それは誰の話なのかと聞かれて
全ての語り比べの夜を見て参りましたが、これほど語る事が難しい夜は無かったように思います。
聴衆は皆、嫌悪の対象が語る物語など聞きたくないとばかりに耳を塞ぎ、食器の音を立て、必要の無いお喋りをし、わざと騒がしくして、わたしの声を拒んでいました。
語りが始まるといつもなら広間の隅に大人しく控える召使いや奴隷も、主人達に尽くす態でせわしく足音を立てて動き回り、落ち着きません。
そのただ中にポツンと立って、空白の機会を待つものの、一向にそんなものは来てくれませんでした。
ラアヒットヒャ様が諫めてくださらないかと思いましたが、わたしのような者を庇い、品を落とすような事はされませんでした。
皆が勝手におさまるか、誰かがなんとかするのを待つ事が、この宮殿の頂点のお考えとあらば、わたしは為す術もありません。
「どうなさったの、語らないのならお下がりなさいよ」
ファティマ姫がクスクス笑って、扇子をヒラヒラさせています。
彼女は水鳥が湖面を滑る様にロキ様の正面へ行き、ふわりと座りました。
「ロキラタ様、もうすぐあなたの勝ちですわ」
「嬉しい事を仰る。どうしてお分かりなのですか?」
「だってちっとも語らないじゃありませんか。わたくし達の時間を無駄にしたのだもの、謝罪させて跪かせなくては」
「なるほど。では、彼女が語ったら、姫は感謝して跪くのですね」
「そんな事はしないわ。本当に面白い方ですこと」
ファティマ姫が鈴を転がすように笑って、ロキ様にすり寄りました。そういう時だけ、子供らしく触れて彼の警戒を軽くしているのです。
ロキ様は、彼女にひとつ微笑んで仰いました。
「ファティマ姫、語り部は聞く者がいなければ語れません」
ファティマ姫が宴の間を見渡して、ふふふと笑いました。
「ええ、本当に」
「私にも、彼女の様な経験があります」
「まぁ……ロキラタ様のお話を聞かないなんて……」
「そういう場合、どうしたらいいか彼女に教えてあげましょう。皆様が時間を浪費しないように」
「……必要ないわ。だってあの者は語り部でもなんでもない……」
ファティマ姫が不服そうに肩を震わせ怪訝そうな声を上げましたが、ラアヒットヒャ様がお止めになられました。
「面白いではないか。そなたの語りのコツを聞きたいものだ。その者に教えてやるがいい。立ち尽くしているだけの娘などつまらぬからな」
「かしこまりました」
ロキ様がラアヒットヒャ様へ一礼し、わたしを見ました。
切れ長の瞳は微笑んでいるようにも、睨んでいるようにも見えました。視線は、今まで見た事のない程真面目なものでした。
「どのような時でも語るのです」
短い助言に、皆がキョトンとしました。
ファティマ姫は「まあ」と、ホッとした様に笑い声を上げました。
「ロキラタ様ったら、意外と意地悪ですこと」
「ええそうです。意地悪です」
「うふふ。ほらお前、早く語りなさいよ」
「どうぞ。あなたが今立ち尽くしているのは、どんな語り部もぶつかる壁の前です。意地悪をされても無関心にされても、横やりや悪意を投げられても、それでも語ってご覧。その場の誰もが耳を塞いでも、語り部の女神様だけは、必ず聞いてくれていますから」
ロキ様はそう仰って優しく微笑み、わたしの脇にいるサンパギータを手で示しました。
「ほら、サンパギータ様もあなたの語りを聞きたそうですよ」
「え?」
そう言われてサンパギータの方を見ると、私を見上げているではありませんか。
美しい遊緑色の双眸を瞬かせ、サンパギータが唇を動かしました。
『今夜は、どんな物語に、しようかしら』
*
頼りなさげに伏せられていた睫が鳥の翼のごとく広がり、黒くつぶらな瞳に輝きが一つ立つのを見たとき、今後手に入れる財産の全てが無価値になったと、心地よく諦念致しました。
華奢な身体を若木の様に伸ばし、細い顎を僅かに上げる姿を見て、新しい伝説を見たがる神々はこんな気分だったのだろうと、笑い出したくもありました。
てんで素人の彼女の語りを、ここまで期待してしまうのですから恋とは恐ろしいものです。
しかし、彼女の語りが無事に終わった時、恋の作用ではなかったと打ちのめされる予感もありました。
なにしろ、今語ろうとしている美しい娘は、語り比べでサンパギータ様が語った物語を全て紡いだ娘なのだから。
私は彼女が語りの声を上げる前から彼女の語りの虜となって、蕩け崩れないように氷の芯より静かに息を潜めて見守りました。
いよいよ彼女が声を発そうとした時、チャリンと銀の匙が幾つか落とされました。
か細い彼女の喉が、ピクリと揺れました。
私には如何様にも助け船を出す器量がありますが、何もしませんでした。
彼女が今まさに作り上げようとしている世界観を壊してしまう損失を考えると、耐えた方が良いと判断したのです。
そして、その勘は正しかった。
「金貨の零れ落ちる音など、聞き飽きていたわ」
驚いたことに、彼女は別人の様に乱暴に言い放ちました。
意外な言葉に思わず顔を上げた人々へ、彼女は捲し立てました。
「私の住まう宮殿は、広く平らな大地に縦にも横にも長く伸び、配色は白と青と桃色。どのバルコニーからも領土が見渡せた。何千何万という建物が密集し、昼は埃を舞上げ、夜は灯火となって瞬いていた。その中央を大きな川が大蛇のようにうねり、船が行き交いひしめいていた。季節ごとに選ぶ離宮は東西南北に九つ。夏に氷を食べたがる私の為に、領土で最も北の土地に、もう一つを新しく建設中だった。あらゆる色の宝石をおはじきにして戯れたのは、この広間より広い自室。シルクで織られたペルシア絨毯の上には七人の立派な侍女達がくつろぎ微笑んで……マーヒ、ニシャ、アユーシ、サクシ、ビラマ、ダクシャ、ディピカ……琥珀を連ねたサン・キャッチャーの光が煩いほど散る中、この私へ微笑んでいた。皆クシャトリアの美しい娘達だった。それから、そう……スパンコールが煌めくトルコ刺繍のレエスカーテンにじゃれるのは、獅子狗と白い虎。白い虎の毛並みをご存じ?」
捲し立てられる内容に、ある者は猜疑と侮蔑のこもった苦笑いをし、ある者は眉をひそめ、ある者はただ目を丸くするといった具合に彼女へ注目が集まりました。
「奴隷以下の娘が、何故そんな景色を語れるのだ?」全ての者の目が、そう呻いていました。
白と青と桃色の配色の宮殿?
領土を見渡すバルコニーから見える景色?
何千何万の建物を見下ろす?
九つの離宮?
氷を食べる?
宝石のおはじきに、名高い絨毯とカーテン。七人の貴人を傅かせ、白い虎を、撫でる?
ここより豪奢な世界。ここより珍しい景色。それを目の前の娘が語っている。
皆こう思ったのです―――あり得ない、きっとほころびがある筈。もっと聞かねば。
悪意の中に飛び込んだも同然でしたが、その場の者全ての関心を一網打尽にしたのですから語り出しは成功です。語り部は聞いてもらう事が一番大事ですから。
しかし、それ以外の興味を持ったお方もおられました。
それは、ラアヒットヒャ様でした。
彼は再び語り出そうとした彼女を片手で制し、お尋ねになられました。
「それは誰の話なのか」
なんと無粋な質問だろうと、私は口に含んだ酒を吹きそうになったものです。
御前は今まで、物語と現実の区別がついていなかったのだろうか?
否、そんな事は無かった。
不可解な気持ちでその場を見守っていると、彼女が細く震える声で言いました。勝ち気そうに語っていた表情が、いつもの庇護欲をそそる表情に変わっています。
「……優美な湖上のラージャ様、彼女の事は……ナクサの姫とでもお呼びください」
卑屈な仮名が名乗られました。
その劇的な変化は、「語り出した誰か」が彼女の演技なのだと皆を我に返らせます。
一瞬でも圧倒されてしまった事に耐えられない者が数人、酒を煽り自分で自分をごまかしておりました。
ラアヒットヒャ様は顎髭を指先で乱し、彼女へ目をすぼめて呟きました。
「ナクサの姫……」
「……はい。わたしの作り話でございます。お気に召さなければ、わたしの首を跳ねてそれを語りの数にしてくださいませ」
「良いだろう。しかし、嘘は言うでないぞ」
「物語と嘘は違いますゆえ、わたしは嘘を言いません」
「語り部らしい言い草であるな、……語れ」
彼女は主に一礼し、顔を上げました。
その顔は、既に別人です。
元の彼女が恋しくて、泣きたくなる程でした。
私の知らない娘となって、彼女は語り出します。
* * * * * * *
―――贅沢三昧で何もかもを持っていたわ。「もう結構」と、何度言った事か!
お母様は私を溺愛して、なんでも望みを叶えて与えてくれた。
煌めく美しい衣装、床につくほどたっぷりとした色とりどりのヴェール、真珠の髪飾り、金数珠のネックレス、ナヴァラトナ(九つの宝石を連ねたお守り)、秘境に咲く花、喋る真っ白なヲウム、アハルテケの子馬……なんでも。
中でも特別気に入った贈り物は、とある部屋にある、巨大な鳥かごに入った女の人だった。
お父様がお出かけの時だけ、お母様はその鳥かごのある部屋へ連れて行ってくれた。
鳥かごの中の女の人は、誰とも比べられないほど美しい人だった。初めて見た時、一目で好きになった。
お母様は、その人に会う為には「三つの約束」が必要だと私に言った。
お父様には内緒。
お姉様にも内緒。
そして、その人が何を言ってきても鳥かごの扉を開けないこと。
「どうしてお父様に内緒なの?」
「お父様は、この人を独り占めしたがっているからよ。もしもこの事が知れたら、お父様はこの人を別の場所へ隠してしまうわ」
「どうしてお姉様に内緒なの?」
「お姉様は良い子じゃないからよ」
「あら、お姉様はとっても優しくて良い子よ。お母様はお姉様にどうしていつも辛く当たるの?」
「ああ、あなたこそ、なんて良い子なの……」
「うふ、お母様……ありがとう。ねぇ、でもどうして? どうしてお姉様には、何も贈り物をあげないの? いつも同じサリーを着ているから、綺麗な衣装を贈ってあげて欲しいの……それから、お食事も……お姉様は私より大きいのに、いつも私より小さな食器に少しだけしか食べ物を入れてもらえていないじゃない。どうして? お姉様にも、この人を見せて……」
そこで私は口を噤んだ。
お母様が、私を黙らせたい時や反省させたい時の笑顔を向けていたから。
けれど、お母様からの愛情に自信のあった私は、もう一つ、「どうして」と首を傾げて見せた。
「どうして鳥かごの扉を開けてはいけないの?」
「そうねぇ……この女は……この女は本当は鳥なのよ……。それをお父様が苦労して捕まえたの。だから、扉を開けて逃がしてしまったら……きっとお父様はあなたをお許しにならないわ」
「……お許しくださらなかったら、私どうなるの?」
「宮殿から捨てられてしまうかもしれないわ。そうなったら、木の割れ目にいる白い幼虫がお食事よ」
「いやよ! お母様、そんな事をしないわね? 言う事を聞きます」
予想外の言葉に、私は震え上がってお母様の手に縋り、お顔を見上げた。
お母様は、あまぁく「ほほほ」と微笑んで、私の手を引き、鳥かごのある部屋を出て振り返ると、部屋の扉が閉まるまで「ほほほ、ほほほほほ」と、笑っていた。
私はお父様がお出かけする時、寂しくて泣いてばかりいたけれど、その時から泣かなくなった。
むしろ、お父様のお出かけを楽しみにするようになった。
その人は普段、鳥かごの中に備えられた豪奢な寝台や絨毯の上に虚ろに座っているだけだったけれど、「お話をして」と頼むと、美しい声で喋った。ヲウムなんて比べものにならなかった。見た事も聞いた事もない世界へ、あっという間に連れて行ってくれた。
格子の隙間からお菓子を差し出すと、儚く微笑んでお礼を言うのよ。
けれど、ほとんど心が夢の中にいるみたいで、それがまた、たまらなく素敵だった。
たまに出る笑顔を見ると、蕩けそうになるの。
そうなると、お父様が苦労してこの人を捕まえた気持ちがよく分かった。独り占めしたい気持ちも。
お父様が、お出かけの多い方で良かった。
私は何度もその人に会いに行きたいとせがみ、「そんなに気に入ったの」と、お母様を呆れさせていた。
私は鳥かごの人に夢中だった。どうして人が鳥かごに入れられているのか、という疑問を一切持っていなかったのよ。
ある日、お父様がせっかくお出かけをしたのに、お母様の体調が優れないでいた。
「今日は無理よ。熱が出てしまったみたい」
寝台の中で、お母様は呻いていた。
侍女達がせわしなくお世話をしながら、「お医者様が来るのでお姉様と遊んでいるように」と、言って、部屋を追い出されてしまった。
私はむくれて、しばらく出入り口でウロウロしながら、心の中で鳥かごのある部屋までの道筋をなぞった。
すると、一人で迷い無く行ける事に気づいたのよ。
―――一人で行こう。
その思いつきは、もの凄く私の心を惹き付けた。
胸が高鳴るのを抑えて、お母様の部屋を出た。
すると、部屋の外にお姉様がいた。
綺麗な黒髪のお姉様は壁にもたれ下を向いていて、金色の幹に垂れる黒百合の様だった。
お父様譲りのアメシストの膜を張ったような瞳が、伏せた濃い睫の奥でしっとり光って濡れていた。
お姉様と初めて謁見する者は皆、まだほんの十前後の少女に見とれ、これは幻だろうかと目を擦る。私は、いつか誰かがお姉様をどこかへ連れて行ってしまうのではないかと、いつも心配していた。
お姉様を見ると、胸が甘く痛くなる。誰だって―――お母様以外は。
「お姉様、何をしているの?」
声を掛けながら、お姉様のサリーのほつれが目に入った。
そもそも、どうしていつもこの衣装なのだろう?
ヴェールの短さといったら、胸にも届いていない。
何故ならそれは、私よりももっと小さな子供用だったから。
けれど指摘するのもいけない気がして、お姉様がしゃべり出すのを待った。
「あの……お母様が心配で……お加減はどうだった?」
「お熱があるようだけど、お医者様もいらっしゃるから大丈夫よ。……お見舞いをしていく?」
私の控えめな誘いに、お姉様は首を横に振る。
「いいえ。きっと余計にご気分が悪くなってしまうから……お加減が大丈夫そうならいいの……」
私は「わかったわ」と、小さく囁き頷いた。
お姉様の言う通りだと、知っていたから……お母様はきっと、お姉様が来たら不機嫌になって酷い言葉を投げるに違いない、と。
その理由を、私はもちろん、お姉様も分からずにいた。
お姉様が長女で厳しく躾をしているのでしょう、と、侍女達は言っていたけれど、皆が「度が過ぎている」と感じていたに違いなかった。
踵を返すお姉様の背を、私は追いかけた。
お母様にどんなに冷たくされても心配して部屋の外で佇むお姉様に、私が優しくしてあげなくてはと思ったから。
だから思わず言ってしまった。
「今から、いいところに行くの。お姉様も来ない?」
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語っているのは二十歳前の少女だというのに、瞬きと瞬きの合間に小さな姫君がくるくるとおしゃまな語りをしています。
しかし、その内容はゾッとするものでした。
鳥かごに囚われた女性と、それを捕らえた宮殿の主、そしてそれを愛娘にコッソリと見せる妃。姫君は檻に囚われた人をうっとり眺めるのを楽しみとして、何の疑問も持っていなかった……。
荘厳な宮殿や宝石、財宝、珍しい動物―――そんなものはただの前置きだった。
聴衆達は皆、歪んだ悪夢の中の、美しく無邪気な悪魔を見ている気持ちになっておりました。
私は胸騒ぎが止まりませんでした。
愛しく思った唇が、言葉を紡げば紡ぐほど、闇に転がり落ちていく様な気になり、けれども聞くのを止められない。
これは物語だと、皆が自分に言い聞かせました。
そして良心がある者は、これが誰の話でもなければいいと思ったに違いありません。