、自分も鳥かごの鍵を欲しくて欲しくて仕方が無いご様子だった。
「お母様もあの人を出してあげたいの?」
「ええ、あの人を追い出してやりたいわ。それに私が中に入れたら、籠の奥に逃げてしまっても捕まえられるでしょう?」
お母様はそういって目をギラギラさせていた。
お母様はあの人を追い出したいのに捕まえたい。
それは、なんとなく、私の気持ちのバラバラ加減と似ている様な気がした。
ある時、宮殿へ鍵師の奥様だと名乗る女性が忍び込み、夫を返せと騒ぎを起こした。
その女性は刃物を持って暴れまわり、四人の死者が出た。
私は何故かすぐにピンと来たのよ。
その女性の夫は―――鍵師は殺されている。って。
そして、糸を手繰る間もなく、お父様は鳥かごの鍵を新しく作ったのだと分かった。
「鍵を失くされたんだわ」
それとも、新しい鍵にした?
どちらにしても、鳥かごに何かが起こっている事は確かだった。
お母様が鍵を見つけたのかしら?
けれど、そうではなかった。
ある午後、鍵の事ばかり考えて一人中庭の花々を眺めていると、獅子狗が小さな赤ちゃん用の刺繍靴を咥えてやって来た。
「まあ、何処からこんなものを?」
取り上げると、コロリと真鍮の鍵が転がり落ちた。
……向こうから、慌てて駆けて来る人影。
私はわなわなと震えながら鍵を拾い、ゆっくりと顔を上げた。
お姉様が、息を切らして青ざめていた。
「……お願い……その鍵を返して」
「この鍵は何の鍵?」
「それは……それは―――」
「お母様に言いつけるわよ!」
お姉様はとても傷ついた顔をした。
味方だと思っていたのに、という声を表情で出していた。
けれど、私だって味方だと思っていたのに、と思った。
「私に内緒であの人に会っていたのね」
「ごめんなさい―――どうしても、どうしても会いたくて……深夜にコッソリと会いに……」
「どうして! どうやって鍵を?」
「鳥かごの部屋から出てくるお父様の後に、コッソリついて行ったのよ……。そして、隠し場所を見たの。ああ、お願い! 黙っていて!! お願い!!」
縋り付くお姉様を「そんな勇気があるなんて」と、呆然と見下ろしていたけれど、すぐに疑問が湧いたわ。
「待って、どうしてあの人は鳥かごから出なかったの?」
すると、お姉様はしゃくり上げながら言った。
「わ、わ、わたしと離れたくないからって……」
それを聞いた途端、お姉様が、私の世界を吸い込んでいく様な錯覚を見た。
何もかも歪んで、全てがお姉様に吸い込まれていく様な。
私はお母様の元へと駆け出した。
後ろで「お願い、許して」と泣き崩れるお姉様に、見向きもせず。
*
後から我に返って心配したほど、お姉様は罰を受けなかった。
けれど、お母様はその夜から、お姉様を小さな部屋へ閉じ込めた。
私は「そうか、お姉様も閉じ込めてしまえば良かったのか」と無表情のお母様を見上げていたわ。
お父様がお姉様は何処かと気になさる頃になると、お母様はこう言った。
「呼吸の病になっている様なのです。お医者様が空気の良い離宮へ移動させた方がいいと仰っていましたわ」
「そうか。可哀相に。あの子は元々食も細いし心配だ。是非そうするようにすぐに支度をしなさい」
かしこまりました、と、優雅に礼をするお母様の唇が笑んでいたのを見たのは、小さな私だけ。
それから、半月後にお姉様が離宮へ送られる事となった。
その半月の間、お母様は人を払い、見慣れぬ男達を呼んでこそこそと相談をするようになった。
そして、私はコッソリと聞いてしまったの。
お母様は、男達にこんな事を命じていた。
「離宮へ向かう一行を襲い、あの娘をそなたたちの主の元へ連れて行きなさい。一行は全て殺し、誰にも気づかれぬよう」
「かしこまりました」
「あの娘だけは殺すな。もし暴れても適度に痛めつけ、妹の元へ届けよ」
「しかし、スルタン様が姫を捜索されましょう。すぐに足がつくのでは」
「ほほほ、どこかの家畜同然の娘を奇襲に連れてお行き。黒髪を選ぶんだよ。姫の服を着せ、装飾で飾り、殺して現場へ捨て置けばよい。――――顔を潰すのを忘れぬようにな」
私が物陰で身震いしているのも知らず、お母様は愉快そうに笑っていた。
「ほほほ、あの女と娘に地獄を与えよう。希望のない幽閉と、遠い異国での屈辱的な身分と絶望。決して殺さぬ。決して逃がさぬ。さあ、出向は明日だ。行け!!」
(お母様は、お姉様を離宮へ追いやるどころか、異国へ捨てようとしている)
私はそっとその場を離れ、お姉様が閉じ込められている小部屋へと駆け出したわ。
小部屋の門番を騙して扉を開けさせ、中へ入ると、お姉様は石床の上に座り、粗末な寝台に突っ伏して眠っていた。
私はそっと近づいて、お姉様の煤けた顔を指で拭った。
すると、お姉様の頬を涙が一粒つたった。
涙は華奢な顎から落ちた。私はそれを目で追って、首を傾げた。
お姉様は、膝の上にあの小さな刺繍靴を大事そうに持っていた。
鼻をすする音に目を上げると、腫れた目を開いてお姉様が私を見ていた。
「……お母様が、生まれて来るわたしの為に刺繍してくれた靴なのですって」
「……赤ちゃんのお姉様に?」
「ええ。お母様が、わたしの為に……」
ギュッと刺繍靴を抱きしめて、お姉様は目を閉じた。
道筋を知り尽くした涙が、どんどんお姉様の頬をつたった。
「それなのに、どうしてお母様は……きっと理想の娘じゃなかったのね。こんなに悪い娘ですものね……」
何も言えず首を振る私を、お姉様は見ていなかった。
か細い息を吐いて、言った。
「私は離宮へおいやられるのでしょう。でも……その方がきっと心穏やか。あなたを羨む事も、憎む事も、ない」
「私を憎んでいたの?」
「ごめんなさい」
「私を嫌いだったの?」
「……」
私は泣きながら立ち上がって、部屋を後にした。
扉を閉める時、小さな声がした。
「好きだったわ」
私は黙って扉を閉めた。
そして、色んな事を決めた。
*
真夜中、お母様の部屋へ行くとお母様はよく眠っていた。
明日恐ろしい企みが成されるというのに、ようやく安寧を得た人みたいに穏やかな寝顔だった。
私はその寝顔に問いかけた。
――――お姉様は、赤ちゃんの時にあなたにもらった刺繍靴を、未だ大事に持っています。
お母様が、寝返りを打った。
――――どうして愛してあげなかったの?
お姉様は、刺繍靴に、別の宝物を入れてしまった。
それを罰するのは何故?
鍵は、お母様の宝石箱に入っていた。
私はそれを抓み、そっとお母様の寝所を後にした。
私は世間知らずで、それが最後のお別れになるなんて少しも思わなかった。
* * * *
行き慣れた暗い迷宮を進みました。
お父様が鳥かごの部屋から出て行くのを待って、辺りがシーンとなるまで待って……ほとんど朝方に、するりと部屋へ忍び込みました。
そして私は、そっと美しい囚われの人に近寄って、鍵を差し出しました。
「……お姫様、これは……」
「見ての通り、お姉様が隠していた鍵です」
「……あの子は……あなたのお姉様は」
「明日、離宮へ送られます。けれど本当は、異国へ捨てられるみたい」
そう言うと、その人は床にへたり込んで泣きました。
私は胸が痛くてたまりませんでした。
こんな風にお姉様の為に泣いてくれる人が、宮殿にいるでしょうか。
「泣かないで。私がお姉様を助けます。そして逃がすわ。だから、あなたも逃げて。きっと上手く逃がすわ。そうしたら、お姉様を託してもいいかしら?」
その人はキラキラ光る強い瞳で私を見て、頷きました。
私も頷きました。
「今までお話をしてくれてありがとう」
私は生まれて初めて、お父様とお母様以外の人に頭を下げたので、ございます。