彼女の名は花の囁く純白の契り
サンパギータが見事に語った後は、ロキ様の番でした。
もはや、物語を持つ者は宮殿に二人だけの様です。
ラアヒットヒャ様は、こんな結果になると全く予想していなかったでしょう。
既に何日も前から、目に苛立ちと焦りをチラつかせておられました。
きっと、宝石を手放さなくてはならない日は今日か、明日か、と、ヒヤヒヤされていらっしゃるに違いありません。
それでも、語り比べの魅力に魅了されていらっしゃるご様子。
さぁ、宮殿の主を脅かし同時に魅了する声が語り始めました。
「死別の恋が語られたので、私は死別してもなお愛し合う恋人たちの話を語りましょう。今宵はサンパギータ様へ、御身の名が持つ物語をささげます。ここにおられる何名のお方がご存じでしょうか。彼女の名が茉莉花を呼ぶ異国の言葉だと」
名付け親のラアヒットヒャ様が、存じているとばかりに頷かれます。
シヴァンシカ妃は不快気に席を立ち、宴の間の廻廊に置かれたラタンソファへ深々と身を沈めてしまわれました。
数人の召使いが扇や水タバコなどのお道具やお食事を抱え、悲しそうに付き従っていきます。
きっと、ロキ様の語りを聞きたかったのでしょう。
「ロキラタ様、わたくし、知っていますわ!」
母の気分を余所に、ファティマ姫は嬉々として手を上げました。
わたしは、彼女のめげない心を少し羨ましく思います。
ロキ様はファティマ姫へ、柔和な微笑みをお与えになりました。
その微笑みを見た貴婦人方は、皆「ほぅ……」と蕩けそうになっておいでです。
けれどわたしは、ロキ様がゾッとするような微笑みをする方だと知っています。もしも彼女たちがあの微笑みを見たら……きっとその時こそ、いよいよ心を完全に奪われてしまう事でしょう。
彼に牙の様な歯があるのを知っているのは、わたしだけです。
ですので、ファティマ姫がロキ様に微笑みを向けられても、わたしの心は凪いでいました。
「姫は博識でいらっしゃいます。では、名自体が愛の言葉だという事はご存じでしょうか」
きょとんとして首を傾げるファティマ姫へ、ロキ様は再度微笑み、語ります。
「茉莉花をサンパギータと呼ぶ国は、わたしの故郷の島や、この土地と、同じようにあたたかい所です。赤い絹糸でくるりと一緒に結ばれている位置なのだと想像していただければ、遠い異国といえど日々の営みを容易に想像出来ましょう。それでは、」
ロキ様がサンパギータの方へ跪き、頭を上げました。
皆彼に注目し、なんとなしに居住まいを正します。
「『島の女神へ贈ります』」
ロキ様の穏やかな口上が、宴の間をしっとりとさせました。
今夜の物語はきっと紫色の露の様な物語でしょう。
そう分かってしまう程、ロキ様は口上から相手の心を掴みます。
楽しい話、勇ましい話は快活に。
悲しい話、しんみりする話はしっとりと。
と、いう様に語る前から聞き手の情緒を、たった一言で開くのです。
本当に、どうしてこんなにも優れた方が世にいらっしゃるのでしょう。
目の前にしても信じられない時があるのでした。
それにしても、と、わたしは唇を引き結びます。
わたしがサンパギータに先ほど語らせたのは、悲劇でした。
同じ感情を引き出す物語で対抗されたら、わたしがロキ様叶うわけがありません。
ロキ様はきっと、「邪魔をするな」と、怒っていらっしゃるのですね。
わたしの心の痛みを余所に、物語が始まります……。
****
彼の国の片隅で、花々が咲き誇る芳しい大地を竹の柵で分断し、バリンタワクとガガランギンという二つの集落が長くいがみ合っておりました。
バリンタワクの領主にはロジータというとても美しく優しい娘が、ガガランギンの領主にはデルフィンという逞しい息子がおりまして、あろうことか、この若い二人はある時竹の柵越しに恋に落ちてしまいました。
燃え上がる恋心を誰にも止めることはできません。
満月の夜になると、二人は長く連なる竹の柵の一番端で密かに会うのでした。
そんなある日、二つの集落の間で事件が起こりました。
集落を分かつ竹の柵が壊れていたのです。
バリンタワクの領主であるロジータの父が、すぐに竹の柵を作り直させました。
そこでデルフィンの父ガガランギン領主は、新しい柵の様子を偵察に行かせます。
すると然もありなん、『バリンタワクの兵士達が今までよりも五メートル分ガガランギン側に柵を作っている』と報告を受け、激怒しました。
対して、激しい抗議を受けたバリンタワクの領主は、そんな卑怯な事はしていないと激怒しました。
敵対する集落は睨み合い、とうとう戦争となってしまいました。
激しい戦いが何日も続きました。
多くの命が失われ、ロジータの愛しい人デルフィンもまた、深い傷を負いました。
彼は昏睡状態に入り朦朧とする意識の中、従者に最後の頼みを告げました。
「自分が死んだあと、いつもロジータと会っていた竹の柵の外れに埋めて欲しい」
こう告げるとデルフィンは息を引き取りました。
恋人の死を知ったロジータもまた悲しみから病に倒れました。
死を前にしたロジータは、最期の力を振り絞って懇願しました。
「お父様、わたくしの亡骸を、竹の柵の外れに眠っているデルフィンの横に埋めてくださいませ」
この悲しい争いは年月と共に風となっていきました。
集落の人々はいなくなり、土地を割っていた竹の柵は朽ち、それを祝うように香りの良い純白の花が咲き乱れました。
そして満月の夜に、白い花から囁き声が聞こえるようになりました。
花が風に揺れる微かな音に紛れて聞こえるのは『誓います……あなたに愛を誓います……』と繰り返し囁く声です。
その悲しくも熱い囁きを、彼の国ではこう発音します「サンパギータ、サンパギータ」と。
あまりにも不思議で、また、あまりにも悲しそうに愛しそうに囁く声なので、何も知らない誰かがその花の根元を掘り返しました。
すると、現れたのは寄り添うように埋められた二つの亡骸――ロジータとデルフィンでした。
白い花の根は、彼と彼女の口から生えていました。
ロジータとデルフィンは死んで埋められた後も、愛を誓い合い、純白の花を咲かせていたのです。
人々は恋人たちの愛情に打たれ、その芳しい純白の花を「サンパギータ」と名付けたのでした……。
****
彼が語り終えた後、宴の間には清純な花の香りが漂っているかのようでした。
皆「サンパギータ」と囁いたり呟いたりして、各々の思いを馳せています。
そうしつつも、話の種となったサンパギータへ注目をしていました。
不思議なサンパギータがこの悲しく美しい自分の名の物語を聞いて、どんな神秘的な反応を示すのだろうと、皆、興味津々でした。
わたしも同じで、サンパギータが小さな笑窪をつくったり、微かに吐息したりしないか注意深く期待をしていました。
しかし、サンパギータはいつも通りでした。
サンパギータは語り中は語り部を視界に入れている様子であるのに、語りが終わると瞳から焦点を失い特に何か反応を見せてはくれないのです。
もしかしたら、語り中に何かいつもとは違う表情や反応をしていたのかもしれませんが、すっかりロキ様の語りに魅せられてしまい、サンパギータの様子を見る余裕がありませんでした。
これでは、ロキ様がせっかくサンパギータへ語ったのにガッカリしてしまわれるかもしれません。
心配でそっと彼の方を見ると、彼はサンパギータではなくわたしを見つめていました。
そして唇を「サンパギータ」と動かしました。
わたしは思わず彼に習おうとしましたが、すぐに胸がつかえて俯きました。
わたしは、……わたしの「サンパギータ」が、余りにも重すぎ、彼に届く途中で落ちて割れてしまうと恐れたのでございます。
*
サンパギータとロキ様以外に語る者は現れなかった為、殊更早く宴が終わりました。
けれど、誰かへ「サンパギータ」と囁きたくなる夜だったのでしょう、皆それぞれのパートナーと寄り添い、いそいそと宴の間を離れて行きました。
今夜、サンパギータの名は幾つ囁き交わされるのでしょうか。
そしてその誓いの内幾つが本当の誓いでしょう。
ラアヒットヒャ様も、シヴァンシカ妃に「サンパギータ」と、囁くのでしょうか。それは随分皮肉な事に思います。シヴァンシカ妃はロキ様の語りを聞かなくて正解でございました。
わたしはサンパギータを連れて部屋に戻り、寝間着に着替えさせると、香油をほんの少し垂らした水で清潔な布を湿らせ、顔を拭いてあげました。
「サンパギータ、あなたの名前は愛の囁きだったのね」
サンパギータは、虫除けのお線香の煙が天井へ上がっていくのを見つめています。
「死んでから愛を囁くのは、どんな気持ちでしょう。……死んでいた方が気楽に言えるかしら。少なくとも、死にそうにはならないわね」
サンパギータは静かに目を閉じました。わたしの声なんて聞こえていないとでも言うようでした。
けれどいつもの事です。
わたしが微笑んで彼女の髪を撫でていると、部屋の扉が開きました。
召使いがサンパギータへの贈り物を届けにやって来たのです。
召使いたちの目の中には、相変わらず引力のある呪いと嫉妬が焼け焦げています。
それは精一杯の蔑みの視線となって、サンパギータを射貫こうとしましたが、矢の無駄遣いでございます。自分を蔑んでいないサンパギータをその矢で射抜く事は、端から不可能なのでした。
わたしは静かに召使いへ頭を下げて、贈り物を受け取りました。
少し前まで同じ呪いを持ち、慰めのようにすら感じていた彼らの感情を、懐かしく思います。
暗闇に淡く灯るランプのように安らぎ、更に、自分より大きな影を作り出すのでとても魅力的なのですが、わたしにはもう、彼らと同じ感情はありません。
圧倒的な光を前にして、ランプの灯りなど無いも同然。
わたしの光は勿論、サンパギータとロキ様です。
二人は影も作らぬほど、わたしを照らします。
「サンパギータ、サンパギータ……」
わたしはこの美しい人を呼ぶ度に、知らず誓っていたのかも知れない。
死んでからも誓い続ける事が出来るなら、わたしもどこかで花になりたい。
ずっとずっと、誓いを囁いていたい……。
そんな風に夢想していると、外から水音がしました。
わたしはハッと顔を上げ、バルコニーへ出ました。
僅かな灯りが落ちる水面に足を浸し、ロキ様がバルコニーの階段に腰掛けていらっしゃいました。
サンパギータのお話はフィリピンの伝説から引用しました。
色々パターンがあるそうですので、少し付け足し、脚色してあります。