あなたが故郷を語ったように
雲一つ無い、青い夜でした。
幾つも瞬く夜空の星が、静かで平らな水面でも煌めいています。
その中を泳いで来た彼の身体から零れ落ちる水滴は、流れ星のようです。
昨夜の事がありましたので、わたしはロキ様が今夜ここへやって来られるとは全く思っていませんでした。
ですので、「どうして」と声を出し驚きを隠す事が出来ませんでした。
「何がですか?」
ロキ様は、髪から水を滴らせて首を傾げられました。
長い前髪をかけた右の耳で、銀のピアスが濡れ光って揺れています。
その片割れを、自分が持っているのだと思うとくらくらします。
こっそりと賜ったピアス。わたしはそれに施されたミル打ちの数まで覚えてしまいました。
「もう来て頂けないかとばかり思っておりました」
「毎夜来ますとお伝えしたはずです」
「お、怒らせてしまったので……」
ロキ様はいつものように優しく微笑まれました。
そして、長い足でチャプンと水面を蹴り、柵にしなだれてわたしに問いました。
「ラタは、いつ・どうやって俺を怒らせたのですか?」
「昨夜身に余るお誘いに従わなかった事と、今夜わた……サンパギータが、あなた様の語り比べの邪魔をした事です……」
「人生を変えてしまうような誘いをどうするかは、ラタの自由です。サンパギータ様の語りでラタに腹を立てたりしません」
「で、でも、昨夜、ロキ様はお怒りでした」
「サンパギータ様に嫉妬しただけです」
ぱしゃん、と、つま先で水面を弾きながら、ロキ様はそう仰って俯かれました。
わたしはロキ様が嫉妬などという感情を持っている事に驚き、言葉を失いました。
この人があの感情を持っているのなら、と、再び取り返したくなります。
「サンパギータに?」
「ええ。サンパギータ様の為に、俺と共に生きる道を断とうとなさるのだから……そうはさせませんが。ラタ、ここへおいで。話をしましょう」
ロキ様は、自分の座っている横の床をポンと叩いて、わたしをお誘くださいました。
微笑みに誘われて、そろそろと彼の横へ座りました。すぐ横にロキ様がいらっしゃる。ただそれだけで幸せでした。
「話……語りでしょうか。わたしは上手くなくて……」
「いいえ。今夜は星がたくさん出ていますね、といった、そういう他愛のない話をしたいだけです」
「どうしてでしょうか」
「話をして、ラタの事をもっと知りたいからです」
わたしはそれを聞いて、魂を縮こまらせました。
以前にもお伝えしましたが、わたしは自分の事を一番知られたくないのです。
「奴隷以下の女というだけでございます」
「流れ者の俺が、階級の事をとやかく言えませんよ。サンパギータ様のお世話はいつからされていたのですか?」
「……八つくらいのころから……です」
そう答えた後、ズキン、と頭痛がしました。
サンパギータのお世話係になる前の事を思い出そうとすると、こうして身体が拒否をするのです。
思い出してはいけない。誰にも言えない、と。
すらすらと思い出せるのは、心に留めた物語だけ。
「それまでは、どちらに? ご両親とは引き離されたのでしょうか?」
尋ねるロキ様の声が歪んで聞こえます。
ズキン、ズキンと頭痛が強くなり、わたしは頭を抱えました。
「どうしました? 気分が優れませんか?」
「いえ……大丈夫です。申し訳ありません……幼い頃のサンパギータのお話にしませんか? サンパギータは、それはそれはとても愛らしい少女で……」
サンパギータの事を話し出したわたしに、ロキ様は呆れた様にお笑いになられました。
「またサンパギータ様ですか……ラタの話がききたいのですが」
「わたしの話などありません……サンパギータが、今までのわたしのすべてです」
「……サンパギータ様が羨ましくて死にそうです」
死という言葉を聞いて、わたしはゾッとしました。
もしもロキ様が死んでしまわれたら、わたしはロジータのように病になって死にとうございます。
「ロキ様が死んでしまったら、わたしも死にます」
思わず口に出して宣言すると、ロキ様は訝しげにわたしの顔を覗き込み、唇を歪められました。
「あなたは俺が死んでも、サンパギータ様の為に生きますよ」
「でも……でも、必ずどこかが死にます……」
「ふふ、ありがとうございます。では、その死んだ欠片は私の骸の側へ来てくださるのですね」
「はい……」
そう出来たなら、夢のようです。
「そうしたら、二人でサンパギータを咲かせましょう」
そう出来たなら、夢に違いありません。
サンパギータの名を囁きながらも、ロキ様へ愛を誓えるなんて。
「けれど、死なないでください。長く幸せに生きて欲しいです」
「俺は、生き続けるならあなたが隣にいて欲しい。ああ、早く宝石を手に入れねば……」
ロキ様がそう仰ったので、わたしは俯いて唇を小さく噛みました。
――――ロキ様、あの宝石はサンパギータのものです。
心の隅から、そんな声がしました。
サンパギータは語り比べが終わったら祀り上げられる。その時、額の宝石を取り戻していれば、神性に信憑性が得えられるのではないかしら。だとしたら、サンパギータが迎えるその日と、ロキ様が去るその日を引き延ばしているだけでは駄目だ。
――――わたしは、彼に勝たなければいけない。
「どうしましたか、そんな顔をされて」
どこにそんな勇気があったのか、わたしはランタンの淡い灯りを受けて香るように微笑むロキ様へと真正面から向き合っていました。
わたしの決意を露とも知らない彼は、無防備に優しく微笑まれています。
本当に、言葉を失いそうになるほど麗しい方です。
けれど、わたしは言葉を失ってなどいられません。
物語らねば。
ロキ様より多く。
「ロキ様」
「はい」
「あなた様は語り部ですね。聞いた物語をお忘れにはなりませんね?」
「もちろんです」
「……サンパギータの語る物語も?」
ロキ様は真面目な顔で頷かれました。
そして、星が瞬くよりも美しく、一つ瞬きをしてお答えになられました。
「特に忘れるはずがありません」
「島へ物語を持って帰られるのですか?」
「ええ、もちろんです」
どこかでコロコロ蛙が鳴きました。ちゃぷんと水の跳ねる音。
水面に浮く無数の水花と星が、ゆらゆら揺らめいておりました。
*
夜が更け、ロキ様が帰ってしまわれると、わたしは早足に部屋へと戻り、眠るサンパギータの寝顔を、覗き込みました。
金を塗したような肌と髪が、僅かな灯りにも煌めいています。
珊瑚色の唇には真珠のような艶があり、そこから漏れ出る吐息で、わたしは生かされてきました。
わたしがわたしであると証明する、たった一つの拠り所「物語の記憶」の、たった一人の聞き手。
わたしはお返しをしなくてはなりません。
「神々が……『神々が、告げよと仰りますゆえ広めましょう』」
言い慣れた口上が、しっくりきませんでした。こんな事は初めてです。
言葉を出せずにいると、サンパギータが薄く瞳を開いて、わたしを確かに見つめました。
わたしは込み上げるものを抑えて、微笑みました。
「わたしの……『わたしの女神へ贈ります』どうか、あの人と共に島へ……」
わたしは囁くように呟き、サンパギータへ物語を語り始めました。
それは物語でしたが、幾つもわたしの欠片を散りばめたものにするつもりでございます。
わたしの事を知りたいと、仰ったので。
決して忘れないと仰ったので。
サンパギータと出逢う前の事は語れないけれど、出逢った後の十年間の事をたくさん物語にしよう。
わたしはわたしの一部を物語にして、ロキ様の島へついて行こうと考えたのです。